転換、再会 22



 莉世は閉じていた目を開ける。
 すぐには焦点が合わない。ぼやけた視界のまま数秒動かずに待っていた彼女は疑問を覚える。
 今、莉世がいるのは契の部屋だ。けれど、元々彼女は廊下にいた。そこから歩いた記憶などない。
 肘を着いて上体を起こす。ただそれだけの行動に、莉世はバランスを崩しかける。
 壁に手を着き、ベッドの上に座り込む。溜息を吐くとそれが思っていたよりも重かった。
 前髪を梳く。額に張り付いていた髪を除けて莉世は自身の調子を確かめる。
 体調は、それほど悪くない。万全とは言えないがそれを無視出来るぐらいには回復している。
 少しずつ、頭がはっきりしてくる。それと同時に莉世は言いすぎたことを自覚する。
 莉世と『莉世』は別人だ。外見が同じでも、中身が全く違う。一卵性双生児の姉と妹のような違いがあるのが当然なのだが、一々比べられると腹が立つ。
 莉世は莉世で、『莉世』では、『彼女』ではない。
 最初から存在していた表である莉世と、途中から存在し始めた裏であった『莉世』は別人だ。にも拘らず、莉世と『莉世』を比べられると冗談抜きに殴りたくなる。
 だが、言いすぎたのも事実だ。
 契ではなく、奏や弥生であればあそこまで言っても何の問題もない。けれど、契にあそこまで言うのは流石に問題だ。
(寝起きで話したのが間違いなのよ、馬鹿)
 契が莉世と『莉世』を比べてしまうのは仕方ない。彼にとってどちらも莉世であることには変わりはない。
 昨日の夜に優先されたのは莉世だが、本来彼はどちらを優先するという考えはない。
 だからこそ、莉世の内に『莉世』の記憶が残った。
 莉世の望みは平穏、『莉世』の望みは共存。その内の平穏を優先しておきながら、契は共存を不完全な形で実現させた。
 たった二割だが、『莉世』の記憶が残された。それは共存という願いの一部が叶った証拠でもあるのだ。
 それを理解している莉世が契に向けたのは後になって『言いすぎた』と判断する言葉だ。
(本当、馬鹿。寝起きで頭が働いてないってことぐらい考えれば良かった。あれじゃ、絶対に怒られる) 
 怒られない可能性もあるが、元々契は気が短い。流石に今回は莉世であっても怒りの対象になる。
 不意に扉が開く。
 その音に莉世の肩が跳ね、それとほぼ同時に苦笑交じりの声が響く。
「莉世、驚きすぎ。小動物みたいになってるよ。着替え持ってきたけど、いる?」
「……いる。契、怒ってないの?」
 着替えを受け取りながら問うと契は暫く黙り込んだ。
 怒られる、そんな予感を感じて後ろに下がりたくなった莉世の顔を見ながら、契は首を振る。
「あんまり。莉世の言い分も正しいし、俺の場合、莉世に向かって怒りが向かないから」
「……実は廊下の壁殴ったりしてない?」
「殴ったよ。五回ぐらい。途中で睦月さんにばれて説教されたけど」
 恐る恐る尋ねるとあっさりそう返され、莉世は叫ぶ。
「それを怒ってるって言うの! 五回も殴るって物凄く怒ってるじゃない! 私に向かっては怒らないけど、その分周りに当たってたらどっちにしても私に怒ってる!」
「莉世は殴ってないよ?」
「原因私でしょ! なら結局私に怒ってるってことじゃない!」
「まぁ、そうだけど。でも、そこで莉世殴るのは問題だから。壁なら問題ないけど」
「もう良い。契の中で問題がないならそれで良い……」 
 莉世は契に背を向け、着替える。ブラウスとセーターを着、スカートを履く。靴下を履いてから袖のボタンを留めようとした莉世はそれが上手く行かず眉を寄せる。
 袖のボタンは小さい。その上、それを留めるのは片手で行わなくてはならない。体調はほぼ万全でも、十年以上眠っていた所為で成長した身体に慣れていない莉世にはいささか時間が掛かる。
「……契」
「何?」
「袖のボタン、留めて。出来ない」
「じゃあ、右手貸して」
 言われ、莉世は右手を差し出す。袖のボタンを留めた契は同じ様に左のボタンも留める。
「もう良いよ。他は大丈夫?」
「大丈夫。時間掛かったけど」
 何となく右手を見る。そこに違和感があるような気がして莉世は腕を軽く振ろうとした。
 けれど、それを実行に移す前に契に止められる。右手を掴んだ彼は「あんまり振らない。ぶつけるよ」と告げると莉世の腕を放す。
「ぶつけないと思うけど?」
「ふらふらしながら言っても説得力ないよ。まだ慣れない?」
 何に、という部分は省かれていたが莉世は頷く。
「まだちょっと違和感があるかも。多分、二日ぐらいで慣れると思う」
「そっか。アップルパイ食べたいって言ってたけど、葉月さんに言いに行く?」
「ううん、それは良い。どっちかって言うと喉渇いてるから。リビングって一階だったよね?」
 尋ねながら立ち上がる。その途中でバランスを崩し、莉世はベッドに沈んだ。
「……痛い」
「だろうね。立てる?」
「多分、大丈夫」
 バランスを崩さないように気を付けながら立ち上がる。壁に手を着き、莉世は溜息を吐いた。
「私の身体なんだから転ぶな、って言いたいわね」
「それ、無茶苦茶だよ。というか、莉世、もしかしてまだ安定してない?」
 契に問われ、莉世は小さく頷く。
「ええ、安定してないわね。それも、二日あれば安定するわ」
