海の底 17


 

 雨が窓を叩く。その音を聞きながら、莉世は膝を抱える。
 今までずっと、『結城莉世』だと思って過ごして来た。
 けれどそれは、事実であって真実ではなかった。
 この身体は、結城莉世だ。
 だが、この精神は結城莉世を反転させた、言わば偽物なのだ。
(私は、裏…………)
 結城莉世であることは事実だ。けれど、契にとって唯一無二の存在であった『莉世』ではない。
 本来の『彼女』に劣る偽物。それが今の莉世だ。
(『彼女』が表で、私が裏……)
 莉世の記憶は約十四年分だが、それ以前の記憶は全て『彼女』の記憶であり過去だ。
 そして、ここ数日の夢の大部分は『彼女』の記憶だと契は語った。同時に、莉世と『彼女』の境界が曖昧になっているとも。
(反転してたものが、元に戻る……)
 俯き、額を膝に当てる。さらさらと零れた髪が腕を擦った。
 表になっていた裏が裏に戻り、裏になっていた表が表に戻る。それと同時に裏である莉世は消え、『彼女』だけが残る。
 莉世と『彼女』の境界が曖昧になり、いずれ莉世が消えれば『彼女』だけが残る。その時、『彼女』の中に莉世の記憶があるかどうかは分からない。
 莉世が裏ならば、表である『彼女』は莉世の記憶など受け継ぐことなく目覚めるかもしれない。
 そうなれば、彼女は本当に消えてしまう。
 存在していた事実だけが残り、それもいずれ忘れられ、やがて存在の全てを失う。
(私が、死ぬ……)
 その事実に、莉世は耐え切れない。
 始めから偽物だと知っていたら何も感じなかったかもしれない。だが、契は今までこのことを黙っていた。言わない方が良いと判断した結果だろうが、莉世はそれを僅かに恨む。
 始めからそうだと知っていたら、全てを諦めた。何も感じないように生きて、いつ消えても何の後悔も抱かないようにする。誰かの記憶に残ることすら放棄して過ごしたはずだ。
 だが、現実はそう上手く行かない。
 何も知らなかった莉世は何も知らずにごく普通に過ごし、人と関わった。突然存在が消えると言われて、それを受け入れることも出来ない。
 今まで疑ったことすらなかった自己の存在、それを根底から否定され、莉世は目を瞑る。
 いつの間にか、雨音が大きくなっていた。



 
「じゃあ、結局莉世に言っちゃったんだ」
「うるさい」
「契、何で弥生と仲悪いのさ。ほぼ同い年でしょうが」
「弥生は一つ下だ。これと同い年なのは莉世であって俺じゃない。頭打ったのか?」
「いや、興味ないだけだよ」
 なら言うな、という言葉を呑み込み、契は紅茶を飲んだ。
 窓を見る。雨が降っているからか、本来見えるはずの庭は全く見えず、かなり暗い。
 もう一度紅茶を飲み、普段飲む紅茶とは違う香りに契は眉を寄せた。
 ここ数年は莉世の好みに合わせていた所為か、それ以前に亜梨紗に付き合わされて飲んでいた紅茶を飲むと僅かな違和感を覚える。
 クッキーを半分に割る音が響く。それを食べた弥生は契に声を掛ける。
「でも、何で莉世に言ったの? まだもう少しぐらい、時間あるでしょ?」
「それがなくなったんだ。莉世はもう限界で、『彼女』の記憶も混ざり始めてる。本当に限界が来て、崩壊するのも時間の問題だ」
「でもそれ、契の所為よね? 契があの娘から血を吸ってたから、ゆっくりと『彼女』が起きた。違う?」
 黒い髪が揺れた。それを見ながら、契は断言する。
「違う。俺のやったことで『彼女』が起きたりしない。単純に、予定よりちょっと早くなっただけだ」
「早すぎるんじゃないの? 次の二月六日までは大丈夫だったんでしょう?」
「理論上はな。でも、『彼女』はそんな簡単に抑えられる吸血鬼じゃない。『彼女』の場合は予定よりも早くなるのが当然だ」
 弥生は眉を寄せながらクッキーをもう一枚食べる。納得出来ない、と顔に出ているのを見て、契は奏を見る。
「お前の妹、俺の説明は信じないつもりらしいぞ」
「まぁ、そうだろうね。僕も早すぎるのは契が原因じゃないかって疑ってるから」
「疑うな。俺が原因かどうかなんて『彼女』に聞くしかないぞ。外から見るのと、内から見るのは別だ」
「そう言われてもね……僕たちは『彼女』に話を聞くのが無理なんだけど?」
「三日待て。多分それぐらいだ」
 紅茶を飲み、小さく溜息を吐く。
 三日で莉世と『彼女』が入れ替わる確証がある訳ではない。ただ、その可能性が高いと思っているだけだ。   
 莉世の存在の全てを否定した。偽物だと突き付けられた『自分の存在』に、莉世は耐え切れない。それぐらいは予想出来るのだ。
「三日待てって、適当ね。結局、契は莉世なんてどうでも良かったの? 『彼女』が大事だから、仕方なく莉世も護ってたの?」
「何でそうなるんだ」
 弥生を見る。クッキーを半分に割りながら、彼女は微笑む。
「あっさり現実を突き付けたから。あの娘の精神を破壊したいのかと思ったの。まぁ、私は『彼女』がどこまで莉世なのかが気になるけど」
「最大で二割。下手したら、莉世なんてたった数パーセントの可能性もある。結論だけ言うなら、『彼女』は『彼女』で莉世じゃない。『彼女』の存在が莉世の内の何割かを受け継ぐことはあっても、『彼女』の本質は何も変わらない」
「偽物の記憶ぐらいじゃ揺らがないってことなの?」
 微笑んだまま、弥生は首を傾げる。
 普段の彼女にある攻撃的な雰囲気ではなく、純粋な疑問を問う子供のような雰囲気に契は一瞬だけ莉世を思い出す。
「お前、何かおかしいぞ」
「やっぱりそう思う? 夜中から体調が変なの。多分、『彼女』に引きずられてるんだと思うけど……」
「変な引きずられ方だな」
 弥生と『彼女』の間には奇妙な縁がある。ただ血縁だからという理由ではない何かで弥生は『彼女』の影響を受け続けていたのだ。
 けれどそれは、ここ十数年なかった。『彼女』が静かな眠りに就いている間は沈黙していたものが、再び表に現れる。それは、『彼女』の目覚めが近い証拠だ。
「でも、早くしたほうが良いわよ。今の莉世を壊したくないならあと数時間の間に『彼女』を目覚めさせた方が良いわ」
「数時間?」
 眉を寄せる。いくら莉世が否定された事実に耐え切れなくても、莉世と『彼女』の境界が完全になくなるまではあと三日ほどある。数時間の内に壊れるなど、本来ではありえない。
「あの娘、考えすぎなのよ。考えるってことで『彼女』の記憶を引きずり出しちゃってる。それに、忘れたいから寝るって言うのも『彼女』の記憶を見るから駄目だし……」
「何をしてもマイナスか……」
「そういうこと。私、ちょっと寝てくる。頭痛くて駄目」
 言いながら立ち上がり、弥生はリビングを出る。残った契と奏はそれぞれ紅茶を飲み、互いに干渉することなく時間を潰す。
 莉世と『彼女』が入れ替わり、本来の結城莉世が目覚めても何もないことを祈りながら。



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