決別とそれから 29




 空を見上げる。
 霧生家に来てから十数年の間に馴染んでしまった空を見上げ、莉世は苦笑した。
 昔は、空など見なかった。本物の空を見るよりも、空の色のモノを見ていたのだ。
「じゃあ、行こうか」
「そうね」
 歩きながら、契の目を見る。そうして、空の色だと再確認する。
 他の誰かが見れば、違うことを言ったかも知れない。けれど、彼女にとっては空の色だ。
 そしてそれは、昔から変わっていない。
 空など消えてしまっても良いと思う。空の色の瞳があるなら、本物の空などなくてもいい。
 言葉にしないだけで、そういう思いが莉世の中にあるのだ。
(でも、空がなくなると大変よね)
 そもそも、空がなくなることなどないだろう。長い間地下に閉じ込められれば空を失ったといえるかも知れないが、普通はそんなことにはならない。
 そんなことを考えながら、莉世は契に声を掛ける。
「橘ってどの辺りに住んでるの? 私、その辺の記憶が全くないんだけど」
「莉世は行ったことないからね。なくて当然。確か、霧生と東宮の間だったと思うよ」
「そう。嫌な位置ね」
 呟き、空を見る。薄く雲の広がった空は僅かな不安を抱かせる。
 東宮は何とか出来た。それ以外にも問題がある。高く積まれたその問題の中に、東宮からの報復が含まれるのではないか。そういう不安を莉世に抱かせるのだ。
 東宮家が何をしてきても勝てる。それは当然だ。ただ、それによって再び平穏が壊されるのではないかと不安になるだけだ。
 小さく溜息を吐いた莉世の耳に、契の呟きが滑り込む。あっさりとした、彼の声。
「嫌な位置でも、あいつにちょっかい掛ける奴は少ないから割と安全だよ。それに、あいつだってそれなりに強いから何かあっても死なないだろうし」
「運が良いんじゃないの?」
「それもあるだろうね。そういう意味じゃ、俺と莉世は運が悪いかもね」
「私、運が悪くても良いわよ。これ以上何も失わずに済んで、契がずっといてくれるなら」
 彼女の言葉に契が苦笑する。手を伸ばして髪を梳き、小さく呟く。
「後半は約束出来ても、前半はちょっと分からないよ」
「それでも良いわよ? 重要なのは後半だから」
 微笑みながら契を見る。
 莉世にとって、契がいない世界は何の意味もない。そんな世界で生き続けることは出来ないし、そもそも契がいないと莉世は生きていけない。
「契を喪わないで済むなら、他の何が犠牲になっても良いわよ、今は」
 昔ならこんなことは言わなかっただろう。けれど、今の莉世にとって大事なのは契だけだ。それ以外は全て失っても良い。
 唐突に獣が現れる。足元で小さく唸った獣の背を撫でながら、彼女は呟いた。
「大丈夫、別に嫌ってないから。名前を出さなかったのは、私が死なない限り生き続けるからよ。忘れてた訳でもないわ」
 その言葉に納得したのか、獣は姿を消す。黒い毛並みが完全に消えるまで待った莉世は歩きながら契を見上げた。
「橘の家って、ここからだとどれぐらい掛かるの?」
「こっちに来てから行ったことないから断言出来ない。とりあえず、あっちの最寄り駅で電話すれば大丈夫」
「そう。まるで家出ね。誰にも言ってないんだから」
 桜井に『近い内に出て行く』と言った。だが、具体的な日時を言った訳ではないし、霧生家の面々には一言も言っていない。一応家を出る前に書き置きを置いてきたが、どこに行くとは書かなかった。
 足取りを辿ろうと思えば、すぐに辿れる。それを理解した上で、莉世も契も行き先を書かなかった。
「今頃、怒り狂ってるんでしょうね」
「奏が?」
 問い返された言葉に頷き、次いで微笑む。足を止めないまま、莉世は告げる。
「だって、何も出来てないのに私が消えるのよ? 復讐相手を失えば、誰だって怒るでしょう?」
「さあ。俺は考えたことないから」
「でしょうね。私も、契に復讐される覚えなんてないもの。でも、考えてみて」
 契よりも一歩先に出て、振り向く。視界の端で茶色い髪が跳ね、すぐに下りた。
「契の目の前にいた東宮がいきなり消えるの。東宮だけじゃないわ、あいつらだって全て消える。それでも良いって思える? 何もしてないのに、全て消えるのよ?」
「……………………」
 すぐには返事が返って来ない。それを分かっていた莉世は契が口を開くまで待つ。やがて返された言葉は、静かに響く。
「まぁ、暫くはむかつくだろうね。莉世の安全が保証されるなら諦めるけど」
「それって、復讐より私の安全の方が大事ってこと?」
「そういうこと。莉世が安全なら復讐じみたことをする必要もないよ。というか、元々復讐なんてするつもりないし、俺がやろうとしてるのは復讐じゃなくて排除」
「どっちにしてもやることは変わらないんじゃないの?」
 首を傾げて問うが、返って来たのは淡い微笑みだ。
「さぁ? 俺は細かいことは気にしないから」
 契が莉世の横を通り抜ける。歩き出した彼の背を見ながら、莉世は小さく呟く。
「でも、奏は私を今までよりも敵視するわ」
 その言葉は契に届くことなく消えた。


