真莉と遥 21




 電話を掛けるべきか否か、そんなことを数十分悩んで、結局藍は芹菜の家の番号を押した。
 単調な呼び出し音。それを聞き流しながら、何でこんなことしてんだ、と呟く。普段ならば、誰かの家に電話を掛けることはない。おかしさが滲んで、薄く笑う。
 呼び出し音が途切れる。受話器から、隼斗の声がする。
『はい』
「長谷部、成瀬いるか? 話がある」
『ああ、ちょっと待って』
 すぐに、受話器を持ち変える音がした。それから、いくばくか機嫌の悪そうな声。
『朝霧、何の用よ』
「聞きたいことがあって電話した」
 聞きたいことって何よ、と芹菜が呟くのが聞こえた。きっと、今頃彼女の眉は寄っているのだろう。それを想像しながら、藍は告げる。
「昨日、止めただろ。俺が真莉に声かけようとしたの。あれ、何でだ?」
 問うと、ああそれと単調な声がする。感情のない、雛とは違う声で彼女は言う。
『訊かないほうがいいって思ったのよ。ただそれだけ。誰だって、突付かれたくないことの一つや二つはあるでしょう? あの子の場合、あんたが言おうとしてたことがそうだと思ったの』
 だからよ、と彼女は黙り込む。ほんの数秒沈黙が訪れて、『じゃあ、切るわよ?』と言われた言葉に藍は頷いた。
「そうだな。また明日」
 ぷつりと、電話が切れる。単調な電子音を鳴らす受話器を置いて、藍は溜息を吐いた。

 真莉が、何かを抱えている。それは分かっているのだ。けれどそれを問うことは芹菜に止められ、藍は彼女が抱えているものを知らない。

(真莉……)
 また月曜に、そう言って泣き笑いのような表情を浮かべた彼女。金曜の放課後に、楽しそうに笑っていた彼女とはあまりにも違う、陰のある笑み。
 予感がある。彼女は、義兄であるという出雲昴と、良好な関係を築けていない。そしてそれは、おそらく他の家族とも。
 他人の事情に踏み込む。そんな覚悟を持っていない藍は、彼女に聞くことが出来ない。芹菜が藍を止めたのは、ある意味では正しいのだ。
 溜息を吐いた先で、日が沈もうとしていた。



