真莉と遥 20




 目を閉じていると、唐突に部屋の扉が開いた。じい様がお呼びだ、と告げる義兄の声に目を開けて、真莉はベッドに座る。
「行きたくない」
 短く告げる。行きたくないの、と呟いて溜息を吐くとこつりと義兄が足を進める音がした。ベッドの横まで歩いた彼は真莉の左腕を掴み、力任せに立ち上がらせる。
「いいから来い。じい様がお呼びなんだ」
「……っ、行きたくないの」
 義兄の目を睨む。腕を掴む手を振り払おうとして、逆にその手も掴まれる。両手を掴んで、彼は囁く。
「来ないと、あれも消すらしい。それでもいいのか?」
 あっさりとした言葉に、真莉は息を呑む。じい様や義兄、組織の仕組みに違和感など覚えないひとが『あれ』と呼ぶひとを、真莉は知りすぎている。だから、ちょっと待ってよ、と呟く。
「まさか、いま、ここに連れて来てるの? 私だけじゃなくて、遥まで?」
 呟いて、そして懐かしい名前だと思う。ここ最近、口に出すことのなかった名前だ。真莉のせいで、ここに捕らわれて動けなくなったひと。
 否定して、と思いながら義兄を見る。いつもと何も変わらない、情など何もない声で彼は頷き、告げる。
「小牧遥が来ている。お前がじい様の呼び出しに逆らうなら、すぐにでも消すつもりだ」
 どうする、と彼が問う。冷徹なまでに組織に慣れた男を見上げて、真莉は唇を歪める。
「最低よ。いままでずっと、人質にして、これからもそうするなんて」
 義兄の手を払う。はるか、と声がした。その、迷子になった子どものような声が自分の声だと気付いて、真莉は目を閉じる。
 分かっているのだ。彼を消されたくないのなら、真莉がじい様の部屋に行くしかない。彼に対して、僅かとは言えない負い目があるから彼は人質としての価値を持ってしまう。
 一歩、足を進める。義兄の隣をすり抜けて、じい様の部屋に向かう。扉を叩いて、真莉は部屋に入った。
「お呼びでしょうか、じい様」
 呼んだよ、何回も、とじい様が告げる。それに僅かに俯き、そっと頭を下げる。視界の端に、じい様でも義兄でもない男がいるのが見えた。それが誰なのか、真莉は分かっている。
 顔を上げて、彼を見る。数年ぶりに会った彼の姿は真莉の記憶に残っているものとは違う。当時の面影を残したまま、子どもであることを止めようとしている彼に、真莉は声を掛ける。
「久しぶり、遥」
 長い間、言葉にしなかった名前。彼に、罪悪感と同情を抱いていて、鮮やかだった過去に執着していることを隠す為に、彼の名前を口に出すことはしなかった。時折、彼から電話が掛かってきても、出来る限り取らないようにしていた。彼は、真莉と過去を繋ぐ。彼と話してしまえば、現実が嫌になって耐え切れなくなるのは分かっていたのだ。
 だから、彼を見て淡く笑う。ただ、懐かしいひとに会っただけの表情に見えるように気を付けて笑った真莉の前で、彼の顔が歪む。
「真莉……、何で……」
 彼が言おうとしている言葉は分かっている。だから、そっと首を振った。一歩、前に出ようとする彼の腕を部屋に入ってきた義兄が掴み、その場に止める。
「動くなよ。一歩でも動けば、反逆者と見做す」
「……っ」
 遥は、昴を睨む。けれど、睨まれた義兄はそんなことを気にせずにじい様に視線を動かす。
「じい様、どうぞ」
 ああ、とじい様が頷く。部屋にいる四人の中で最年長である男は椅子の横の杖を持って立ち上がる。杖で身体を支えながら、彼は真莉を見下ろした。
「真莉、お前を異能者だと知っている三人を消す気は?」
 きっと、試されているのだと感じた。ここで、どう答えるか。それによってじい様や義兄は真莉の価値を判断し、そして遥を巻き込む。感情のない二人分の視線と、純粋に心配そうな一人の視線。それを感じながら、真莉は口を開く。
