転換、再会 27



  
 雨が降っている。それを意識して、奏は眉を寄せた。
 カーテンを開け、外を見る。土砂降りの雨によって遮られる光景に溜息を吐き、カーテンを閉める。
 雨を見ると、あの日のことを思い出す。
 十四年前のあの日、奏は亜梨紗を喪った。同じ様に弥生は信を喪い、契と莉世は家族を喪った。
 結城莉世に関わりがあった者は誰しも、何かを失ったのだ。ただ、その多くが『莉世の家族』であっただけだ。
 ベッドに腰掛け、目を閉じる。
 亜梨紗を喪ったと聞いた時、一番最初に感じたのは疑いだった。
 彼女の性格は知っている。もしも殺されそうになっても、絶対に生還しようとする。だから、東宮家の動きを知っていても彼女が死ぬなどとは考えなかった。
 けれど、彼女は自分の命を投げ打った。そして、莉世を護った。
 おそらく、東宮家が来ると知った時からそうする気だったのだろう。奏がそれに気付かなかっただけだ。
 気付けなかったことに、奏は後悔する。彼女は遠回しに自身の命が喪われる可能性を言葉にしていた。
『莉世に何かあったら助けてあげて。私は助けてあげられないかもしれないから』
 その時は深く考えなかった。単純に、莉世が成長するにしたがって亜梨紗では手伝えない何かがあるのかもしれないと思っただけだ。
 あの時、奏に向かってそう言った意味など全く考えなかった。常に莉世の近くにいる契ではなく、莉世と関わることがほとんどない奏に言った理由など、全く考えなかったのだ。
 そして、気付いた時には既に遅かった。亜梨紗を喪って、ようやくあの言葉の意味に気付いた。
 あの日が来るまでに気付いていれば、違う結果になったかもしれない。けれど、気付くことなくあの日を迎え、何も言葉にしないまま亜梨紗を喪った。
 不意に、獣の声が聞こえた。振り返ると、部屋の中に黒い獣がいた。
(……確か、莉世のだっけ、これ)
 昔一度だけ見たことがある、莉世の近くにいるモノとしては違和感があった獣。記憶にあるそれより僅かに成長した獣を見下ろし、奏は溜息を吐く。
「さっさと出て行ったら? ここにいても意味はないよ」
 動物に話しかけるのは奇妙な行動だ。よく、莉世が獣相手に話しかけていたらしいが、その話を聞いた時奏は動物に話しかけるということの意味が全く理解出来なかった。
 獣を見下ろす。奏の言葉を理解しているはずなのに、獣は部屋を出ない。その強情さに、僅かな苛立ちを覚えた。
「出て行きなよ。莉世の影響を受けてるんなら、ここは辛いんじゃないの?」
 獣は動かない。奏を見上げたまま微動だにしない姿を見下ろし、溜息を吐く。
 莉世の所有物でもある獣は、獣自身の意思を持っている。それ故に主である莉世と違い、契を嫌う。同じ様に、必ずしも莉世の意に従うと言うことはないのだ。
 特に、何もない日は。
(家の中で出すなって言っておいた方が良いかもね、鬱陶しいし)
 獣の自我を残している理由を奏は知らない。そんなことに興味はないし、それ以前に莉世の能力などどうでも良いからだ。
「何度も言う気はないからこれで最後だ。さっさと出て行け。逆らうなら潰す」
 獣を見下ろし、はっきりと告げる。
 奏の言葉を聞き、獣は踵を返す。そのまま部屋から出て行くのかと思いながら見ていると不意にその姿が消えた。 
 影に沈んで消えたと理解し、奏は舌打ちした。
(最初から影に沈ませれば良かった。話しかける必要すらなかったんじゃないか)
 獣が部屋に来た理由を考えることなく、奏は再び窓を見る。
 降り止まない雨に二月六日の記憶を掘り起こされながら。


