月と秘密 13




 どこかで聞いたような気がするんだけど、思い出せない、そう呟いた芹菜の正面で、隼斗は首を傾げた。
「月森のこと?」
「ええ。どこかで聞いたのよ、『月森』。どこで聞いたか思い出せないけど」
 どこだっけ、と呟く彼女に、気のせいじゃないの、と告げる。
「芹と月森、共通点ないし、気のせいでしょ」
「そっちじゃないわよ。私が気にしてるのは隼斗の後輩の…………」
 一瞬、彼女は言葉に詰まる。名前が分からないんだな、と思って溜息を吐きながら「月森真莉だよ、あの子」と言うと「そう、その子」と芹菜は呟く。
「あの子じゃなくて、『月森』って苗字の家の話、昔どこかで聞いたのよ。多分、実家だとは思うんだけど……」
 彼女は眉を寄せた。いつ聞いたのか憶えてないのよ、と呟いて、芹菜は紅茶の入ったマグカップを持ち上げる。
 砂糖とミルクの入ったそれを一口飲んで、「姉さんか、翔さん、それか父さんたち……」と呟いた彼女に、隼斗は一言告げる。
「一番可能性が高いの、伯父さんたちだと思うよ。芹がいつ聞いたかにもよるだろうけど、十年ぐらい前だったら雛と翔さん、あんまり深入りしてないだろうし」
 芹菜や隼斗と違い、雛と翔はそれぞれ背負わされたものがある。翔のそれは柚木の纏め役として動く『当主』、いまは彼の父がその座にあるが故に『次期当主』だが、あと数年で代替わりするかもしれない、とあちこちで噂されている。雛の場合も似たような役目として柚木の分家を纏める成瀬の当主を背負わされるのだが、その辺りは彼女の能力の強さと本人のやる気のなさによって保留されている。
 二十代後半の翔と、二十代前半の雛。あの二人が芹菜の記憶にほとんど残っていない昔にどこかの家について話すことはないはずだ。特に、雛の場合は芹菜の傍で家の話をすることなど絶対にない。
「雛、五年前まで家に帰ってこなかったし、芹の記憶に残るわけないと思うよ」
「それは分かってるんだけど……でも、絶対にどこかで聞いてるのよ、『月森』の話」 
 どこだっけ、と呟く彼女に溜息を吐き、隼斗もマグカップを持ち上げる。まだ温かいコーヒーを飲んで、思ったことを呟く。
「大体、どういう話だったか憶えてるわけ? そうじゃなかったら完全に無駄だと思うんだけど」
 その言葉に、芹菜が首を傾げた。憶えてるわよ、と告げた彼女は持っていたマグカップをテーブルに置いて、頬杖をつく。
「私が憶えてるのは、月森って名前の男が死んでたって言うことだけだけど」
「芹、それじゃただの一般人かもしれないって」
「続きがあるの。その男は異能者だったが、月森なんて家は聞いたことがない、って言って、相手のひとが月森は古くからあるって言ってたのよ。誰と誰の会話か知らないけど」
「微妙な情報だし、それ。もう少しはっきり憶えてないの?」
 問うと、彼女は頷いた。憶えてないわね、と開き直りのように告げる彼女を見て、こういうところに血の繋がりがある気がする、と口の中で呟く。おそらく、はっきりと言えば彼女は怒るだろう。そうなれば、隼斗の食事がサラダだけになってもおかしくない。
 それはさすがに嫌だな、と思って芹菜を見る。いつ聞いたっけ、と呟いて天井を見上げている彼女は隼斗の視線に気付かない。だから、声を掛けずにコーヒーを飲んだ。


 じい様には言わないでおいてやる、と言って義兄が立ち去っても、真莉は廊下に立ち竦んでいた。
 彼の言葉が、ぐるぐると回る。囁かれたその言葉に、彼女は口元を押さえる。
(だって、そんなの…………)
 あっさりと告げられた言葉に、吐き気を覚える。全てを知られないうちに始末してしまえ、そう告げた義兄の顔を記憶から追い出す。
 真莉が誰なのか、月森が何なのか、それを知られ、その上組織のことが知られるよりも先に情報を持つ者を始末しろと、彼は言った。それはそのまま、成瀬芹菜と長谷部隼斗、朝霧藍を消せということだ。
