決別とそれから 30



 赤い光を感じた。
 ゆっくりと目を開けた莉世は上体を起こし、窓を見る。
 そこから見えるのは見覚えのない景色と夕焼けだ。どちらも莉世の記憶にない。夕焼けを見たことはあっても、今見ている夕焼けと記憶の中の夕焼けは全く違う物だ。
 視線を動かし、部屋を見る。
 客人用だよ、と最初に告げられたから分かっていたが、生活感のない部屋だ。ただ休む為だけに存在している部屋。
 事前に連絡していたとはいえ、急に転がり込んできた者に部屋を与えるのなら必然的にこうなるだろう。
 そう考え、緩く微笑む。誰もいないからこそ、莉世は小さく微笑んだ。
「結局、こうなるのね」
 着いてすぐ、疲れてるだろうし休んでいいよ、と橘に告げられた。同じ様に、契にまで休むように言われた。いや、ある意味では逆だ。
 契の言葉なら、従おうかとも考える。だが、橘の言葉には従いたくない。橘の詳しい性格などほとんど覚えていなかったが、顔を見てすぐそう思った。そして、橘の行動を見ているうちに『合わない』と感じたのだ。
 古くから続く橘家。その当主は十六の少年。結城の次期当主にして家出息子の友人。思いつけば即実行。考えなしの愚か者。
 そんな言葉が浮かんでは消える。
 首を振る。寝起きだからなのか、契がいないからか、機嫌が悪い。それを自覚し、莉世は着替えてから部屋を出た。
 歩きながら、出来る限り何も考えないようにする。そうしなければ、出てくるのは愚痴か恨み言だ。
 時折立ち止まり、視線を動かす。分かれ道に差し掛かるたびにそうしていると、暫くして見慣れた茶髪を見つける。
 だが、その隣に馴染みのない少年の頭が見えた。それが橘であることは間違いない。
 溜息を吐き、歩く。契に声を掛け、袖を引く。
「どうして部屋にいなかったの?」
 その言葉に契が視線を動かす。隣の橘を見て、言葉にしないまま去れと告げる。けれど、橘は動かない。それを無視して、莉世はもう一度問う。
「どうして?」
「莉世、機嫌悪いね」
「ええ、契がいなかったんだもの。そろそろ限界っていうのもあるけど」
 微笑んで告げ、契の首に腕を回す。首筋に牙を沈め、流れ込んできたものを嚥下する。顔を見なくても、彼が僅かに眉を寄せたのが分かった。理由を問われる前に莉世は顔を上げ、橘を見て問う。
「家具がほとんどなくて、暴れたりしても大丈夫な部屋ってあるかしら?」
「三階の奥なら良いよー。というか何するの?」
「私は何もしないわよ? するのはあっち。多分、近い内に来るわ」
「家壊さないなら良いよ」
 そう告げ、橘は廊下の奥に消えた。すぐにいなくなっていれば良かったのに、そう呟いた莉世の髪を契の手が梳く。
「莉世、何かあった?」
「起きたら誰もいなかった。あと、ぴりぴりしてる」
 告げると、契の眉が寄る。皺が寄ったそこに指を伸ばし、莉世は「固定されるわよ」と囁いた。
「ぴりぴりしてるって言っても、何かある訳じゃないわ。ただ、何となく嫌な予感がするだけよ」
「奏?」
「多分ね。あのひと、性格悪いから。私が出て行ったのがきっかけでとうとう我慢出来なくなったんだと思う」
 契の手が止まる。指に絡んだままの髪を一瞥した莉世は顔を上げる。
「契、この辺って詳しい?」
「道のこと?」
「ええ、道のこと。あのこ、散歩に行かせないと駄目だけど私じゃ道分からないから。今度、頼んでもいい?」
 契の手が抜ける。莉世の足元を見て数瞬考えた彼は「あいつ、散歩が必要だったっけ?」と呟いた。それに、莉世は頷く。
「必要よ、一応。ずっと影に篭ってたら運動不足になるから」
 ゆるりと微笑み、契を見上げる。
「だから、今度付いて行ってあげて。私が行っても迷うだけだから」
「いつ?」
「あのこの気が向いた時。一週間以内?」
 首を傾けながら呟く。その首に、契の手が触れた。普段よりは冷たい指、その感触を意識せずに莉世は問う。
「契も限界?」
「限界って程じゃないよ、俺は」
「そう? でも、冷たいわよ。元々、限界ぎりぎりだったんでしょ?」
 契の顔に淡い微笑が浮かぶ。悪戯がばれた子供のようにも、泣き出す寸前にも見える表情に、莉世は自身の言葉が間違っていなかったことを悟る。
 小さな呟きが莉世の鼓膜を揺らし、僅かに遅れて首筋に痛みが走る。
 数分前とは立場が逆になる。抜き出されていく物が最終的にどうなるのだろう、そう考えて莉世は唐突に思い出す。
 昔、まだ言葉の意味などほとんど理解していなかった頃。兄も姉もいた頃に、言われた言葉がある。
