海の底 18



 コツン、とヒールの音が響く。
 庭で夜空を見上げていた鈴は霧生家のある方角を見て笑う。
「そろそろね」
「お嬢様?」
「そろそろよ、もうすぐ『彼女』が甦る」
 根拠と言える物があるのではない。けれど、伝わって来る物がある。
 強力すぎる吸血鬼の、隠せない気配。それが、少しずつ溢れ出している。
 ここまで来れば、『彼女』が甦るのにそれほど時間は必要ない。
「本当に馬鹿みたい。何年も頑張ってたのに、たった数日でそれが全部無駄になるのよ? 今までの努力を全部自分で無駄にするのよ? 馬鹿らしくて笑えるわ」
 鈴の言葉に隣に控えた男は溜息を吐く。
「理解しかねます。それよりも、宜しいのですか? 『彼女』が目覚めれば私たちでは絶対に敵いません。お嬢様は、『彼女』をこちらに連れてくる気だったのでは?」
「連れてくるわよ。『彼女』の情報はほとんどないけれど、それでも少しぐらいはあるわ。『彼女』、私や契とは正反対だから。どちらかと言えば弥生に近いんじゃないかしら」
 首を傾げながら、鈴は呟く。
「もっとも、弥生より『彼女』の方が強いでしょうけどね。結城の直系である契の従妹だし、『彼女』自身の血もあるし……。そろそろ寒いわね、帰るわよ」
 踵を返し、屋敷の中に入る。リビングのソファに腰を下ろし、鈴は微笑む。
「でも、そろそろよ。平穏なんて物に縋り付く時間は終わり。穏やかな日常なんて幻想も終わり」
「相変わらず趣味が悪いですね」
「別に良いじゃない。変に容赦するよりも徹底的に叩き潰そうとする分、優しいわよ?」
「あまりそういうことばかり繰り返すと、ご自分に返ってきますよ。特に、結城の二人は穏やかとは言い難い性格ですし……」
 男の言葉に鈴は声を上げて笑った。普段の外見だけの笑みではなく、心の底から笑う彼女を見て男は僅かな違和感を覚えたように眉を寄せながら声を掛ける。
「お嬢様?」
「面白いこと言わないでよ。あぁ、もう、おかしい。あの二人の弱点を知ってたら、仕返しなんてこないって分かるでしょ?」
 契と『彼女』の弱点は分かりやすい。互いに互いが弱点なのだ。
 契は『彼女』を喪えば存在意義を失う。全てにおいて優先するのは『彼女』の意志である彼にとって、『彼女』がいない現実は認められるものではない。
 同じ様に、『彼女』も契を喪えない。契を喪えば、『彼女』は生きて行けない。
 だからこそ、二人はある程度までしか行動出来ない。
 互いに互いの存在が枷となり、実力を出し切れない場合があるのだ。
 それを理解しているから、鈴は笑う。
「冗談なら冗談で、もう少し面白いこと言いなさい。これじゃ、十点ぐらいしかあげれないわよ」
「何点満点ですか?」
「百に決まってるでしょ。まぁ、あの二人が穏やかじゃないってとこは正しいと思うけど」
 契が穏やかと言い難いのは誰でも知っている。『彼女』がいればそれで満足するからか極端に交友関係が狭い。ごく少数の例外以外は彼に話しかけようとすらしない。
 その上、彼は『彼女』を話の種にされるのを嫌う。彼に『彼女』について聞こうものなら良くて無視、悪くて半殺しだ。
 契と違い、『彼女』についての情報は少ない。十数年間行方不明とされている上、そうなる以前は幼すぎた。分かることなど本名、家族構成、性別、それと能力の特性ぐらいだろう。
 だが、予想は出来る。
 結城家には平凡という言葉が欠如している。そこに名を連ねる者はほとんどが『平凡とは言いがたい何か』を抱えて生まれ、成長し、そして消える。
 そんな家に生まれた末の子供が平凡であるはずがない。いくら親が比較的まともだとしても、平凡とは言い難い性格に育つ。
「実際、『彼女』の血なんて危険すぎるわ。あれを気にせず放置してる契なんて危険を察知するセンサーとか壊れてるんじゃないかって思うもの」
「彼の場合は唯一の例外だからこそ気にせず放置するのでは?」
「だとしても、普通は放置せずに何とかしようと思うはずだと思うけど? まぁ、『彼女』の手綱をたった半分でも握ってるからマシなんでしょうけど」
 どうせ同じ握るなら完全に握っておいて欲しかったが、そうなればそうなったで色々面倒だ。半分握っているだけでも意味はある。それに満足しているしかないのだろう。
「でも、本当に楽しみね。もうすぐ、全てが動くわ。そうなれば、『彼女』も契も関わるしかない。平穏なんて、もう戻って来ないわ」
 そう言って、鈴は笑った。
 十四年振りに行動を再開する時は近い。



 日が落ちたあと、吸血鬼の一日は始める。中には人間と同じ様に朝起きて夜眠るという生活を送っている者もいるが、夜起きて朝眠るという生活を送っている者の方が圧倒的に多い。
 だからこそ、彼らは日が落ちてから集った。
「では、姫は限界なのか?」
「ええ、限界です。あと数日の内に偽物が壊れてもおかしくない。このまま壊れれば、それは姫にも影響します」
「そうならないよう手を打たなかったのか?」
 その問いに男は首を振る。
「予想していたよりも早いんです。だから、何も出来ずにただ契様の行動を待つしかない」
「あの腰抜けの息子に何が出来る? このまま姫を壊す結果に終わるのではないか?」
「流石にそれはないかと。契様は姫を喪えません。そうなる前に何とかするのではないかと」
「断言が不可能なら喪う可能性も視野に入れるべきではないか? もっとも、姫を喪えば全てが無駄になるが」
 その言葉に室内にいたほかの男たちが反論する。
 その中に、一人だけ少年と青年の間と言っても良い年齢の人影があった。
 彼は男たちの会話に口を挟む。
「あいつを喪ったからって全部が無駄になるってことはないだろ。別に、あいつが生きてることが最大の条件って訳でもないし」
「何を言う、生きていなければ全て失われるだけだ。需要と供給のバランスが保たれていなければ、何の意味もない」
「需要がほとんどないから供給が少なくても何とかなるんじゃないかって思うんだが」
 彼の言葉に男たちは沈黙する。
 需要と供給のバランスが取れていないと無駄になる。けれど、そもそも需要は少ない。だからこそ、供給が少なくても何とかなるのではないかというのは、ある程度まで正しい。
 需要は大きいが、その為に必要な量はごく少量だ。供給が少なくても何とかなる可能性はある。 
「そもそも、あいつの血っていつまで特性を失わないんだ? 身体から抜いて数時間で駄目になるのか?」
「分からん。だが、少なくとも数日は持つ。そこから先は分からないが……」
「そこまで分かってるなら、別にあいつが死んでても問題ないだろ。生きてる方が良いけど、死んでても良いやって感じで」
 そう言い、彼は席を立った。音を立てることなく部屋を出て窓を見る。
 彼の視線が向いている方角には霧生家がある。肉眼で確認することなど不可能な距離があるのだが、彼はまるで目の前に霧生家があるかのように唇を吊り上げる。
「莉世も契も隠れてた時間が長すぎる。平穏に慣れすぎた身で、俺たちから逃げ切るつもりか? だとしたら相当な馬鹿だな」
 朔は踵を返す。一定のリズムで靴音が響き続け、それもやがて消えた。


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