 首を振る。考えただけでも嫌だ。調べないかもしれないという可能性を信じることなく、あっさりと消してしまえと言う義兄に恐れを抱く。
(ここに慣れるっていうのは…………)
 義兄や、じい様。あの二人のように、あっさりとひとを消せということなのか。そう考え、真莉は頭のどこかで肯定する。あの二人は、組織の仕組みに慣れているし、疑問など感じていない。月森を、何とも思っていない。精々、役に立つ手駒としか、考えていないのだ。
 分かりきっていたはずのそれを目の当たりにして、彼女はしばらく動けなかった。



 木曜の昼、教室に戻ると同時に隼斗に肩を叩かれ、藍は眉を寄せた。
「長谷部、何だ」
「金曜の会議。屋上行くからさっさと来いって芹が言ってるから」
「…………勝手に二人で話し合ってろ。俺が行く必要ないだろ」
「あるから。ほら、さっさと弁当出す」
 急かされ、舌打ちする。珍しく自分で弁当を作った日に限ってとんだ災難だ。
 仕方なく弁当とペットボトルの緑茶を持って屋上に上がる。既にそこにいた芹菜は藍と隼斗に気付いて「二人揃って遅い」と呟く。
「隼斗、あんた朝霧呼びにいくだけでどんだけ時間掛かってんの?」
「いや、仕方ないって。途中で部員に捕まって最近出席率悪いって文句言われてたから」
「自業自得でしょ」
 言って、彼女は隼斗に弁当を渡す。それを受け取り、彼は溜息を吐く。
「そんなんだから、今日は顔出して来る。来なかったら殴るって言われたし」
「そう。じゃあ、私は先に帰るわね」
「そうして。今日は最後まで残っとかないと本気で怒られそうだし」
 もう一度溜息を吐いて、隼斗は弁当の蓋を開ける。お昼食べてエネルギー補給しよう、と呟いた彼の隣で、芹菜も弁当の蓋を開ける。
「そういえば、今日弁当なのね、朝霧」
「昨日の残りだけどな」
「作りすぎたのね?」
 聞かれて頷く。普段なら次の日の朝食や夕食に回すが、豚の生姜焼きが朝食に出て来るのは嫌だったし、二日連続夕食に出て来るのも嫌だったのだ。その結果が昼食として弁当に放り込む、だった辺り何かずれているような気はするが、別に問題にするほどではないと思っている。
 もぐもぐと食べ進め、芹菜や隼斗よりも先に食べ終える。ペットボトルを持ち上げ、それを開けると隼斗が口を開く。
「明日だけど、放課後じゃなくて七時以降のほうが出易いから、その時間で」
「七時に駅前集合か?」
「いや、現地集合。悪いんだけど、朝霧だけ先行ってて」
「何で」
「ちょっと用事。まぁ、俺だけだから芹先に行かせてもいいんだけど、危ないし」
 雛にバレたら怒られそうでやだ、と付け足して、彼は笑う。
「かなり危ないところだけど、まぁ大丈夫だよ」
「…………保証でもあるのか?」
 ないだろうな、と疑いながら言うと、あっさりと「あるよ、保証」と頷かれる。いわゆるお呪いだけど、と言いながら彼が取り出したのは小さな鈴だ。渡されたそれを受け取り、藍は眉を寄せる。
「鈴?」
「そう、鈴。邪気を祓うんだよ、鈴って。預かり物だから壊さないように気を付けて」
「……なら渡さないほうがいいんじゃないか?」
 問うと、彼は首を振った。預かり物だけど、渡せって言われたんだよ、と言って彼は弁当の蓋を閉める。空になった弁当箱を芹菜に渡して、隼斗は溜息を吐いた。
「壊しても多分怒らないとは思うんだけど……言いにくいんだよ、壊したって」
「まぁ、そうだろうな。一応、預かり物だったわけだし」
 掌に乗る鈴を見る。紐の付いた、ストラップとしても使えそうな外見と、その紐の色が褪せていることに気付いて「これ、誰かが長いこと使ってたのか?」と訊くと、隼斗は首を傾げた。
「どうだろ、さすがに聞いてないし……まぁ、長い間持ってたのは間違いないと思うよ。持ち歩いてたかどうかは知らないけど」
「…………誰のなんだ、これ」