 朝霧藍も、長谷部隼斗も、成瀬芹菜も消さないと宣言して、一日経った。じい様に逆らって、その結果真莉にもたらされたのは謹慎処分。
(ゆるすぎるのよ、馬鹿)
 遥とは引き離された。けれど、彼がいるであろう場所は想像がつく。そこに行くべきか否かの決断を一瞬で済ませて、真莉は部屋を出る。
 一階にある自室から出て、廊下を歩く。角になっている行き止まりに、地下へ下りるための扉がある。それに手を掛けて、そっと地下へ降りる。
 灯りなど一つもない地下は、当然のように暗い。何か持って降りてくるべきだったかな、と呟いて首を振り、階段を降りる。
 見えなくても、どこに段差があるのか真莉は知っている。躓くことなく階段を降りきって、灯りのない部屋の奥に向かう。その頃には、地下の暗さに目が慣れている。部屋の奥、壁に背を預けて座っている少年を見つけた。
「遥……」
 声をかけると、彼が顔を上げた。真莉の顔を見て、驚いたように目を瞠った彼は壁から背を起こす。真莉、と呟かれた声が掠れている。
 冷たい畳に膝を着く。手を伸ばそうとして、結局止める。彼の隣に座って、真莉は呟く。
「ごめんね、ずっと黙ってた」
「いいよ、それより、大丈夫なのか?」
 彼の言葉に首を傾げる。遥、と問うと、彼の手が上がる。そっと真莉の髪を梳いて、彼は呟く。
「叩かれてたし、掴まれただろ。大丈夫なのか?」
 ああ、それと呟く。彼の手を包んで、大丈夫と囁くと遥が顔を歪める。泣き出す寸前の子どもの顔だ。
「本当に大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。ちょっとだけ、痕残ってるけど触らない限りは痛くないよ」
 だから平気、そう言って彼を見上げる。遥の手が、記憶にあるものよりも大きい。何年会ってなかったんだろうと考えて、手を放し、そして問う。
「遥こそ、平気? 義兄さんのことだから、容赦なんてなかったでしょ?」
 宣言したあと、真莉はじい様に罰を受け、遥は義兄に連れ出された。組織の犬となっている彼の容赦のなさは、真莉も知っている。だから、心配して彼を見ると、遥はくしゃりと笑う。
「一応、怪我はしてない。真莉のほうが怪我多いんじゃないのか?」
「私は大丈夫」
 慣れてるから、と呟いて首を振ると、遥の手が頭に乗る。馬鹿だな、と昔のように言われて苦笑する。
「うん、馬鹿なの。ごめんね」
 そっと目を閉じる。目を閉じても、雰囲気で分かることがある。遥は疑問を抱いていて、それを問うべきか悩んでいる。
 だから、真莉は彼を見上げた。遥、と声をかけて彼を見る。
「いま、遥が気にしてること当ててもいい?」
 首を傾げると、真莉の頭から彼の手が退けられた。俺が気にしてること、と鸚鵡返しに尋ねて来る彼に頷いて、真莉は小さく笑う。
「私が消せって言われてる三人、誰なんだろうって気にしてるでしょ?」
「……まぁ、多少は気になるけど。どうせ、友だちか何かだろう?」
 彼の言葉に小さく笑う。ちょっと違うの、と呟いて、真莉は壁に背を預けた。
「一人はね、部活の先輩。サボってばっかりで、本心なんて言わない滅茶苦茶なひと」
 言いながら、自分の言葉に内心で笑う。今まで、誰かにこんな話をすることはなかった。他人をどういう風に捕らえているかを語るのは、おそらく小学生の時以来だ。
「でね、もう一人は、その先輩の親戚のひと。多分、恋人だと思う」
 仲いいの、と付け足して、芹菜の顔を思い出す。隼斗の性格に振り回されるように見えて、実質主導権を握っているのは成瀬芹菜だろう。あの二人は、お互いにお互いを振り回してバランスを取っているように見える。
「あともう一人のひとは……」
 藍のことを説明しようとして、言葉に詰まる。彼をどういう風に表現していいのか悩んで、そして昨日のことを思い出す。
 灰色だった世界に、色を落としたひと。ずっとずっと、失ったと思っていた鮮やかな世界に引き戻してくれたひとの顔を思い出して、俯く。
「もう一人のひとはね、空気の綺麗なひとなの。じい様や、義兄さんと違って、凄く綺麗な世界で生きてるひと」
 色があるひとなんだよ、と呟いて顔を上げる。曖昧と言うよりも抽象的な言葉に、遥が疑問を抱くかもしれないと思って彼を見ると、彼は小さく笑った。
「何となく、真莉が逆らった理由が分かった」
「分かったの?」
「勘だけどな。どうせ、一番最後に言ったひとのこと好きなんだろ。違うのか?」
 問われて、真莉は首を傾げる。遥の言葉の意味を考えて、それでも結局ぴんと来なくてどうなんだろ、と呟いた。
「自分でもいまいち分からないけど、三人とも消したくないの。今までだって、そんなことしたくないって思ってたけど、それと違って、言われた瞬間に吐きそうになったし……やっぱり分からない」
 さっぱりだよ、とぼやくと遥が苦笑する。まだ、彼の家族が生きていた頃。きょうだいのように過ごした時のように、彼が言う。
「多分、俺が言ったことが当たってる。あとで分かるって、こういうの」
「根拠は?」
 何となく、面白くなくて問う。こういう感情もずっと忘れてた、と心のどこかで考える真莉の横で、彼はまた笑う。
「勘。最初の二人と、最後の一人だと声が違ったんだよ」
 だから、と遥が言う。自分では分からなかったことを言われて、真莉はもう一度首を傾げた。


