海の底 19




 リビングの扉を開ける。ただそれだけの行動に、莉世は躊躇いを覚えた。
 リビングに入れば、おそらく契がいる。契だけではない、奏や葉月もいるだろう。彼らの顔を見て、自身の決心が揺らぎそうになるかもしれない。それが莉世の行動を止める。
(私は……もう、駄目……。きっと、今日が最期)
 断言こそされなかったが、莉世は自身の限界が近いことを知っていた。そもそも、これは『彼女』の身体であると同時に莉世の身体だ。自分自身の体調に気づかないということはありえない。
 息を吸い、吐く。
 本当に限界が来て動けなくなる前に、莉世は行動を起こす。そのためにここに来た。なら、ここで躊躇っている時間など無駄だ。
 リビングの扉を開ける。そこに契がいるのを見て、莉世は彼に声を掛けた。
「契、今、暇?」
「暇だけど……何かあった?」
 莉世は首を振った。そして、「庭、行かない?」と問う。
 それを聞いた契は眉を寄せた。彼の手が莉世の額に触れる。
「熱っぽいし、庭出るのは駄目」
「じゃあ、私の部屋か契の部屋なら良い?」
「良いよ」
 リビングを出る。階段を上がりながら、莉世は契の横顔を見る。
 ここ数時間の間に、莉世は『彼女』の記憶のいくつかを見た。それと同時に体調を崩し始め、逆に冷静に考えることが出来た。
 よくよく考えれば、契の行動のほとんどは『彼女を喪いたくない』という前提の上に成り立っていた。
 喪いたくないから、莉世の周囲に気を配る。違和感を感じさせない程度に莉世の隣に居続け、彼はずっとそうしてきた。
 だからこそ、莉世は真実を言わなかった契を恨めない。
 僅かに恨んだのは事実だ。けれど、知らなかったからこそ莉世は今日まで過ごせた。
 始めから知っていたら、きっとすぐに存在を喪うことを望んだ。
 偽物だと理解している上で生きていくことは、莉世には出来ない。
 真実を知らない方が良いこともある、そう判断して黙っていたであろうと気付いて、莉世は恨むという選択肢を排除した。
 莉世は、恨めない。
 契を恨むことは出来ない。
 何も知らずに生きて、真実を知って、静かに消える。
 そういう結果を、莉世は選択する。
「契、本当は辛かったんじゃないの?」
「何が?」
「ずっと、本当のこと黙って私と話すの」
「まぁ、何されても文句言えないって思ってたけど。それだけのことを莉世にしたから」
 刺されても文句は言えないし、言う権利なんてなくしたよ、と契は呟く。
 それを聞いて、莉世は苦笑する。
「刺さないよ、私は。契が黙ってたの、そっちの方が良いって思ったからでしょ?」
 二階に着いた。何も相談することなく契の部屋に向かい、ベッドに腰を下ろす。
「だから、私もう良いの。今まで、良いことばっかりだったから。そうじゃないことなんて、契が関係してないことばっかり。契が黙ってたの、間違ってなかったよ」
 息を吐く。僅かに視界がぼやけ、刻一刻と限界が近付いていることを実感する。
 何も知らずに生きた。何も知らずに成長した。だから、何も恨まず静かに消える。
 その為に、莉世は告げる。
「だから、これで良いの。『私』は今日ここで消える。そういう結末で良いでしょ?」
 契を見る。普段ならばあまり浮かべることのない表情を浮かべている彼を見て、莉世は決める。
 ここで泣けば、契が自分自身を責める。だから、決して涙を流さない。代わりに淡い微笑みを浮かべて最期の言葉を口にする。
「おやすみなさい」
 莉世はここで消える。次に目を開ければ莉世ではなくなっているはずだ。だから、最期に微笑む。
 契の腕が背中に触れる。右手を莉世の髪を梳いた彼は彼女と同じ様に微笑んだ。
「おやすみ、莉世」
 目を閉じる。それと同時に契の牙が莉世の肌に食い込む。
 恐怖はなく、ただ深い海に沈んでいくような感覚が全てを支配する。
 やがて莉世の意識は途切れ、闇の中に沈んだ。

 

Copyright (C) 2010 last evening All Rights Reserved.

inserted by FC2 system