束の間の日常 09




 隼斗たちが部室を出てすぐ、部長は「あいつ、何しに来たんだろうな?」と首を傾げた。同じように、千原も「不思議ですよね」と呟く。
「部長聞いてないんですか?」
「何か、怖いひとから朝霧と話せって言われたらしい。正直さっぱり分からんな」
「朝霧ってどっちですか、部長。俺たち一年には分かりません」
「あぁ、男のほうだ。もう片方は成瀬。つーか、俺の記憶が確かなら朝霧と長谷部ってクラスが同じだけで別に友人でも何でもなかったはずなんだがな」
 もしかして七不思議の一つか、と部長が呟き、そんなわけないです、と千原が言い返す。それを眺めていた月森は鞄に入れていた携帯が鳴ったことに気付き、席を立つ。
「すみません、ちょっと電話してきます」
「ほいほい。あんまり長電話するなよ」
 気を付けます、と言いながら扉を開ける。携帯を持って廊下に出た彼女は部室から離れた行き止まりで電話に出る。
「もしもし?」
 しばらくの空白を置いて、相手の声が流れる。早く帰って来いという催促と、じい様が呼んでるという連絡。それに返事を返しながら、腕に嵌めた時計の文字盤を見る。
 あと二十分で五時。すぐに帰っても、五時を過ぎる。
 彼の言葉に返事をせず、聞き流していると聞いてるのか、と怒りを含んだ声がした。聞いてる、と呟いて窓を見て、校門を出た三人の背に気付く。
 羨ましい、とほんの一瞬だけ感じる。けれどそれは、彼女にはいらない感情だ。首を振って感情を閉じ込め、ちゃんと聞いてる、と義兄に声を掛ける。
 彼は言う。さっさと帰って来い、と幾度となく繰り返す。じい様が呼んでる、あのひとの機嫌を損ねるわけにはいかない、だからさっさと帰って来いと続けた声に頷いて、「すぐに帰るよ」と告げる。
 電源を落として、溜息を吐く。部室に戻って、彼女は部長に頭を下げる。
「すみません、先に帰ります」
「ほいほい。気を付けて帰れよ」
「はい」
 鞄を持って、部室を出る。階段を降りながら、義兄の声を思い出す。
 さっさと帰って来い、と繰り返す彼に、逆らえない。じい様が呼んでる、と言われて、その呼び出しを無視出来ない。真莉、と自身の名を呼ぶ彼らに逆らえない。
「…………っ」
 軽く、唇を噛む。逆らえないのは過去に逆らい、失敗したからだ。それからずっと、彼女は彼らに縛られている。
「呼ばないでよ」
 ぽつりと、呟く。彼ら本人には言えない言葉を、誰もいない場で呟く。
(呼ばないでよ、私の名前…………)
 彼らに名前を呼ばれるたび、いなくなった父の声を思い出す。どこまでも穏やかに、悪意も何もない声で真莉の名前を呼んだ彼はもういない。
 その代わりのように、彼らは真莉の名前を呼ぶ。逆らえない言葉を告げて、そして名前を呼ぶのだ。
 首を振って、学校を出る。義兄と、じい様の前に出るときには感情を消さなければならない。だから彼女は、部室での会話を忘れる。あの部屋で、何も話さなかったと思い込んだ。


 部屋に入ると、照明は小さなテーブルの上に置かれた蝋燭だけだった。それまで、明るい光を見ていた彼女はその差に目が慣れず、椅子に座っている男の顔が見えない。けれど、彼に近付き、口を開く。
「じい様、お呼びでしょうか?」
「ああ、何回か呼んだ。お前はいつも、平日になると来るのが遅いな」
「学生、ですので。申し訳ありません」
 すっと、頭を下げる。セミロングの髪が揺れて、視界を覆う。その髪を、肉の薄い手が掻き揚げた。顔を上げろ、と老いた男が告げる。
 それに従い、彼女は顔を上げる。暗い部屋の中、彼女はまだ男の顔が見えない。
「じい様、ご用件は?」
「いつものあれだ。詳細はあとで聞きなさい。何をするべきか、分かっているな?」
 聞かれて、俯く。分かっています、じい様と呟き、頭を下げる。
 部屋を出て、義兄のいる部屋へ向かう。赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、浮き彫りの施された扉を軽く叩く。
「義兄さん、いる?」
 部屋の中から、「入れ」と声がする。ほんの一瞬顔に浮かんだ嫌悪を隠して、真莉は扉を開く。
 じい様のいた部屋とは違い、義兄の部屋は照明に蛍光灯が使われている。蝋燭ならよかったのに、と心の中で呟いて義兄を見上げる。
「じい様から詳細はあとで聞くように言われたの。どうせ、詳細を聞いてるのは義兄さんなんでしょ?」
「確かに僕が聞いてるな。でも、お前がそれを聞く為に何をしなきゃいけないかは分かってるんだろうな?」
 その言葉に舌打ちする。つい、彼の前で感情を表してしまったことに彼女が気付くと同時に義兄の眉が跳ねた。
 彼の手が伸びる。翻った掌が真莉の頬を打つ。
 ぱさりと髪が落ちる。打たれた頬を押さえず、彼女は義兄を見上げた。
「義兄さん、詳細を教えて」
 言うと、彼の右の眉が跳ねる。いつ、と普段よりも低い彼の声が響く。
「いつ、お前は僕と対等になった?」
「……言い直します。詳細を教えてください、義兄さん」
 一々彼の機嫌を取りながら情報を聞かなければならないことに嫌気が差しても、彼女はここから離れられない。行動を起こして、ここを壊さない限り死ぬまで縛り付けられるのは目に見えているのだ。
(皆、そうだった……、父さんだって……)
 四年前に真莉の前から消えたひとの顔を思い出す。義兄の説明を聞きながらも、彼女は父の顔と言葉を思い出す。
 彼は、謝っていた。壊せなかったことを、どうしようもなかったことを謝りながら旅立ったのだ。
「真莉、聞いてるのか?」
「聞いてる」
 再び、義兄に頬を叩かれる。対等ではないと告げる声を俯いて聞き、情報だけを刻み込む。
 行動を起こさなければ、死ぬまでここに捕らわれる。死が解放となることは分かりきっている。それまでの間、何十年とここに縛り付けられ、利用される。
 それが嫌なら、行動を起こすしかないのだ。だから。
(私は、ここを…………)
 いつか壊すと、心に決める。 

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