 音もなく獣が現れた。それに気づいた莉世は右手を伸ばす。
「どこか行ってたの? 珍しいわね」
 頭を撫でる。小さく鳴いた獣を見下ろし、契が呟く。
「こいつ、奏のところに行ってたんじゃないの?」
「契も分かる? 暇潰しに奏のところに行ってたらしいんだけど」
 手を放し、莉世は獣を見る。一見すると普段と何も変わらない獣を見ながら彼女は呟く。
「結構酷いこと言われたみたい。私のことを嫌ってるのは分かってたけど、この子まで嫌わなくても良いと思わない?」
「さぁ? そもそも、莉世が嫌いだから莉世に関係するのも全部嫌いなんじゃないの?」
「そうだとしたら相当心が狭いわね。まぁ、私も東宮が嫌いだから分かるような気はするけど」
 獣が部屋の隅に座る。警戒していないように見えて警戒しているそれを視界の端に収めながら莉世は微笑む。
「でも、本当に出て行った方が良いかもしれないわね。葉月さんや睦月さんは怒るかもしれないけれど、このままここにいれば近い内に我慢の限界が来るでしょうね」
 誰が我慢出来なくなるのか莉世は言わない。契も誰を指しているのか問わず、窓を見る。
「出て行くなら、どこに行く? どうせだし、莉世の希望ぐらい聞くよ」
「じゃあ、雨の降らないところ」
 微笑んで告げると、同時に「それは無理」と言われる。莉世は苦笑しながらもう一度希望を口にする。
「じゃあ、海の近く」
「何で?」
「何となく。別に山の近くでも良いわよ? 見つからないなら」
「見つからない場所ってなるとかなり難しいよ。あいつらしつこいし」
 その言葉に莉世は一瞬表情を消し、淡く微笑む。
「じゃあ、どこでも良いわ。契がいるならそれで」
「……近い内に、出て行こうか。それまでにどこに行くか決めて、ある程度までは終わらせよう」
「終わらせずに出て行くって言う選択肢は排除するの?」
 莉世の問いに契は頷いた。窓を見ながら彼は小さく呟く。
「せめて東宮だけでも何とかしないと、葉月さんたちに迷惑が掛かる。莉世だって、それは嫌なんじゃないの?」
「それ、盲点だったわ。でも、その通りね。せめて東宮だけでも何とかしないと駄目だわ」
 部屋の隅にいた獣が小さく動く。顔を上げた獣は莉世の足元まで移動する。
 その頭を撫で、莉世は目を閉じる。ほんの数瞬過去を懐かしみ、それを閉じ込める。
「出て行くなら、色々と準備しないと駄目よね?」
「まぁ、そうだね。いつ出て行くかにもよるけど」
 莉世は壁に背を預ける。しばらく黙り込んだ彼女は契を見上げ、口を開く。
「東宮が来るまで待たずに、逆に乗り込むって言うのは駄目?」
「駄目。いくらなんでも危ないから」
「そう? 東宮なんて余裕で倒せると思うんだけど」
 莉世は自身と東宮鈴の間にある差がどれぐらいの物かは分かっているつもりだ。多少の誤差があっても、何も問題ない。
「確かに余裕だろうけど、莉世の場合は持久力がないから。途中で限界が来るかもしれないから危ない」
「大丈夫だと思うんだけど? 限界が来るまでに全部終わらせれば良いだけだし」
「万が一ってこともあるから。それに、わざわざこっちから行くのも面倒だし、あっちが来るのを待った方が楽」
 契の言葉に莉世は眉を寄せる。
 行くのが面倒だというのは彼女も同じだ。けれど、待ち続けるのも嫌だ。だから、面倒だが向こうに行ってそして全てを終わらせたい。
「行っちゃ駄目?」
「駄目。危ないし、不安だから」
「契、心配しすぎよ」
「別にそれでも良いよ。莉世が無茶して行くんなら閉じ込めるから」
 蒼い瞳を見上げる。冬の空のようなそれに、莉世は一瞬だけ違う人物を思い出す。
「契って父親似よね」
「似てない。あんな奴に似てるわけがない」
「……母親似?」
「莉世、殴るよ。いくら莉世でも怒るよ?」
 明らかに不機嫌になった契にそう言われ、莉世は小さく溜息を吐く。
「本当、嫌いなのね。伯父さんも伯母さんも」
「嫌いだよ。だから、次に同じこと言ったら莉世でも殴るよ」
「言わないわよ。私、契に嫌われると死んじゃうから」 
 そう告げ、莉世は微笑む。立ち上がり、彼女は扉を開ける。
「紅茶淹れてくるわ。契もいる?」
「俺はいいよ」
「そう。ココアは?」
「喉渇いてないからいいよ」
 その言葉を聞き、莉世は扉を閉める。階段を降りながら、彼女はある部屋の扉を見る。
「あなたが私を嫌いなのは知ってるけど、あのこまで敵視するなんてもう駄目ね。昔は優しかったのに」 


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