「翔さん。昔、害のあるやつとかないやつとかめちゃくちゃ寄って来た時期があったらしくて、その時に持ってたんだって。雛から朝霧の話聞いて、実家に置いてたの取って来たって言ってたよ」
「……………………まぁ、効果ありそうだな」
 ただ立っているだけでも他人を威圧するような能力の持ち主が持っていたのだ、本当に邪気を祓うような気さえしてくる。そう思って鈴を見ていると、弁当の蓋を閉めながら芹菜がぽつりと呟く。
「つまり、朝霧は狙われるのね」
 靄に、と小さく付け足した彼女を見て、藍は溜息を吐いた。そういうこと言うな、と告げて、鈴をポケットにしまう。
「不吉だろ、そういうの」
「今更でしょ。囮なんてやってるんだし、狙われるのは当然じゃないの?」
「それとこれとは別だ。かなり危ないとか言われるようなところで狙われるのはさすがに嫌なんだよ」
「まぁ、大丈夫でしょ、鈴持ってたら。忘れたらどうなるか知らないけど」
 だから不吉なこと言うな、と言って、藍は立ち上がった。弁当と、まだ中身の残っているペットボトル、その二つを持って芹菜と隼斗よりも先に屋上を降りる。
 歩くと、小さく鈴が鳴る。あとで鞄に入れようと考えながら歩いていると、廊下の先に月森を見つける。
 廊下の端、行き止まりのそこに彼女は一人でいる。下ろされた右腕に握られている携帯電話を見て、珍しいなと呟く。
 持ち込みこそ許されているものの、基本的に校内で携帯電話の使用は禁止されている。それを守らない者がいないわけではないが、それでも月森は校則をきちんと守るように見えたのだ。
 首を振った彼女が携帯電話をポケットにしまう。溜息を吐いて、歩き出した彼女は視線を上げ、藍と目が合ったことで軽く目を瞠る。
「朝霧、先輩……?」
 呟かれた言葉に、内心で首を傾げる。名前、言ったかと考え、気にしないことにする。
「携帯、気を付けないと文句言われるぞ」
「あ。見てました?」
 問われて、首を振る。しまうの見ただけと言って、彼女を見る。階段の近くで立ち止まった彼女は視線を動かし、こてりと首を傾げた。
「今日、長谷部先輩いないんですか?」
「ああ、屋上。先に降りて来たから」
 そうなんですか、と小さく頷いて、月森は階段を降りる。同じように、藍も階段を降りて「月森は?」と問う。
 私ですか、と首を傾げ、彼女は笑う。
「私は、ちょっと校則違反してただけです」
「なるほど」
「だから、言わないでくださいね。怒られるの嫌なんで」
 そう言って笑う月森を見て、芹菜の言葉を思い出す。あっさりと、告げられた異能者だという事実と、いまの彼女の笑みは噛み合わない。ごく普通の、どこにでもいる少女にしか見えないのだ。
 小さく、鈴が鳴る。その音に気付いた月森が藍を見上げ、首を傾げた。
「さっきの鈴、先輩ですか?」
「長谷部に渡されたんだ、鈴」
「そうですか。先輩、それ、ちゃんと持ってないと駄目ですよ」
 そうじゃないと、来ちゃいますから、と彼女は告げる。その言葉に藍は足を止め、月森を見下ろす。
 あっさりと、言われた言葉の真意は分からない。けれどそれに違和感を感じ、足を止めた藍の数歩先を行った彼女は首を傾げて藍を見上げる。
「どうかしました?」
「…………いや、驚いただけ。来るって、何が?」
 聞き返すと、彼女の顔から笑みが消えた。一瞬だけ真顔になった彼女は数拍置いて苦笑を浮かべる。
「先輩、もしかして幽霊とか信じるひとですか? ちょっとした、いたずらです、さっきの」
「……そっか。いたずらか」
 繰り返すと、彼女が笑った。ただのいたずらですよ、と微笑んで言う彼女の後ろ姿に、ほんの一瞬漠然とした違和感を感じる。
 異能者だと、芹菜は言っていた。違和感はそれか、と隼斗が言っていた。彼らが感じていたのは、いま藍が感じる漠然とした違和感を強めた、確信なのだろうか。
 彼女と階段を降りる。昼休みの、普段ならばざわつく空気は今日に限って静かだ。彼女の小さな足音が反響する中で、藍は考える。
