転換、再会 26



 雨の音が大きい。
 そう感じた莉世は視線を動かし、窓を見る。
 だが、雨が降っていることしか分からない。
「………………」
 窓を見るのを止め、莉世は壁に背を預けた。膝を抱え、小さく溜息を吐く。
 雨は嫌いだ。それを再確認しながら、目を閉じる。
 浮かんだのは遠い昔の記憶だ。言葉を忘れ、音を失くした映像のみの記憶。
 ほんの数秒、過去を懐かしむ。再び目を開け、莉世は扉を見た。
「莉世、葉月さんがご飯出来たって」
「いらないって言っておいて。食欲ないから」
「そういうの止めたら? どうせ、後でお腹空くよ」
「その時に食べるから良いの」
 莉世は契にそう返し、窓を見る。雨が降っていることを確認してもう一度溜息を吐く。
「契、雨は好き?」
「どっちかって言うと嫌いかな。二月六日を思い出すから」
「あぁ、あの日ね。あの日は最低だったわね。私も契も何も出来なかったんだから。逃げるのに必死で、護ってもらってばかりだったわね」
 淡く微笑む。それに浮かぶ感情は後悔。何も出来ず、ただ護られていてばかりだった事実に対する後悔だ。
「本当、あの日は最悪だった。結局、私と契は子供だったもの。子供で、無力で、何も出来なかった。雨が嫌いになるのも当然よね」
「莉世、それよりも」
「分かってる。行けば良いんでしょ?」
「行けば良いんじゃなくて、来ないと駄目なんだよ」
 苦笑し、莉世は部屋を出る。扉を閉め切る前に室内を覗くと、ベッドの近くに獣が座っていた。
 まるで番犬だ。そう感じ、莉世は首を振る。
(犬じゃないものは番犬って呼ばないわ、多分)
 廊下を歩く。階段を降りながら、莉世は契に声を掛ける。
「契が『莉世』を閉じ込めなかったのは、過去に『私』を閉じ込めたから?」
 前を向いたまま問う。契の顔を見ることなく、莉世は彼の返答を待つ。
 問うても意味のないことだ。今更答えを知っても、何の得にもならない。ただ時間を潰す為の問いにしては趣味が悪いことも事実だ。
 けれど、莉世はあえて訊く。
「どうして、『莉世』に自由を与えようと思ったの?」
 答えはない。しばらく沈黙が続き、二階に着いた頃に契が口を開いた。
「莉世に与えなかったからだよ。『莉世』に、自由を与えようと思ったのは。莉世と『莉世』が同一人物って考えはしてなかったけど、閉じ込めるよりは外を見せたかったから」
 もう一度階段を降りる。半分降りた頃に、莉世は小さく笑った。
「本当、変わったのね。契がそんなこと考えるようになったなんて」
「十四年も経てば変わるよ」
「そうでしょうね。外を見せたの、正解だったと思ってる?」
「思ってるよ。まぁ、誤算もあったけど」
 契の言う誤算が何だったのか、莉世は理解している。だから、小さく笑った。
「最初から言えば良かったのよ、従兄だって。それが嫌なら兄とか親戚とか」
「最初から言ってたらおかしいって思われるから。血が繋がってるのに一人だけ人間なんてあるわけないし」
「どうかしら。言われるまで全く気付かなかったから、案外大丈夫だったかもしれないわよ」
「さすがに気付くと思うよ、俺が身内って言ったら」
 莉世は淡く笑う。階段を降り、振り向いた彼女は契を見上げる。
「それでも、最初から言えば良かったのよ。そうすれば、あの娘が歪むこともなかった。契、『莉世』がああなったこと、ちょっと後悔してるんでしょ?」
 蒼い瞳を見上げる。莉世自身のそれよりも薄い蒼を見ながら、莉世は告げる。
「あの娘、自分の命なんてどうでも良かったから。だから何も躊躇わなかった。契に殺されることになっても良いって思うぐらい、自分の命に執着してなかった。価値がないって思うぐらいにはね」
 莉世ではなく、『莉世』の考えていたことを契に告げる。元は同じ存在である『彼女』の意思を言葉にすることに莉世は躊躇いを覚えない。
 覚えるのは躊躇いではなく、ほんの少しの後悔だ。
 莉世と『莉世』は違う。莉世の記憶を持たなかった『莉世』は自身を肯定することが出来ず、自分という存在に執着することがなかった。
 家族がいない、それだけで『彼女』は自分という存在を肯定することが出来なかったのだ。
 そして、そうなった原因は莉世にある。
 莉世が家族を亡くし、全てを持って眠りに就いたから『莉世』が表に出た。莉世がいるべき場所を埋める為だけに『莉世』が生まれたのだ。
「もう少し、やり方があったんじゃないかって思うわ。最初から言うとか、家族の一人や二人はいるとか言っておくとか。そうすれば、あの娘が歪む可能性だって低くなったんじゃないの?」
 首を傾げる。契を見上げながら、莉世は彼の返答を待つ。
 溜息が響く。疲れたように微笑んだ契は莉世の髪を梳く。
「今言ってもどうしようもないことだと思うよ、それ。それに、莉世の家族、俺以外はいないも同然じゃないの?」
「ええ、そうよ。契以外はいないわ。葉月さんや睦月さんは親戚だから」 
 そう告げ、莉世はリビングに向かって歩く。
 少しずつ激しくなる雨音に過去の記憶を掘り起こされながら。