「彼らを消す気なんて、ないですよ。だって、まだ『月森』が何であるかは知られてないんですから」
 そっと笑う。知られるのは時間の問題だ。それを、真莉だって分かっている。ただ、彼らを消したくないのだ。真莉とは違う、色の付いた世界で生きる彼らを消したくない。
 じい様が、溜息を吐く。真莉、と出来の悪い子どもを呼ぶような声で真莉を呼んだ彼は溜息交じりに告げる。
「ここに、小牧遥を呼んだ理由は分かるのか?」
「ええ。人質でしょう? 私に命令を聞かすための」
 それ以外に、理由などない。あるはずがないのだ。それを隠さずに笑う真莉の前で、じい様が首を振る。
「違うよ、真莉。彼は確かに人質だが、今日は違う」
 じい様の言葉に真莉は眉を寄せた。そのまま義兄と、彼に腕を掴まれている遥を見る。自分と同じ歳の、全てを失ったひと。
「どういう、意味ですか?」
 問いながら、思考する。遥は人質だ。それを、じい様も認めた。けれど、今日に限っては違うという。始末するべき対象として彼の名前が上がることがないのを真莉は知っているし、それは義兄やじい様も変わらないだろう。小牧遥は、組織に関わらない。ただ、真莉に対する人質であるだけで。
 もう一度、じい様が溜息を吐く。血は争えないな。あの男に似て、肝心な時には鈍い、そう零した彼は真莉を見て告げた。
「父と入れ替わって四年。その間の罪を、全て暴こうか。人質として、捕らわれていた彼に。お前が置かれている現実を、何一つ聞かせようとしなかった小牧遥に、月森真莉という女の罪を、全て告げよう」
 その言葉に真莉は目を瞠った。真莉だけではない、義兄に腕を掴まれたままの遥も同じような顔をしている。どういう意味だ、と彼が叫ぶ声が遠い。
 血の気が引いていく。灰色の世界が暗い。冷たさが全身を支配して、じい様や義兄の声が聞こえなくなる。色を失った世界で、遥が向けてくる視線だけが強い。

 いつの頃からか存在する組織は、『月森』を利用していた。代々、一人の異能者を駒として、組織の命令を聞かす。月森の異能者に下される命令はその大半が裏切り者の処分、それ以外も全て、命を奪う内容ばかり。そして、次代がある程度成長し、駒として使えると判断すれば月森の異能者を殺して、代替わりさせる。
 それに、月森は反逆していた。組織を潰す為に反逆して、そしてほぼ必ず失敗していたのだ。反逆者となると予測出来ていても、組織のトップは月森を駒として扱うことを止めない。
 真莉の母は、優しすぎる父を駒として扱われることに我慢出来なかった。私が代わりにやると言って、処分するように言われた裏切り者たちを逃がし続けていた。それも、当然のように数年でばれて、母は消された。そして、父が駒として扱われるようになった。優しすぎた彼も母と同じように裏切り者たちをこっそりと逃がし、数年で組織に消された。
 そして、真莉があとを継がされた。嫌だと言っても、無視され、反抗ばかりを繰り返す彼女に命令を聞かすため、人質として遥が組織に捕らわれた。命令を聞かなければ、あれを消すよ、そんな風に言われ続けて、真莉は手を汚し続けた。四年間、ずっと。

「人質がいるからか、真莉はよく働いたよ。たった四年で、父や母よりも成果を上げている。本当にいい子だ。いい子だったよ、真莉は」
 最近はまた反抗癖がついてきたようだが、とじい様が締め括る。灰色の世界で、寒気に全身を支配された真莉の耳に「嘘だろ、……」と呟く声が聞こえる。
 そっと、顔を上げる。泣き出しそうに歪んだ遥の顔を見る。酷い顔だ。そう思って、真莉も顔を歪めた。ずっとずっと、知られたくなかったことを知られた。真莉も遥も、泣き出す寸前の子どもの顔だ。
 はるか、と声を掛ける。近いはずなのに、遠い場所に立っている少年。はるか、と声をかけて、真莉はそっと微笑む。
