プロローグ 02





 紅茶の匂いが広がる部屋の中央、テーブルの右端に座って藍は溜息を吐いた。いつ来ても整理されている部屋を見回し、呟く。
「相変わらず異様なまでに片付いてるんだな」
「これでも苦労して片付けたの。昨日までそこ、紙に埋もれてたから」
 言いながら、雛は紅茶をカップに注ぐ。紅茶とケーキ、その二つを出して彼女は彼の対面に座る。
「じゃあこれ、いつもの」
 彼女の白い手が茶色い封筒を差し出す。テーブルの上を滑るように渡されたそれを受け取り、彼は溜息を吐く。
「何で毎回手渡し?」
「そっちの方が楽だから。それと、悪いんだけど来週の土曜は予定入れないで」
「また?」
 眉を寄せた彼の前で、雛は苦笑する。どこまでも穏やかに「そう、また」と笑った彼女は自分のカップを引き寄せ、手で包む。
「最近ちょっと多いの。怪談の季節は終わったのにね」
 苦笑のはずなのに、彼女の顔は穏やかだ。困っている、そういう風に表現することも出来ない穏やかさで笑う彼女の顔を見ながら、藍は呟く。
「で? どういうこと?」
「そのまま。また出たらしいの」
 カップを持ち上げ、紅茶を飲んだ雛はまだ中身の多いそれをテーブルに置き、呟く。
「多いのよ、靄」

 
 靄と言い出したのが誰なのか、藍は知らない。
 元々はただの霊、それが長い年月を経て他の霊を吸収し、悪霊となる。そして、その姿は黒い靄。
 外見から名付けたのだろうかと予測しながら、彼はその真相を知りたいとは思わない。数年前に一度、その靄によって殺されそうになった身としては出来ることなら深入りしたくないのだ。


「ていうか、何で俺が雛の仕事手伝わないといけないんだ?」
「それ、最初に説明したでしょ。藍君はそういうの引き寄せちゃうから、危ないけど囮になってって」
「一人でやれよ」
「三年も手伝ってるのに、急にどうしたの? もしかしてバイト代の値上げ交渉?」
 首を傾げた彼女に「違う」と言ってから溜息を吐く。手付かずだった紅茶を飲んで「最初の条件はもう意味ないだろって思ったんだよ」と告げる。
 その言葉に彼女は「あぁ、そういうこと」と囁く。最初の条件、それを思い出したのか微笑む彼女から視線を外し、頷く。
「最初の条件、俺が何も分かってなくて危ないからっていうのもあっただろ。もう三年も経ったし、自分の能力も把握した。そろそろクビでもいいだろ」
「そう言われると困るんだけどなぁ。急にクビに出来るってわけでもないし」
「なんで?」
 雛を見る。微笑んでいた彼女はその笑いを苦笑に変え、呟く。
「朝霧藍っていう子が持ってる能力を当てにして依頼が入ってきたりするから」
「……………………つまり俺はいつの前にかあんたの親戚連中からも囮として認識されたってことか?」
「というか、私の実家と、そこと繋がりのある家に、って言った方が正しいかも。で、私の実家ってこっちの方面だと結構有名だから、正直に言わせて貰うと朝霧君が今更抜けるって言ったら、それ相応に惜しまれるかな」
 それを聞いて額を押さえた。同時に、三年前に聞いた言葉を思い出す。

『霊が見えるんなら、その分寄って来るでしょ? 私なら対処法も教えれるし、私の能力で無理ならそういうのに詳しい人も紹介出来る。普通に過ごして来たから知らないでしょうけど、異能者って多いの。で、私はそういう方面に顔が利く。それに、そういう交渉が得意な身内もいるわ』