 結城莉世が霧生家を出た。
 奏がそれに気付いたのは一月三十日の夕方だ。
 何気なくリビングに来て、すぐにテーブルの上のメモに気付いた。それを手に取り、書かれている文章に目を通す。
 その内容を理解していくと同時に手に力が入った。握り潰してしまったメモを見下ろし、低く呟く。
「出て行った、か」
 このメモがいつ置かれたのかは分からない。けれど、昨日までは莉世と契がいた。ということは、出て行ったのは今日の昼間だろう。
 コーヒーを淹れてテーブルの上に置く。壁に背を預けながら、彼らがどこへ行ったか予想する。
 彼らが行ける所など、限られている。それを奏は知っているし、同じ様に彼らの事情を知る者なら誰でもそう思う。
 実家に帰るはずはない。かと言って、彼らが霧生以外の親族に頼るはずもない。
 彼らの関係者を消去法で消していく。そうして残ったのは契の昔の友人でもある橘だ。
(…………あれだったら、多少の無茶は受け入れるか)
 奏の知っている限り、橘は『面白ければそれで良し』というタイプだ。そんな少年が分不相応と言われても仕方ないほど権力を持っている橘家なら、契と莉世が転がり込むのも可能だろう。 
 湯気の立つコーヒーを一口飲む。頭の中の地図で橘家の位置を確認し、マグカップを置く。
 彼らを追いかけようとしていることに気付き、その目的は何だろうかと少しだけ考える。
 亜梨紗に頼まれたのは、莉世の面倒を見ること。彼女の安全を保障することだ。だが、奏がしようとしていることは莉世を危険に陥れることであり、亜梨紗の望んだことではない。
(黙っているだけ、マシだけどね)
 莉世を利用としているのは東宮だけではない。彼女が実家を嫌い、同じ様に契も実家を嫌ったのは彼らが莉世を利用しようとしたからだ。
 利用されることを察し、彼女の両親は莉世を逃がそうとした。その結果、結城莉世は家族を喪い、契以外の全てを失くした。
 それによって、奏や弥生も喪いたくないと思っていたひとを喪った。
 十四年前の二月六日は、結城と霧生に関係のある者ならば誰もが思い出したくない日だ。それによって、必然的に前日である二月五日も嫌われた。
 その日に生まれた莉世、彼女の毎年の誕生日を祝うか祝わないか相談するほどに。
 結局、彼女の誕生日は不自然に見えない程度の緊張を孕んだまま祝われていた。何かが起きるかもしれないと警戒しながら、二月五日を迎え続けた。
 冬が近付くたびに緊張し、春になれば息を吐く。そういう生活を、莉世に知られないように過ごしていたのだ。
 けれどそれに、奏は関わっていない。何も起きないように気を付けていたのは睦月と葉月、それと契だ。
 奏自身は、莉世がある日突然死体で見つからない限りはどうでも良いと思っていた。死なれたら困る、その程度の認識だったのだ。
「やっぱり、死なれると困るね」
 小さな呟きが漏れた。
 結城莉世が死ぬと困る。その事実を再認識して、奏はもう一度呟いた。
「殺す前に死なれると困る」


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