 ごめんね、と昔言った言葉を繰り返す。頬を涙が伝う感触があった。見上げた遥の顔も、同じように涙が伝う。じい様も義兄もいなければ、きっと真莉は彼に手を伸ばしていた。抱きついて、泣きながら謝った。けれど、じい様と義兄がいる場でそんなことは出来ない。ほんの僅か、過去に執着していて、それを繋ぐ遥にも同じ気持ちを抱いていると知られれば、彼の自由は今以上になくなってしまう。
 そんなことは、駄目だ。組織に縛られるのは、真莉だけでいい。月森の血を持っていない彼は、ここから遠い場所にいなければならない。
 だから、ごめんねと呟いて、俯いた。泣き出さずにすむように俯き、頬を伝った涙を拭う。
 息を吸って、呼吸を整える真莉の前で、遥が呟く。何でだよ、そう呟いた彼は腕を掴む昴を睨み、叫ぶ。
「なんで真莉が、そんなことしなきゃならなんだよ! お前らにとって、『月森』は何なんだよ!」
 義兄が溜息を吐いた。遥の腕を掴んだまま、彼はあっさりと告げる。
「駒だよ、月森家の人間は。それ以外の何でもない。そういう意味じゃ、小牧も駒の候補だね。月森の血が絶えれば、その次は小牧にしてもいいかもしれない」
 ひとの情などない顔で、義兄は笑う。じい様、これどうなさいますか、と問う彼に人間らしい優しさは皆無だ。
「もう要らん。元に戻しておけ」
 それに義兄は頷く。遥の腕を引っ張ったまま部屋を出て行こうとする彼のあとを、真莉も追いかける。けれど、彼女の左肩をじい様が掴んだ。昨日から痛んだままのそこを容赦なく掴まれて、真莉は小さく悲鳴を上げる。
「真莉はまだ駄目だ。話がある」
 じい様の言葉に首を振る。真莉は、もう話すことなどない。じい様の相手をするよりも、遥を追いかけたほうがいいのだ。
「昴、さっさとそれを連れて行け」
「分かってますよ、じい様」
 足音が遠ざかる。遥、と呟いて真莉は彼の後ろ姿を見る。まるで罪人のように連れて行かれる彼の姿に涙を流す。嫌だと、誰かが叫ぶ。
「遥、はるか、待って、遥!」
 叫ぶように、声を掛ける。左肩の痛みが消える。世界に色はない。ただ、灰色で。その灰色の世界で、遥が振り向く。彼の唇が、真莉の名前を呼ぶ。だから、足を踏み出す。
「義兄さんも、待って! 遥を、連れて行かないで! あそこに、戻さないでっ!」
 頬を、涙が伝う。きつく、左肩を掴まれる。真莉が足を進めないように、この場に縛り付けるように掴まれた肩の痛みに顔を顰めて、じい様を見上げる。
「放して」
 短く告げた言葉にじい様の表情が変わった。出来の悪い子どもを前にするように溜息を吐いた彼は真莉の肩を放し、そして力任せに頬を叩く。
 その音に、遥が息を呑んだのが分かった。今更、こんなことで息を呑むのは遥だけだ。ぐらりと視界が傾いて、ふらついた真莉の腕を、じい様が掴む。容赦などなく、骨が折れても構わないと考えている強さ。悲鳴らしい悲鳴を上げないと決めていたはずなのに、真莉の喉から零れたのは悲鳴だ。
 足音が近付く。小牧、と義兄が咎める。走るように、急ぐ足音が真莉の近くで止まる。掴まれていた腕が消えて、その代わりのように後ろから肩を支えられる。
 真莉、と泣きそうな顔の遥と視線が合う。だいじょうぶ、そう囁いて、彼の腕を借りてまっすぐ立つ。
 ぴりぴりと緊張した部屋で、真莉はじい様を見上げる。組織のトップとして、長い間不動の地位にいるひと。真莉から全てを奪って、遥から家族と安息を奪ったひと。そのひとを見上げて、真莉ははっきりと告げる。
「私は、絶対に先輩たちを消さない。遥だって、消させない。あなたが何をしても、組織が何をしても、絶対よ」
 灰色の世界で、宣言した。  

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