月森真莉 18




 世界の色は、きっと灰色だ。
 重く暗い雰囲気の洋館。じい様の部屋で、真莉は息を呑んだ。
「いま、なんて……」
 普段ならば、敬語を使う。敬っていなくても、そうしないと波風が立つのだ。ある程度まで、組織に溶け込むようにじい様に敬語を使っているのに、それすら忘れた。
「もう一度言ったほうがいいのか? お前を異能者だと知っている三人、全て消せ」
 ひゅっと、息を呑む。三人全て、その言葉に彼女は拒絶を覚える。
「けれど、三人の内一人は一般人です。彼まで消せというのは……」
「三人とも、異能者だろう? 真莉、お前はいつからそんな悪い子になった?」
 じい様が視線を上げる。椅子に座ったまま、真莉を見上げるようにしながら見下す視線にたじろぎ、彼女は言葉を紡ぐ。
「彼は、私たちとは違うんです。ただ、偶然能力を持っただけで、家系には、何の関係もない……ほとんど、一般人と変わらないんです」
 言って、思い出す。体質のような、能力のような、どちらか判別できない力を持った、朝霧藍。異能者というよりも、一般人に近いひと。何も知らない、義兄とは違うひと。
「なのに、どうして……」
「彼は、異能者と関わりがあるのだろう? なら、いずれ『月森』は知られる。そうなる前に消さなければならないのは当然だ。昴からも、言われていただろう?」
 その言葉に、首を振る。結局、義兄は裏切る側なのだ。言わないと言っていた彼の言葉を信じるべきではなかった。けれど、彼に言われたことを実行する気など真莉にはない。
 なぁ真莉、とじい様が名前を呼ぶ。それに顔を上げて、じい様を見る。穏やかに、絶望しか与えないひとを見る。
「お前は、いつからか悪い子になったな。何人も始末したくせに、自分に近い人間を消すのは嫌なのか? ここ最近も、始末しろと言われても首を振ってばかりじゃないか」
「だって、そんなの、誰が好き好んでやるんですか……。じい様や、義兄さんの、欲の為に使い潰されるのをよしとするひとなんて……」
 じい様が立ち上がる。椅子から立ち上がった彼は真莉の前に立って、その右手を振る。
 乾いた音がした。義兄の時と同じように床に叩きつけられて、真莉は呻く。
「昴が踏んだのは左肩か……」
 言って、じい様が歩く。彼の椅子の横にあった杖。その先が真莉の左肩を叩いた。悲鳴を上げるには充分な痛みに、声を押し殺す。その代わりのように涙が滲んで視界が揺れた。
「本当に、悪い子になったな。昔はあんなにいい子だったのに」
 結局、血が悪いのかとじい様が呟く。それが、父のことを示しているのだと気付いた瞬間、真莉は肩に乗せられた杖を弾く。
「あなたが、私から奪ったんでしょう! 私から、父さんと母さんを奪ったのはあなたなのに!」
 じい様が溜息を吐く。出来の悪い子ども、それを見る目で真莉を見た彼はぽつりと呟く。
「彼らは、勝手に死んだよ」
「あなたが命令したからでしょう! 全部全部、あなたが私から取ったのよ!」
 だから、と言葉を繋げる。だから私は、と告げる声が、遠くから聞こえる。
「あなたが嫌いなの! あなたが頂点のここも嫌い! 『月森』を駒だとしか思わないひとも、皆嫌いよ!」
 言って、扉を開ける。走って玄関の扉を抜け、真莉は屋敷から出た。どこに行くかなど決めていない。ただ、重苦しい空気を吸いたくなかった。


 駅へ向かっていると、不意に芹菜が眉を寄せた。足を止め、「朝霧」と小さく呟いた彼女は顔を上げる。
「あんた、今日何かした?」
「なにが?」
「こっちに走って来る子がいるの。多分、あんたの知り合い」
 言われて、視線を動かす。駅の方角から、誰かが走って来る。それが真莉だと気付くと同時に、彼女は藍にぶつかった。
 ごめんなさい、と短く言って走り去ろうとする彼女の腕を掴む。顔を上げて、腕を掴んでいる藍の顔を見た真莉は目を瞠る。
