月森真莉 15




 重い扉を開けて、閉める。義兄や、じい様に見つからないように自室に戻ろうとして足を踏み出した真莉は、顔を上げて息を呑んだ。
「義兄、さん……」
 階段の上に、彼がいた。真莉を見下ろし、ふっと笑った彼は階段を降りる。かつり、かつりと足音が反響した。
 一歩、下がる。けれど、遅い。彼は階段を降りきり、真莉の右腕を掴む。
「話がある。来い」
 短く言った彼に引き摺られ、階段を上がる。二階の、義兄の自室。そこに連れ込まれると同時に腕を離され、真莉は義兄を見上げる。
「義兄、さん、なに……?」
「お前、僕の呼び出しを無視しただろう」
 息を呑む。ひゅっと、笛のような音が鳴った。深く、静かに怒りを燃やす義兄の顔を見ずに、真莉は「だから?」と問い返す。
 無視したのは事実だ。呼び出しの内容すら、彼女は知らない。震える携帯電話を見て、それを見ないことにしたのだ。知っているはずがない。
 義兄が、顔を上げる。彼の手が翻り、真莉の頬を打った。乾いた音が響く。
 ぐらりと、視界が傾く。手加減などなく、容赦など与えられていない強さで頬を打たれ、よろめいた彼女の頭を義兄の手が掴んだ。
 その感触を意識すると同時に、床に叩き付けられる。抵抗する間もなく、床に倒れた彼女の肩を義兄は踏む。
 短い悲鳴を上げた彼女の肩を、彼は踏み付けたままだ。骨を折ることはないものの、絶えることのない痛みで視界が滲む。
「なん、で……」
「言っただろ? お前と僕は対等じゃない。『月森』は駒で、僕たちはそれを利用する側だ。駒が反逆すれば、躾けなおすのは当然だろ」
「私、は……っ、駒じゃ、……」
 ない、と言う前に、僅かに靴を動かされる。その痛みで、真莉は言葉に詰まる。握った右手に、爪が食い込むのが分かった。
「駒だよ、お前は。『月森』に生まれたときから、駒でしかない。事実、お前の両親も駒だっただろ?」
 問われて、首を振る。義兄の立場から見ればそうかも知れない。けれど、真莉から見れば、彼らは優しい両親だったのだ。それを忘れず、首を振る彼女の肩から義兄の足が退けられる。
 その隙に、真莉は立ち上がる。部屋から出て行くために立ち上がったところで、義兄に髪を掴まれた。力任せに引かれる茶に近い黒い髪。父と同じ色のそれを、彼は引き寄せて嗤う。
 滲んだ視界、その大部分を占める義兄の笑みに、嫌悪感を抱く。
「どれだけ否定しようが、結局お前は駒だ、真莉」
 だから、と彼の唇が動く。聞きたくないと願う言葉を、はっきりと音にする。
「お前はここから逃げられない、永遠にな」
 髪を、放される。その代わりのように壁に叩き付けられて、息の詰まった彼女を見ずに昴は部屋を出た。ばたりと閉まる扉を眺めて、真莉は俯く。
(最悪…………)
 軽く、咳き込む。息を吐いて壁にもたれ、目を閉じる。ほんの数秒だけそうして、再び目を開く。
 床に落ちた鞄を持って、よろめきながらも部屋を出る。義兄やじい様、それ以外の誰にも会わないように気を付けて戻った自室に、彼女は鍵を掛ける。
 鞄を置いて、ベッドに倒れこむ。軽く咳き込んで、背を丸める。顔の前の右手に出来た小さな傷を眺めて「駒、か」と呟く。
 左肩を撫でる。踏みつけられたそこは、まだ痛い。痣になっている可能性もあるのだろうかと考えて、まだ制服だったことに気付く。上体を起こし、箪笥に手を伸ばして着替えを取って、真莉は溜息を吐いた。
 なるべく左腕を動かさないようにして着替える。脱いだ上着に靴跡が残っている様を見て、溜息を吐く。
「面倒なことしてくれたわね、本当に」
 上着に残った靴跡を消す。壁に掛けられているハンガーに服を掛けて、ベッドに倒れる。
(明日、早く行こう……)
 そう考え、背を丸める。掛け布団を引っ張って、彼女は目を閉じた。


 放課後になれば、靄の出現する場に行かなければならない。その事実を思い出して溜息を吐きつつも、藍は学校に向かう為に歩いていた。
(そもそも、七時に集合って言うのも微妙だよな)
 一度家に帰ってから向かうには僅かに時間が足りず、かと言ってすぐに向かうには時間が余りすぎる。どうやって空白の時間を潰すか悩みながら歩いていると、道の先に真莉を見つける。藍の少し前を歩く彼女は唐突に足を留め、くるりと振り向く。
 彼女の黒い瞳と、視線が合う。声を掛けようと思って口を開く前に、彼女が笑う。
「先輩、早いですね」
 立ち止まってそういう彼女の隣まで歩く。真莉も早いよな、と言うと、彼女は笑った。
「私は家族の顔見たくないから早く出てきただけです。どっちかって言うと、後ろ向きな理由ですよ」
「でも、早いのには変わりないだろ」
「どうでしょう? 先輩は、いつもこの時間ですか?」
 その問いに首を振る。今日は早く起きすぎた、と言って、真莉を見下ろす。
「今日、放送部行くのか?」
「? 多分、行きますよ。どうしたんですか?」
「いや、今日ちょっと用事があるんだけど、時間が微妙なんだ。時間潰しに何するか悩んでてな」
「あぁ、そういう時って悩みますよね。私でよければ付き合いましょうか?」
 さらりと告げられた言葉に首を傾げる。部活は、と問うと、サボります、と返される。
「ぐだぐだな会議しかしないの分かってますから。先に意見だけ言っておけば、出席しなくても大丈夫なんです」
 長谷部先輩とかそうやって逃げてますよ、と付け足して、彼女は藍を見上げる。
「そんなわけで、私でよければ付き合いますけど……どうします?」
「……じゃあ、付き合ってくれ、暇つぶし」
「はい」
 楽しそうに、真莉は笑う。じゃあ、放課後に校門で、と待ち合わせ場所を決める彼女を見て、藍も笑った。