 
 カップをソーサーに置く音が響いた。普段とは違い、いささか乱暴なその音に男は眉を寄せる。
「お嬢様、もう少しお上品に」
「ちょっとぐらい良いでしょう。うっかりぶつけただけよ」
「そうでしょうか。結城莉世に挑発されてむかついているだけでは?」
 男の言葉に鈴は視線を動かす。誰が見ても不機嫌だと分かる顔をした彼女は髪を掻きあげ、小さく呟く。
「むかついてはないわよ、頭に来てるだけで。大体、戦えないって言っておきながら戦えるのがおかしいわ。書類を信じた私が馬鹿みたいじゃない」
「あの書類も、結城の者からでしょう? 一応身内である彼女の弱点を書くはずがないと考えませんでしたか?」
「考えないわ。だって彼女、結城から嫌われてるじゃない。嫌って、嫌われて、結局霧生にいるのよ? あの書類に書いてあることのほうが正しいと思うわよ」
 紅茶を飲み、鈴は溜息を吐く。テーブルの上に広げられている紙を見て、彼女は首を傾げた。
「そういえば、契の両親ってまだ生きてるわよね?」
「少なくとも、父親は生きてますね。結城の当主ですし」
「そうよね。何で霧生にいるのかしら? 普通に実家にいれば良いのに」
「結城莉世を優先したからでは? 彼女が家を出るから、彼も出るしかなかったのでしょう」
「そもそも、どうして家を出ようって思ったのかしら? 私たちの所為? でも、それにしてはおかしいわ。家にいても何の問題もなかったはずよ。わざわざ霧生を頼らず、結城に残っていても良かったはずなのに……」
 顎に指を当て、鈴は黙り込む。
 契には家族がいる。けれど、莉世にはいない。莉世と違って、契には家を出る理由がないはずだ。もちろん、莉世も実家に留まったままでも良いはずなのだが。
 何か見落としているのだろうか。そう考えながら、鈴は窓を見る。
 彼女の視線の先にある屋敷。そこに、莉世と契は住んでいた。もっとも、ここからでは山しか見えないのだが、鈴は眉を寄せる。
 霧生家と結城家は距離が離れている。実家にいたくないという理由で出て行くにしても、遠すぎるのだ。
 子供二人が自力で辿り着ける距離ではないし、それ以前に子供の体力など高が知れている。いくら吸血鬼であっても、子供であればそれほど体力はないのだ。
 それなのに、彼らは家を出た。
 実家を出て、遠すぎる霧生に逃げ込んだのだ。それに、鈴は僅かな違和感を覚える。
(あの日、私たちがあそこに向かった日……、あの日より前に、出て行く計画があった?)
 確証はない。けれど、そう考えれば彼らが子供でありながら霧生家に逃げ込めた理由が分かる。
 前もって霧生側に家を出ると言っておけば、迎えに来てもらうことも出来る。だが、それにしても妙だ。
 前もって連絡すると言うことは、出て行くと決めていたということになる。鈴たちが行くことを知って決めたのか、それともそれよりもずっと前に決めたのか。
 どちらにしても、家を出る理由としては弱いような気がする。
 眉を寄せながら考えていた鈴は溜息を吐き、紅茶を飲む。
「でも、やっぱりむかつくわね。戦えないって言っておきながら戦えるのって」
「誰しも自身の弱点を言わないと言うことでは?」
「そうかもしれないけど、むかつくものはむかつくのよ。結城の血筋と、霧生の血筋」
 カップを見る。琥珀色の水面を見つめながら、鈴は呟く。
「特に、結城契と霧生奏が」


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