「先輩、何でこんなところに……」
「それ、俺も言いたい。何でこんなところに真莉がいるんだ? 帰ったんじゃなかったのか?」
「……帰ったけど、いたくなかったんです、あそこ」
 肩を落として、彼女は告げる。俯いた彼女の髪が揺れて、顔を隠す。どう声をかけるべきか悩んでいると、隼斗が口を開いた。
「とりあえずさ、腕放したら? 別に、いきなり走り去るってこともないだろうし」
「あ、あぁ」
 言われて、腕を放す。力を失ったように真莉の腕が揺れ、小さな声が零れる。
「帰りたくないんです……、あそこ、嫌なんです……」
「……そっか」
 そっと、彼女の頭を撫でる。成瀬、と芹菜に声をかける。
「先に行っててくれ。俺は後から行く」
「そう言われて、はいそうですかって言うわけないでしょ。隼斗、ちょっと自販機まで走って飲み物買ってきて」
 四人分ね、と言う彼女に、隼斗は溜息を吐く。了解、と告げた彼が歩き出して自動販売機を探すと、真莉が顔を上げた。
「すいません、変なこと言って」
「いや、それはいいけど…………真莉、左の頬どうしたんだ? 赤いぞ」
 言うと、彼女は顔を逸らした。何でもないんです、と呟いて首を振った彼女に、藍は声を掛ける。
「何でもないって、本当にか?」
「本当、ですよ。大丈夫です」
 ちょっと寒いですけど、と彼女は笑う。どこか陰のある、数時間前とは違う笑みに違和感を感じて真莉、と名前を呼ぶと芹菜に腕を掴まれる。
「朝霧、追求禁止。隼斗が戻って来た」
「禁止ってお前……」
「いいから、止めときなさい。世の中、聞いていいことと悪いことがあるのよ」
 低く、彼女は囁く。それを受け入れて、藍が引くと、隼斗が姿を見せる。
「とりあえず、芹の分は紅茶。月森、ココアとほうじ茶どっちにする?」
「ココア、貰えますか?」
「はい。朝霧、ほうじ茶と緑茶どっち」
「緑茶」
 彼から飲み物を受け取り、道の端による。それぞれ蓋を開け、飲み物を飲む。
 藍の隣で、真莉がココアの蓋を開ける。ふんわりと甘い匂いが広がり、彼女が俯く。
「長谷部先輩」
「なに?」
「ごめんなさい、ココア」
「別にいいよ。あ、朝霧は百二十円忘れずに返して。芹と月森はいいけど、さすがに男相手に奢るのは嫌なんだよ」
「…………真莉、悪いけどちょっとこれ持ってくれ」
 真莉に緑茶を渡し、財布を出す。そこから百二十円取り出して隼斗に渡し、真莉から緑茶を受け取る。
「何で成瀬と真莉には請求しないんだ?」
「んー、あれだよ、女の子には奢る。奢りたい」
「百二十円分?」
「いや、千円ぐらいなら普通に大丈夫。三千円超えると微妙かな」
 基準が分からん、と言って緑茶を飲む。まだ温かいそれにほっと息を吐くと、少しずつココアを飲んでいた真莉が呟く。
「ごめんなさい、引き止めちゃって……」
「いいよ、これぐらいなら」
 俯いた彼女の頭を撫でる。走ったせいで乱れたらしい髪を直しながら、声をかける。
「あんまり気にするな。長谷部だって、むしろ奢りたいぐらいだって言ってただろ?」
「……でも、先輩たち帰るところでしたよね」
 ぽつりと、呟かれた言葉に芹菜が眉を寄せた。紅茶の缶を持ったまま、彼女は真莉に声をかける。
「月森、あんた気にしすぎよ。少なくとも、朝霧は気にしてないんだから」
「……成瀬、お前、容赦って物をどこに忘れてきた?」
「実家ね」
 言って、彼女は紅茶を飲む。隼斗が苦笑して真莉に一言告げる。
「月森、気にしなくていいから。芹、こういう性格なだけ」
「そう、ですか」
 少し、顔を上げて言った真莉の顔は暗い。日が沈んだ、夜の色。それを映した彼女の顔は蒼白く、藍はもう一度頭を撫でた。
 夜の色を含んで、彼女の髪は色を変えている。特に文句を言わず、されるがままになっている彼女は時折ココアを飲みながら溜息を吐く。