「……せめて口調ぐらいは統一したら?」
「無理よ。意識して出来るなら始めからそうしてるし、ふらふらするから統一しようっていう気も失せるの」
 額を押さえる。
 最悪に近い状態からは回復したが、万全とは言えないかもしれない。体調はほぼ万全でも、それ以外の全てが万全とは言い難い。
「私はリビングまで行くけど、契は?」
「ついてくよ。危ないし」
「大丈夫よ、ちょっとふらつくだけだから」
「莉世の大丈夫はあんまり当てにならない」
 扉を開け、廊下を歩く。階段を降りながら、莉世は首を傾げた。
「当てにならないって、どうして?」 
「ならないから。ふらふらしてる自覚ない?」
「あんまり。ちょっとふらついてる気はするけど」
「ちょっとじゃないよ、結構危ない」
 言われても、莉世に実感はない。心配のし過ぎじゃないか、そう思いながらリビングの扉を開けた莉世は弥生に声を掛けられた。
「莉世……?」
 契と同じ様な、驚きのみを含んだ声。そんな声が向けられる理由を理解していても、実感のない莉世は微笑む。
「ええ、莉世よ。十四年振りね」
「……まるで別人ね。外見が同じだけで」
「そういうものよ。私と『莉世』の違いなんて、双子の性格が違うようなものだわ。外見が同じ他人って認識が正しいの」
 だから、莉世と『莉世』を比べるなと莉世は言外に釘を刺す。
 それに気付いた弥生は『莉世』の話を持ち出すことなく問う。
「莉世、何しに来たの?」
「紅茶でも淹れようと思ったの」
「じゃあ、その後ろのは?」
 弥生が指差しているのは契だ。莉世は振り向くことなく「ただの心配性」と告げて紅茶を淹れる準備を始める。
 うろ覚えだが、紅茶を淹れることぐらいは出来そうだ。どちらかと言うとどこにマグカップがあるのか分からない方が問題だろう。
「ねぇ、弥生か契って私のコップがどこにあるか知ってる?」
「棚の二段目の真ん中の葉っぱみたいな模様のが莉世の」
「あぁ、これね」
 契に言われ、莉世は自身のマグカップをテーブルの上に置く。それと同時に、弥生が呟いた。
「莉世、茶葉ないけど良いの?」
「どれがないの?」
 弥生が茶葉の名前を口にする。それを聞いて莉世は首を傾げた。
「でも、他のはあるでしょう? 私、それはそんな好きじゃないからなくても困らないわ」
 ポットに茶葉と熱湯を入れる。そのまま抽出を待つ間、莉世は弥生に問う。
「でも、どうしてそれがないってことをわざわざ言ったの?」
「……『莉世』が好きだったから。莉世もある程度までは一緒じゃないかって思ったの」
「そう。でも、ハズレよ、それ。私と『莉世』は共通してることの方が少ないぐらいだから」
 そう言ってから、莉世は頭の中で『莉世』との共通点をあげる。すぐに浮かんだそれは十もない。
「だから、一々『莉世』を基準にするのは止めて欲しいの。弥生だって、奏と比べられたら嫌でしょう?」
「そこで何で兄さんが出てくるのか聞いても良い?」
「理由なんてないわよ。兄妹だから出しただけ」 
 言いながら紅茶をマグカップに注ぐ。すぐにはそれを飲まず、莉世は視線を動かす。
 彼女の目に映るのは霧生家の庭だ。冬であっても花が咲き誇っているその庭を見ながら、莉世は小さく呟く。
「庭、全然違うのね」
 葉月は莉世の母の姉だ。二人の趣味は共通していて、好みも似通っていた。だから、霧生家の庭は莉世が憶えている実家とほぼ同じではないかと思っていたのだ。
 だが、実際は霧生家の庭と莉世の記憶にある実家の庭は共通していることが少ない。きちんと手入れされている、それしか共通していないぐらいだ。
「少しぐらいは同じところもあるんじゃないかと思ってたけど……そんなことないのね」
 そもそも、霧生家と実家では広さが違う。その辺りも考えると、同じ庭であるはずがない。
(案外、帰りたいって思ってるのかもしれないわね)
 そう分析して、莉世は紅茶を飲む。
 彼女が帰りたいと思っているのは『幸福だった時間』だ。そして、それは一度失われた。完全に同じ形で取り戻すことは誰にも出来ない。だから、『幸福だった時間』そのものを取り戻すことを彼女は諦める。
 あの時間には、家族がいた。家族と契、そして莉世自身がいたのだ。けれど、既に家族はいない。彼らを取り戻す術など、どこを探してもあるはずがない。
(帰る場所なんて、とっくに失くしてるわね。そう言えば)
 時々忘れそうになるが、ここは霧生家だ。本来なら莉世と契は実家で暮らしているはずであり、霧生家に居候していること自体がおかしい。
 実家ではなく、霧生家で暮らしている理由。
 それを思い出そうとして、莉世は首を傾げた。
 莉世と契がここに来た理由の内の一つは家族を失ったからだ。けれど、どうして家族を失うことになったかは憶えていない。
(そもそも、どうしてここに来たの? ただ家族を亡くしただけならここに来なくても良かったはず……)
 考えるが、理由など思い出せない。その内思い出すだろうと思い、莉世は首を振った。
「莉世か……?」
 どこか呆然とした声が掛けられた。

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