「なんで当てにされてるんだよ」
「こう言っちゃうと怒るでしょうけど、便利だからかな。私たち異能者はそれ相応に能力を持ってても、その気配から悪霊が寄り付かなかったりするの。でも、朝霧藍って子は異様なまでに霊を寄せ付ける。霊に逃げられたり寄って来られたり、どっち付かずの異能者としてはほぼ必ず寄って来る体質の子がありがたいのよ」
「ありがたがるなよ、こっちは迷惑だ…………」
 テーブルに額を付ける。迷惑という言葉に雛が苦笑した気配がした。そして、その次に彼女が告げたのは意外な言葉だ。
「でもね、本当のこと言うと私にはまだ分からないの。朝霧藍が生まれ持ったのは能力なのか、体質なのか、判断出来ない。体質とも能力とも言えるそれ、ある意味では私の持ってる能力よりも凄いのよ?」
「霊がわんさか寄って来るのと、なんだかよく分からない精霊とかいう凄いもの従えれる能力のレア度比べてどうするんだよ。て言うか、そっちの方が重要だろ。歴代三位とか言われるほど強いんだろ?」
「私は始祖の半分の能力を持っている男の更に半分しか持ってないの。強いのは事実でも、まだ上がいるのよ。それに比べて霊が寄って来る、っていうのは能力だとしても体質だとしても凄いわよ」
「基準が分からないって」
 呟いて、顔を上げる。まだ中身の残っているカップを持ち上げて紅茶を飲むと、唐突に電話が鳴った。
 ちょっとごめん、そう言って雛は受話器を取る。
「もしもし?」
 彼女の声が藍と話すときと僅かに違う。それに気付いて、身内か、と呟く。温くなった紅茶を飲みながら電話が終わるのを待っていると、すぐに雛が戻って来た。
「短かったな」
「うん。忘れ物したから取りに来るって言ってるんだけど、ちょっと性格があれだから…………うん、朝霧君はここにいて。彫像かと思うぐらい黙ってたら多分絡まれないから」
「絡まれるって…………身内?」
「妹と従弟。妹の方は他人に興味ないし自分にも興味ないし世界が滅んでも気にしないだろうからいいんだけど、もう片方がちょっとね」
 苦笑しながら言って、雛は溜息を吐く。駅からだからすぐ着くかな、そう呟いた声を藍の耳が拾うと同時にチャイムが鳴り、雛は眉を寄せる。
「どこで電話してきてたのよ、あの子」
 絡まれたくなかったら彫像になっててね、と言い残して雛はリビングを出る。玄関の扉が開き、次いで聞き覚えのある声が漏れ聞こえた。
「ごめんごめん、芹がうっかり忘れてた」
「私じゃなくて隼斗でしょ。ひとの所為にしないで」
「どっちでもいいからさっさと持って帰って。どこに忘れたか分かるの?」
「分かる分かる。じゃあ、お邪魔します」
 その声に続いてもう一度「お邪魔します」という言葉が聞こえる。玄関の扉が閉められ、数人がリビングに向かってくる気配を感じながら藍は頭を抱える。
(彫像とか言ってたけど、無理だな。ていうか、身内ってあれかよ…………)
 溜息を吐き、まだ残っている紅茶を飲む。話しかけられない限りは空気のように黙っていようと決めた藍の視線の先で扉が開き、隼斗が顔を出す。
「うわ、朝霧だ。雛ー、どういうこと?」
「バイト。隼斗、さっさと入って。隼斗が通らないと私も芹菜も入れないのよ」