「朝霧、楽しそうだったね」
 教室の扉を開けると同時に聞こえてきた声に、溜息を吐く。声の主は見るまでもない。
「長谷部、お前なんで早いんだ?」
「芹が早起きなんだよ。それで」
 言って、彼は教室の後ろの方にある芹菜の席を見る。そこに座り、話しかけるなと雰囲気を放ちながら自習している芹菜から視線を逸らして、藍も自身の席に着く。
「大体、楽しそうだったって何だ」
「月森と仲よさそうに学校来てたじゃん」
「……お前、暇なのか?」
 問うと、隼斗は頷いた。割と暇だね、と言って彼は頬杖をつく。
「で、実際どういう関係? ただの友だち? 先輩後輩? 実は惚れてる?」
「先輩後輩。最後の選択肢は何だ」
「ありそうだから。そっか、先輩後輩か。月森と同じ意見か」
「真莉にも聞いたのか?」
 呆れる、と付け足すと、自習していたはずの芹菜が顔を上げ、藍を見た。背中に突き刺さる視線に振り向き、「成瀬?」と訊くと、彼女は眉を寄せる。
「朝霧あんた、あの子と仲いいの?」
「……いや、普通に先輩後輩だぞ?」
「そんな情報どうでもいいわよ。私、あの子が異能者だって言ったわよ? しかも、家系に繋がってるはずの異能者だって」
 さらりと告げられた言葉に、眉を寄せる。教室には、藍を含めて三人しかいない。同じクラスの面々が登校して来るまではまだ時間がある。異能者や、異能の話をしても聞き耳を立てる者はいない。それを分かって会話を始めた芹菜に、藍は問う。
「確かに、言ってたな。真莉は異能者だって。だから何だ? 何かあるのか?」
「あの子は、家系で能力を維持しているところの生まれなのよ。そうなれば、裏で何かしらの問題を抱えてるはずよ。その、異能者だけの問題に、事情に、あんたは巻き込まれたいの?」
「まず、あいつが家系で能力を維持しているところの生まれだって確証はあるのか?」
「あるわ。月森家は、確かに存在してるの」
「なら、いま問題があるって証拠は? 異能者だけの事情があるって証拠は?」
 その言葉に、芹菜は一瞬だけ息を呑んだ。それは、と呟く彼女の声が静かな教室に響く。
「……っ、大抵の家系は、何かしらの問題を抱えてるのよ」
「あいつのところに、問題があるって情報があるわけでもないんだろ? なら、どうでもいいだろ。そもそも、異能者だけの問題だとか事情だとか言ってるけど、俺だって異能者だ」
 体質なのか、能力なのかはっきりしないと言われ続けていた。最近になって、体質と異能、その二つを持っているのだと言われた。けれどそれでも、朝霧藍が異能者だという事実は変わらない。
「お前たちがどういう風に思ってるのかは知らないが、俺は確かに異能者だ。数年前に自分が異能者だって気付いた、物心付いた頃から異能者だったやつと同じ、異能者なんだよ」
 その言葉に、芹菜の眉が跳ねた。机の上の教科書とノート、それを彼女の手が叩く。
「あんた、家系にどんな問題があるか分かっててそう言ってるの? だとしたら馬鹿よ! 私たちは、家系で異能を維持してる家は、問題がないところなんてないぐらい、問題だらけなのよ?」
「そんなの知ってるわけないだろ。どこかの親切馬鹿が巻き込まないように配慮して極力情報削ってるんだから」
 雛のことを、親切馬鹿と表現することに違和感はなかった。彼女は、異能を維持している家の情報を、藍に渡さなかった。内情を口にすることなく、ただ、そういう家が存在していることだけを告げていたのだ。
 芹菜が席を立つ。親切馬鹿って誰のことよ、と怒りを含んだ声で問う彼女に、藍は笑う。
「成瀬雛。必要最低限の情報しか渡さないように気を付けてるからな。俺が持ってる情報なんて、お前らが昔から叩き込まれてる情報に比べたら少ない」
「それは当然でしょ。姉さんは、その辺うるさいもの。家系で維持しているところに生まれない限り、こっちの事情を見なくていいって考えてる。でもそれは、姉さんだけじゃないわ」
 異能者ならば、良心があれば、誰もが考えると彼女は言う。だから、と呟いた彼女の唇が震えるのが藍にも分かる。
「関わらないほうがいいのよ、家系で異能を維持している家に生まれた子と。月森真莉だって、何か抱えてるはずよ。あんたが予想すら出来ない、嫌になるような事情を」
 そう言った芹菜の言葉が正しかったのを知るのは、少し後だった。
 

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