 テーブルの上にマグカップが置かれた。その音に雛は視線を上げ、正面に座る男を見た。
「翔?」
 どうかしたの、と訊くと、彼は眉を寄せる。まだ中身の入ったままのマグカップをもう一度持ち上げて、彼は「充から聞いたんだが」と口を開く。
 充、という名前に眉を寄せる。彼の口から語られることが多い名前だ。ほぼ間違いなく、土師充のことだろう。けれど、雛は彼の話が出るたびに思うのだ。また、何かが起きるかもしれないと。
「土師さんがどうかしたの? もしかして、隼斗が何かしたとか?」
 もしそうならば、小言の一つや二つ言わなければならないだろう。土師の下に弟子入りに行った彼は『柚木』という血を持った人間の中で浮く。さほど苦労はしていないだろうが、元々他人の感情を引っ掻き回す性質だ。その最たる被害者が妹であることは分かっているが、もしそれ以外にも迷惑をかけているという話が出てくるのならば、雛も小言を言うなり、迷惑を掛けられている方に謝りなりしなければならない。
 だから、出来れば違う話であって欲しいと思いながら翔を見る。けれど、違う話であったとしても出来る限り異能者としての充は関係ない、世間話のような話であることを祈ってしまう。
 その感情を、翔も見透かしているはずだ。既に冷めたであろうコーヒーを一口飲んで、彼は溜息交じりに言う。
「芹菜が、調べ物を頼んだらしい」
「芹菜が? 隼斗じゃなくて?」
 土師充と、成瀬芹菜はさほど親しくない。必ず、間に誰か入るのだ。二人だけで会話しているところなど見たことがないし、お互いそんな考えもないだろう。親しくないというよりは、親しくする理由も必要性もない二人。そんな関係の相手に調べ物を頼む、その違和感に雛は眉を寄せる。
「なんで芹菜が?」
「さあな。多分、調べ物が得意なやつって考えて真っ先に充が出て来たんだろう。それか、隼斗の入れ知恵だな」
「……でも、それがどうかしたの?」
 ただの調べ物ならば、充は翔に言わないはずだ。そして、翔も雛に言わない。何か、嫌な話になるのではないかと緊張しながら彼の言葉を待つと、小さな溜息が響く。
 正直に言うと、と彼は前置きして言う。
「俺にも詳しくは分からない。ただ、芹菜が頼んだのが『月森って家を調べること』で、その理由が『何かあるんなら朝霧を関わらすべきじゃない』だったらしい。どう思う?」
「どうって…………」
 手元に置いていた自身のマグカップ、その表面を撫でる。既に陶器の冷たさしか返してこないそれに入っている紅茶はきっともう冷めている。芹菜と、それから朝霧という苗字。
「まず、その朝霧っていうのが朝霧藍なのかどうかってことが重要な気がする。もしそうなら、その次に問題なのは月森って子。私としては、あの子たちが考えて行動してるならそれでいいと思うけど」
「多分、十中八九朝霧藍だろう。月森のほうはさっぱりだが、多分あいつらはあいつらで面倒に巻き込まれる」
 確証は、と聞き返すと翔は薄く笑う。雛にとって見慣れた、強者の顔。師匠でもあり続けた男は笑って告げる。
「充が調べた限り、月森の裏には何かいるらしい。どうせ、朝霧はそれを何とかしようとするんじゃないか?」
 彼の言葉に雛は溜息を吐く。ほとんどまともな会話してないでしょうに、とぼやくように言っても、翔は笑っている。まぁ、ありがちだよな、面倒事という彼はおそらく藍や芹菜、そして隼斗に手を貸さないだろう。それが予測出来て、雛は小さく呟く。
「本当、性格悪くなってるわよ、翔」
 

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