覚醒 21




 目を開ける。
 それだけの行動に、酷く時間が掛かった気がした。
 目の前に腕を翳す。記憶の中のそれより成長している腕を見て、彼女は永い眠りから覚めたことにようやく気付いた。
 上体を起こす。バランスを崩して倒れそうになり、咄嗟に手を着く。
(動き、にくい……)
 今まで眠っていた所為か、それとも身体が成長しているからか、動きにくい。眉を寄せ、彼女は左手を握る。
 握った手が震えている。一度開き、また握る。その行動で、彼女は少しずつ記憶を思い出す。
 眠ってから、十四年近くが経った。その間、彼女の代わりに『もう一人の彼女』がこの身体を使っていた。
 吸血鬼の全てを持って眠ったからか、『彼女』は人間として生きた。そして、消えた。
 首筋に手をやる。そこにないはずの傷痕をなぞり、莉世は溜息を吐いた。
 まだ頭が働いていない。昨日まで存在した『莉世』の記憶の幾分かを持っている彼女は自身の記憶とそれを対応させる。
 本来ならば長いと感じないはずの時間が流れた、そして、その間に彼女を含めて全員が成長した。
 彼女の記憶の中にある彼らと、今の彼らは違う。それだけの時間が流れているのだから、当然だ。 
 起き上がり、部屋を出る。ただドアノブを回すだけの行為にも、僅かとは言い難い時間を取られる。
 廊下を歩きながら契を探す。眠る前にいた彼がどこかに行くとしても、それは近くのはずだ。それほど遠くには行っていない、そんな確証を抱きながら歩いていた莉世は契を見つけて足を止める。
 窓から庭を見ている彼はまだ莉世に気付いていない。昔から、何かに集中している時だけは彼女が来ても気付かなかった。
(十四年、経ってるのに……)
 小さく苦笑する。外見は歳相応に成長しても、中身は全く変わっていない。
「契」
 声を掛ける。声に気付いて振り向いた契は莉世を見て僅かに驚く。
「莉世……?」
「ええ、莉世。何なら、苗字も名乗る?」
 何に驚いているのだろう、と思いながらそう返すと、契は苦笑した。
「いや、良いよ。ごめん、ちょっと驚いた。やっぱり、『莉世』とは全然違う方向に成長したんだなって思って」
「そうなの? 私、別に外見は変わってないと思うんだけど……。『莉世』じゃないって分かるの?」
「分かるよ。『莉世』はもっとふらふらしてたから。逆に、莉世はビシッとしてる」
「私、今もふらふらだけど? 血が足りないから」
「そういうことじゃなくて、中身の話。おはよう、莉世」
 契の手が莉世の髪を梳く。昔から変わらないそれに莉世は小さく微笑む。
「おはよう。ねぇ、わがまま言っても良い?」
「内容にもよるけど、何?」
「葉月さんのアップルパイが食べたい」
 契が首を傾げる。どうしてそういう言葉が出てくるのか分からない。そんな顔をして彼は呟く。 
「何でアップルパイ?」
「多分、『莉世』に引き摺られてるんだと思う。私、葉月さんのアップルパイ食べたことないから」
「まぁ、確かに『莉世』は好きだったけど……それ、俺に言っても何の意味もないよ?」
「知ってる。でも、契以外には言えないの。私、誰が誰だか確証がないから」
 そう告げ、莉世は微笑む。
 自分で言っておきながら、馬鹿みたいな言葉だ。確証がなくても、声を掛ければある程度までは分かる。それをしないのは、おそらく契の反応を見たいからだ。
 十四年経って、変わったのか。それとも変わっていないのか。それを確かめたいから莉世は『確証がない』という言葉を言い訳に使う。
「確証がなくても、莉世なら何とかするんじゃないの? 俺が俺だって分かったんだし、ある程度までは『莉世』の記憶もあるはずでしょ?」
「あぁ、やっぱりバレた? あることにはあるけど、多分、二割ぐらいよ? 必要最低限、契とか奏とか、昔からの知り合いの顔が分かるぐらい。『莉世』の知り合いに関しては顔と名前は分かるけど性格とか分からないから」
 そう言っても、『莉世』が持っていた記憶がどれだけの量なのか正確に分からない。おそらく二割、そう莉世は判断したが、その実三割や一割の可能性もあるのだ。
 だが、正直に言うと莉世は『莉世』の記憶に執着していない。同じ身体を使っていたとしても、中身は別人だ。別人の記憶に執着して影響を受け、自身が取るべき行動を変えるつもりはない。
 だから、一割だろうが二割だろうが三割だろうがどうでも良い。
 重要なのはそんなことではない。
「ねぇ、契、一つ言っても良い?」
「何?」
 いつも通り、普段と変わらない声。それに安心感を抱きながらも、莉世ははっきりと告げる。
「私と『莉世』を比べるのは止めて。私とあの子は別人よ。同一人物なんて考え方はさっさと捨てて」
 契の手が莉世の髪を梳く。その手を払い、莉世はもう一度告げる。
「言っておくけど、私は結城莉世よ。誰が何と言おうが結城莉世なの。結城の次女で吸血鬼。そういうのとあの『莉世』が同じ人物じゃないのは分かるでしょう?」
「……莉世、機嫌悪い?」
「ええ、凄く。殴るか咬むか悩むぐらいには」
「それだけ聞くとお腹空いてて機嫌悪いみたいに取れるよ」
「実際、そうかもしれないわね。寝起きだから」
 そう告げ、莉世は微笑む。
 話している内にマシになるかと思っていたが、実際は時間が経てば経つほど体調が悪くなっている。
 気を抜けば再び倒れる。そう分析しながら、莉世は契の首に腕を回す。
「だから、拒否権なんてないわよ?」
 そう告げた莉世の牙が契の首筋に食い込んだ。


「とうとう、起きちゃったか……」
 声だけが響く。普段の彼を知っている者なら想像出来ないほど何も内包していない声が。
「ずっと寝てれば良かったのに……。そうするれば、何も起きずに済む。自分から事件を起こしてくださいって言ってるようなものじゃないか」
 髪を掻きあげる。溜息を吐き、彼は呟く。
「本当、寝てれば良かったのに。わざわざ起きるなんて、馬鹿でしかない。あの娘はどこまで馬鹿なんだ」
 彼は天井を見る。その先にあるのはあくまで天井だが、彼は呟き続ける。
「僕が何を言っても、もう無駄か。起きた彼女を眠らせることが出来るのは契だけだ。なら、諦めて行動するしかないね」
 緩く微笑む。その微笑を見た者がいれば、きっと彼はこう言われたはずだ。
 壊れている、と。


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