 その表情が、藍と別れた数時間前と全く違うものになっていることに違和感を覚えながらも、藍はそれを口に出せない。踏み込んでいいものなのか判断出来ない時は、口に出さないほうがいいのだ。
 不意に、真莉が顔を上げる。こつりと響いた、何かの音。その音を聞いて月に照らされた、色の白い顔から血の気が引いていくさまが藍にも分かる。
「真莉?」
 彼女の頭を撫でていた手を除ける。血の気を失った唇が小さく震えているのが見えた。本当に小さく、囁くよりも小さな声でやだ、と言葉が零れた。
 藍とは違う、冷たく細い指が袖を掴んだ。無意識に、縋るようにして袖を掴まれ、視線を下ろす。
「真莉?」
 もう一度声をかけても、彼女は応えない。少しずつ、コツコツという音が近付いて、その音の正体が靴音だと気付く。
 隼斗が眉を寄せる。理解出来ない何かを見るように真莉の視線を追いかけて、彼は小さく呟く。
「芹、正直に言うと状況が理解出来ない」
「そうでしょうね」
 さらりと告げて、芹菜は息を吐く。だってあんたそういうやつだもの、と笑う彼女の視線の先、夜の色に覆い隠された道の先から一人の人物が姿を見せる。
 その姿を見て、藍はそういうことか、と呟く。真莉が何を抱えているのか、藍は知らない。けれどその一端なら、見たことがある。
 出雲昴。真莉の義兄だと名乗った彼は四人の数メートル前で足を止め、笑う。
「朝霧君、迷惑を掛けた。じゃじゃ馬なんだ、真莉は」
 笑いながら言った彼に、藍は違和感を覚える。家族が家族を探す、そういう感覚ではなく、もっと違う何かで動いているような違和感。それに眉を寄せて、蒼白い顔の真莉を見る。数時間前の、楽しそうに笑う彼女ではなく、見たくないものを見るような顔の彼女から視線を上げて、もう一度昴を見る。
「一つ、聞いていいですか?」
「僕に応えられることなら、どうぞ?」
 笑う彼を見ながら、はっきりと声にする。真莉本人には聞けない、彼女の周囲に漂う違和感。それを、昴に訊く。
「何で、追いかけてきたんですか? 真莉を見る限り、自分で出てきたように見えるんですが?」
「ああ、それか。大丈夫、ただの家族喧嘩だよ。真莉が、じい様に逆らっただけだ。真莉、じい様が呼んでる」
 だから帰ろう、と彼は声をかける。それだけ聞くとごく普通の言葉に、真莉が首を振る。帰らない、と小さな声で拒絶した彼女の前に、昴は立つ。
「真莉、分からないならもう一度言うぞ? じい様がお前を呼んでるんだ。僕じゃない、じい様だぞ?」
 ひゅっと、彼女の喉が鳴った。いや、と首を振って拒絶した彼女の左肩を掴んで、昴は低い声で告げる。
「じい様が呼んでるんだ、お前に拒否権はない。それぐらい、理解してるだろ」
 他人には意味の分からない会話。それに真莉が俯き、昴の腕をそっと払う。分かった、と覇気のない声で呟いた彼女は顔を上げて笑う。
「すいません、迷惑かけちゃって。私、帰ります」
 月曜日に、と真莉は笑う。その顔が泣き笑いに見えた藍は彼女の腕を掴みかけ、芹菜に止められる。
「朝霧、あんた馬鹿?」
「馬鹿じゃない」
 腕を掴んでくる芹菜の手を払い、昴の後ろを歩く真莉に声を掛ける。名前を呼んで、振り向いた彼女の顔に言葉を失う。
 泣き笑いのような顔で、真莉は笑う。迷子の子どものような雰囲気で、はっきりと言葉を紡ぐ。
「大丈夫です。また、月曜に」
 はらりと、髪が揺れる。彼女の、茶に近い黒の髪。それが左目を隠し、表情を隠す。大丈夫ですよ、と繰り返す真莉は何かを抱えている。それを、問うために口を開こうとすると、芹菜が叫ぶ。 
「朝霧!」
 声に、驚いて彼女を見る。藍の下、真莉よりも高い位置にある淡いブラウンの瞳は聞くなと語っている。いつもよりも表情のない彼女に止められて、藍は口を開くタイミングを逃す。その間に、真莉の背は見えなくなっていた。
 

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