 鈴は邪気を祓う、そういう風に、隼斗は言った。そして、鈴を持っていないと何かが来ると言った月森。ただのいたずらです、と笑った彼女は、芹菜と隼斗の感覚を信じるならば異能者だ。
 そんな彼女が、いたずらで、『持っていないと何かが来る』と言うのだろうかと疑問を覚える。異能者と言っても、色々な人間がいるのは分かっている。けれど、藍の周りの異能者は自身の信念を曲げようとしない、意志の固い人間ばかりだ。その事実を、異能者の前提として考えてしまう。
 本当に、ただのいたずらなのか。そう問おうとして顔を上げると、唐突に月森が足を止めた。彼女の声で、なんで、という小さな囁きが零れる。
「月森?」
 数歩先を行っていた彼女の隣まで歩く。血の気の引いた、白い顔で階段の前に立った彼女は唇を振るわせる。
「なんで、兄さんが?」
 その言葉に、彼女の視線を追う。二メートルも離れていない場所で、感情の読めない笑みを浮かべる少年がいた。彼の制服についている校章を見て、藍は小声で「三年か」と呟く。
 ふっと、彼は微笑む。なんでって、変なこと聞くな、と告げた彼は一歩踏み出し、それに月森の肩が跳ねる。
「僕の、ここの生徒だ。会わないだけで、ここにいるのは知っていただろう? 真莉」
「知って、たけど…………なんで、このタイミングで、来るの?」
 彼女の顔は青い。兄と呼んだ相手と話すには、声も硬い。仲が悪い兄妹なのか、と思って口出しせずに黙っている藍に視線をやって、彼女の兄は笑った。
「どうも、真莉がお世話になってます。確か、朝霧君、だったよな?」
「……ただの、知り合いです。先輩、でいいんですか?」
 名前を言っていないのに、知られている。それに僅かな違和感と、気持ち悪さを感じながら問うと、彼は笑みを深くする。
「あぁ、三年だから、二年の朝霧君から見れば確かに先輩だ。出雲昴だ、よろしく」
「…………いずも?」
 聞き間違いかと思って呟くと、合ってるよ、と本人に肯定される。まだ顔の青い月森を見て、それから視線を戻す。
「兄妹、ですか?」
「血の繋がり、ないですから。兄だけど、兄じゃないです」
 藍の問いに、月森が答える。呟いた彼女は一度息を吐いて、昴を見る。
「何か、用でもあるの?」
「いや、ない。その代わり、一言言っておく」
 なにを、と月森が首を傾げる。さらりと揺れた茶に近い黒髪を一房掴んで、昴は告げる。
「あんまり調子に乗るな。お前は結局、異物だ」
 言って、髪を離す。彼女の肩を押しのけ、階段を上がっていった背中を眺めて、藍は呟く。
「何ていうか、凄い兄だな……」
「…………すみません、変なとこ見せて」
 押された肩を撫でて、月森が呟く。名前呼ばないでって言ったのに、と彼女が囁いた言葉に疑問を感じて、問う。
「仲、悪いのか?」
「最悪ですよ、仲。本当、すみません、変なとこ見せちゃって」
「嫌、それは別に」
 言って、彼女を見下ろす。俯いて、息を吐いた月森の髪に手を伸ばしかけて、止める。けれど、手を動かした風に気付いて、彼女が顔を上げた。
「先輩、どうしたんですか?」
「いや…………」
 誤魔化して、手を下ろす。なんでもない、と言って苦笑すると、彼女が笑う。
「ごめんなさい、変なひとで。兄のこと、忘れてください」
 すっと、下がった彼女の頭に手を置く。ぴくりと跳ねた肩の動きを見ないことにして、そっと手を離す。僅かな驚きが浮かんだ顔を上げた彼女に、名前、と声を掛ける。
「真莉って、言うんだな」
「…………こういう会話、久しぶりです」
 小さく、彼女は笑う。そういう名前ですよ、と笑った彼女は藍の前で首を傾げる。
「先輩は? どういう名前なんですか?」
 そうやって笑う彼女に苦笑して、名前を告げる。そして、昼休みが終わるチャイムを聞いて、二人揃って慌てた。
 

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