 お前たちは互いを貪り合う獣だと。そんな物の片割れを生んだのが私の恥、結城の恥、獣になど継がせたくない。
 そんな言葉を言われた。あの時は意味など理解出来ず、ただ契や姉が怒っているのが不思議だった。そしてそれ以上に、怒ることなどなかった兄が感情を剥き出しにしていたのが怖かった。
 今なら分かる、あれは侮辱だ。
 莉世だけではなく、契をも含めた侮辱。ある意味では、契だけを貶めた言葉。
(あの言葉を口にしたのは、伯母様……契の母親……)
 茶色の髪を梳く。その行動に、契の肩が驚いたように跳ねる。けれど、彼は何も言わない。同じ様に手を伸ばして莉世の髪を梳き、抱きしめる。
 牙が抜けた。契の指が傷口をなぞり、血が拭われる。すぐに傷が治ったことを確認する彼に、莉世は声を掛ける。
「契、痛いんだけど?」
「痛くないように抱きしめてるから大丈夫」
「それでも痛いわよ? それに、ここじゃ嫌」
 微笑み、契の耳元に囁く。
「相談したいこともあるの。橘に聞かれたくないし、それ以外の誰かに聞かれるのも嫌。だから、部屋に戻りたいんだけど?」
 言い終え、契を見上げる。しばらく黙り込んでいた契はやがて溜息を吐いて離れると廊下を歩く。
「部屋ってどこ?」
「仕方ないから、客室。私が使ってたところなら、誰も来ないだろうから、そこ」
「誰にも聞かれたくないんだったら、あいつもどこかに行かせたら?」
「大丈夫、寝てるから。それに、あのこに聞かせないようにするのは簡単よ」
「そう」
 幾つかの角を曲がり、部屋に戻る。生活感のない部屋の壁に据えられたベッドに座り、莉世は壁に背を預けた契を見上げる。 
「座らないの?」
 それに答えはない。黙ったままと言うのは珍しいと思いながら、彼女は本題を口にする。
「奏だけど、多分三日ぐらいしたら来ると思う。元々短気だし、十四年も待ったんだから流石にこれ以上は待てない」
「十四年も黙ってたんだからこのまま黙ってる方がありがたい」
「私もそう思うけど、無理でしょ。十四年も黙ってたのだって、私が私じゃなかったからで別に止めようって思ってた訳じゃないだろうし」
 私は奏にとって仇だよ、と呟き、莉世は自身の影を見る。
「だから、このこも嫌われた。私が何かした訳じゃないし、本当に悪いのは別のひとだけど、奏にとってそれは私だったと思う」 
 一番悪いのが誰なのか、そんなことを考えた時、奏にとって莉世が一番悪い存在だった。莉世がごく普通の吸血鬼であったか、生まれていなければ亜梨紗を喪わずに済んだ。そういう風に考えてしまったのだろう。
 莉世はそれを責めることが出来ない。奏が莉世に向ける感情を、莉世は他の者に向けている。対象が違うだけで、抱いている感情は同じだ。
 だから、結城莉世を責めるのは違うだろうと言いたくても言えない。お前も同じ様に誰かを責めている、そう言われれば反論のしようがないのだ。
 そう思い返して溜息を吐くと、契が口を開いた。
「莉世は怒っても良いと思うよ。莉世だって被害者だし、あの日に関わった中で一番傷付いた。奏はただの被害者で、亜梨紗を喪っただけだ。その原因の一つに莉世の血があったとしても、あいつが莉世を恨むのは間違ってる」 
 冬の空の瞳を見上げる。いつも以上に感情が消えている目に、莉世は契が僅かとは言えない怒りを抱いていることを悟る。
「でも、あの日に関わったひとは、皆傷付いたでしょ? 私が一番の被害者って言うのは私が一番幼かったからで、皆『誰か』を亡くした。喪ってないひとなんて、いないでしょう?」
 その言葉に反論はなかった。
 皆、『誰か』を喪った。そう思いながら、莉世は自身がさほど傷付いていないことを知っている。
 母を喪った。父を喪った。兄と姉を喪った。けれど、契を喪っていない。
 その一つで、莉世は自身がさほど傷付いていないと思う。家族全員を喪った一番の被害者でありながら、それに対して『契がいるからいい』と言ってしまえる。
 家族を喪ったことに何も感じていない訳ではない。けれど、それ以上に契の存在が喪われていないことに安堵している。だから。
「奏が私を恨むのは違うけど、ある意味では正しいと思うの。奏は、姉さんが大事だった。だから、いないって現実を認めてる私に腹が立つ。原因を作っておきながら普通に過ごすなって言いたいんじゃないの?」 
 言いながら契を見て、すぐに視線を外す。
「きっと、あのひとはもうすぐここに来る。それがいつになるかは分からないけど、必ずここに来るわ。そういうひとだから」


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