 急かされ、隼斗はリビングに入る。それに続いて芹菜と雛がリビングに足を踏み入れ、扉が閉まる。出来る限り三人を見ないように紅茶を飲み続ける藍の前で隼斗が笑う。
「バイトか。大変だね、朝霧も」
「そういう長谷部も大変だな。敵を作らないように立ち回って、そのくせ忘れ物か」
「いやいや、忘れたの芹だから。俺じゃないって」
「話聞いてる限り忘れたのは長谷部だと思うんだが?」
 カップを置いて彼を見る。一歩間違えば何かが爆発する空間の中、雛が二人の間に手を伸ばす。
「はい、ストップ。隼斗、何忘れたの?」
「翔さんにコピーしてもらったやつ。リビングのテーブルの上に置いてなかった? コピー用紙十枚ぐらいの束になったやつ」
「嘘、あれ隼斗のも交ざってたの? ちょっと待ってて、取ってくるから。芹菜、二人が喧嘩しないように見てて。ケーキとかクッキーとか適当に食べてていいから」
 踵を返し、雛はリビングから出て行く。喧嘩しないように見てて、と言われた芹菜はリビングと繋がっているキッチンで湯を沸かし、紅茶を淹れる準備を始めた。そして、隼斗と藍の二人を見ないまま口を開く。
「隼斗、喧嘩したら今日の夕飯サラダだけだから」
「芹、夕飯人質に取るのは止めようよ」
「なら大人しく座ってれば?」
 二人分のカップを持って芹菜が椅子に座る。当然のようにその隣に座った隼斗は彼女からカップを受け取り、まだ熱い紅茶を飲む。
「芹、朝霧がここにいる理由気にならない?」
「全然。全く。さっぱり」
「うわ、分かってたけど面白くない。もうちょっと他人に興味持てば?」
「面倒」
 言い切って、芹菜は紅茶を飲む。まだ熱い、そう呟いてからテーブルにカップを置いた彼女は立ち上がり、もう一度キッチンに向かう。
 何度か戸棚を開ける音がして、戻って来た彼女はマドレーヌを数個持っている。それをテーブルの上に置いて芹菜は「姉さん遅いわね」と呟いた。
「仕方ないんじゃないの? 俺の分が交ざってるって思わなかったみたいだし、全部ごっちゃで翔さんに渡したら捜すの時間掛かるって」
「まぁ、そもそも隼斗が忘れたのが悪いのよね。手伝ってきたら?」
「嫌だ。出来れば雛の近くに行きたくないんだよ、怖いし」
「自業自得でしょ」
 はっきりと、芹菜が吐き捨てる。その声にかき消されるように扉が開く音がして、出て行く前よりも疲れの滲んだ顔の雛がリビングに戻って来た。
「隼斗、忘れたのってこれ?」
「あ、これこれ。雛、朝霧がバイトってどういうこと?」
「そのままよ。靄多いでしょ? あれの囮」
 端的な説明に隼斗が頷く。あれか、と呟いた彼はコピー用紙の束を持ったまま笑う。
「囮になってる変わり者がいるとかいないとか聞いてたけど、そっか。朝霧だったのか」
「囮になりたくてなったわけじゃないし、わざわざ囮にしてくださいって頼んでもない」
「頼んでたら驚くよ。でも、囮ってことは異能者か」
 隼斗の言葉に眉を寄せる。あっさりと告げられた異能者という言葉に雛を見ると、彼女は小さく頷く。
「隼斗もそうよ。あと、芹菜も。私の親戚で、異能者じゃない人間はいないわ」

 また、三年前の言葉を思い出す。
 靄に殺されそうになり、助けられた時は彼女と、彼女に従う存在が信じられなかった。
 十三年間生きて染み付いた常識、それを覆すようなことを彼女は一から説明して、その結果『異能者』と言う存在を理解した。
『ほとんどのひとが知らないけど、異能を持った人間は確かにいるの。異能が分かりにくいなら超能力でも霊能力でも何でもいい。そういった能力を持って、それを当然とする人間は確かにいるの。私はそれで、君もそれ。家系で能力を維持する者と、ただ偶然能力を持った、その違いがあるだけで、朝霧君も異能者よ』
 そう言って、彼女は笑った。いきなりこんなこと言われても混乱するだけか、と呟いて、そして対処法を教えると口にしたのだ。

「雛、朝霧ってどういうタイプ?」
「私たちとは逆よ。で、実を言うと能力なのか体質なのか判断出来てない」
 隼斗の問いにそう返し、雛は壁にもたれる。
「ていうか、まず何で隼斗が知ってるのよ。学校が同じなのは知ってたけど、もしかして友だち?」
 その言葉に隼斗と藍は声を揃えて「まさか」と答える。偶然声が揃ってしまったことが気にいらず、お互いを睨んでいると間に雛の掌が入る。
「はい、ストップ。友だちじゃないのは分かったから、取り合えず喧嘩はやめて」
「別に喧嘩しないって。するなら芹のいないときに路地裏に引きずり込んで殴るから」
「いいな、それ。屋上でもいいぞ。あそこはひとがいない」
 言って、隼斗と睨み合う。溜息を吐いた雛が一度掌を退け、拳を握るのが見えたところでぼそりと小さな囁きが滑り込む。
「今日の夕飯、隼斗の分はサラダでいいのね」
「芹、まだ喧嘩してないからそういうこと言うのなし」
「喧嘩しそうだったからサラダだけでいいのか確認取っただけよ。まだ決めてない」
 溜息が響く。夕飯人質に取るのはなしだって、と呟いた隼斗は立ち上がり、リビングの扉に手を掛ける。
「じゃあ、俺と芹は帰る。翔さんにまた電話するって言っといて」
「はいはい。さっさと帰りなさい。芹菜も」
「姉さん、翔さんと迅さんに隼斗の根性叩き直してくださいって伝えておいて」
「伝えとくわ。寄り道しないで帰るのよ?」
 分かってる、と芹菜と隼斗の声が響く。二人が玄関を出て、扉の閉まる音がしてから雛は苦笑した。
「ごめんね、騒がしくて」
「別に気にしてないけど…………長谷部も親戚?」
「そう。まぁ、その辺りの説明すると凄く面倒なことに足突っ込んじゃうんだけど、どうする?」
「遠慮する」
 言い切ると、雛が小さく笑った。それが正しいわね、と笑った彼女は椅子に座り、微笑む。
「で、隼斗たちとどういう関係?」
「クラスが同じだけ。長谷部とは選択も被ってるけど、成瀬とはさっぱり被ってない」
「じゃあ、隼斗のほうがまだ仲良いの?」
「全然。クラスが同じだけで話すこともない」
 元々、選択する授業が同じでも近くの席に座ることはないし、出席番号順に、などと言われたときも『朝霧』と『長谷部』では当然のように離れている。空気のような存在だ。
「まぁ、あいつは妙に社交的に立ち回ってるから目立ってるけど。そういう意味じゃ成瀬も目立つ」
「芹菜が? あの子、社交的って言葉からかなり遠いと思うんだけど」
 こてりと首を傾げた雛を見ながら、「だから目立ってるんだよ」と答えて紅茶を飲む。
「あいつ、女子のグループ付き合いとか無視してるし。話しかけられても愛想ないし、答えたと思ったら一言二言だし。長谷部と逆の方向で目立ってる」
「……………………うん、分かってたけどちょっと凹む。そっかー、ちょっとマシになったかなって思ってたけど、全然かぁ」
 泣きそう、と呟きながら雛は紅茶を飲む。深く溜息を吐いて頬杖をついた彼女は藍を見て告げる。
「土曜日だけど、ちょっと面倒なことになってるから隼斗と芹菜も呼ぶの。もしかしたら私が行けなくなって、あの二人に任せるかもしれないんだけど……大丈夫?」
「……それ、俺が大丈夫じゃないって言っても意味ないんじゃないのか?」
「んー、隼斗と芹菜の代わりに迅と翡翠が代理になるかなぁ」
「成瀬と長谷部のほうがマシだ。何で三年経ってもさっぱり分からない二人相手にしないと駄目なんだ」
 雛は微笑む。頬杖をやめ、姿勢を正した彼女は微笑んだまま口を開く。
「あの二人、考えてること分かりやすいわよ? 迅は異能に執着してなくて、翡翠は私の意志最優先。さっぱり分からないなんてことはない」
「それ、雛が親戚で主だからじゃないのか?」
 言うと、雛は小さく笑った。そうかもしれない、と囁いて彼女は立ち上がる。
「じゃあ、土曜日までにもう一度連絡するから今度はちゃんと携帯見て」
「了解。俺も帰る」
「ええ、寄り道しないようにね」
 小学生に対する注意だろ、それ、と言ってから玄関へ向かう。靴を履いて、廊下に佇む彼女を見る。
「さすがに金曜深夜に連絡とか止めてくれよ」
「しないわよ。気を付けて帰ってね」
 扉を開け、玄関を出る。三年前に助けられて、能力の使い方を教わり、対処法も教わった。家系で能力を維持している異能者はほぼ必ず師を持つと聞いたが、朝霧藍の場合は成瀬雛が師匠に近い。
(ていっても、俺は家系に繋がってないか)
 既に日の沈んだ道を歩く。土曜日に依頼が入っていると言うことは、木曜日には連絡が来るはずだ。
「金曜深夜じゃなくて木曜深夜じゃないだろうな」
 その可能性があることに気付いて眉を寄せ、諦めたように溜息を吐く。
 見上げた空に星はなかった。
 

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