事実と過去 16



 写真を眺める。
 その行動に何の意味があるのだろうと弥生は自問する。
 過去を懐かしんでも、意味はない。その行動で死者が生き返る訳ではなく、自身が癒される訳でもない。
 既に失った未来に執着しても意味はないのだ。
(なら、捨てる? この写真も、想い出も)
 自問して首を振る。この写真も想い出も、彼女は捨てれない。
 こんな時だけ、契が羨ましいと思う。
 彼は、十数年前に平穏を失っても、可能性を失わずに済んだ。未来もそのまま残されたのだ。
 弥生と奏は平穏と可能性、未来の全てをなくした。けれど、彼だけは失わずに済んだのだ。
(何で、契だけは失わなかったの? あそこにいたから? 私たちが何も出来なかったから?)
 彼も失ったものはある。けれど、『彼女』に関する可能性だけは失わずに済んでいたのだ。
(どうして、私と兄さんは失ったの? 何で、あの時信と亜梨紗も逝ったの?)
 理由など分かっている。信と亜梨紗が逝ったのは、『彼女』を護る為だ。『彼女』を無事に逃がす為に、彼らは犠牲になった。
(私たちは、どうして残されたの……)
 一緒に逝きたかった訳ではない。『彼女』を護ることなど最初から諦めていろというつもりでもない。けれど、『彼女』を護り、帰ってくるという選択肢を排除した彼らに文句を言いたい。
 残された『彼女』が悲しむことが分かっていたはずなのに、どうして帰ってこなかったのだと。諦めずに、彼らも来れば良かった。
 そうせずに逝き、『彼女』を残した。そんな二人に、弥生は文句を言いたいのだ。
「約束ぐらい、守りなさいよ……」



 
 空がない。あるのは水だけで、彼女は水の中を漂っていた。
 息を吐く。酸素を失う恐怖はなく、水が気管に入ってくる苦しさもなかった。
 夢を夢だと意識しながらも、このまま目覚めなくても良いかもしれないと思う。
 夢の中なら、恐怖を感じることもない。恐れていることが現実になることもなく、ただ平穏の中で過ごせる。
 青い水はただ青く、それ以外の色には染まらない。そう思っていた彼女の目の前を紅い筋が流れる。
 それは少しずつ数を増して青かった水を紫に染め、やがて紅く染めた。 
 紅く染まった水が引いていく。水に満たされていた部屋は白い壁で囲まれ、床に僅かな水が残る。
 そこに、紅い雫が落ちる。それがどこから落ちてきたのか分からず視線を動かした彼女は自身の右腕が紅く染まっていることに気付く。
 それを意識すると同時に周囲が赤く染まる。白かった床も壁も紅くなったことで、彼女は自身の身体から血が失われたことに気付く。
 何もかもが紅い。彼女自身の髪や、服も血を吸って色が変わっている。
 血溜まりに自身の姿が映り込む。そこに映った彼女は彼女であって彼女ではない。
 その微細な差を見つけた彼女は悲鳴を上げた。


 飛び起きる。それと同時に右腕を見た莉世はそこが紅くないことに安心して息を吐いた。
(びっくりした……)
 夢は夢だ。けれど、あんな夢を見れば流石に驚く。
 僅かに湿っている髪を梳く。パジャマにしても、悪夢を見た所為か湿っている。
 着替えを持って部屋を出る。階段を降り、リビングの前を通る。
 莉世はシャワーを浴びながら夢の残滓を忘却する。いつまでも憶えていたくないことはすぐに忘れるべきだ。少なくとも、彼女は今までそう過ごして来た。
 泡を流して髪を梳く。シャワーを止め、莉世はバスタオルを掴む。
 パジャマを着て髪を纏める。普段と違い、緩く結んだ髪に莉世は若干の違和感を覚える。
(落ち着かない…………)
 けれど、結ばずに流していると背中が濡れる。落ち着かないが結んでいる方がマシだろう。
 リビングの前を通り、階段を上がる。その途中で、莉世は足を止めた。
 等間隔に存在する窓。その内の一つに莉世自身の姿が映り込む。普段ならば気に止めないのだが、何かが引っかかる。
(違う……?)
 違和感がある。髪を結んでいる所為で窓に映り込む姿が違うのではない。そんな差など関係ない違いがどこかにある。
 ぼんやりとした姿しか映っていない。その中で、莉世は違和感を解消する為に違いを探す。
 身長が変わった訳ではない。服装や髪型が違うのは関係ない。髪の色も変わっていない。
 そこまで確認して、莉世は息を呑んだ。同時に、夢の内容を思い出す。
 あの夢で、血溜まりに映り込んでいた莉世は違った。その違いが、窓にも映り込んでいる。
 瞳の色が違う。
 それ以外は何も変わらないのに、そこだけが違う。
 上げそうになる悲鳴を堪え、部屋に戻る。テーブルの上に置きっ放しになっていた鏡を見て、瞳の色を確認する。
 暗い所だったから見間違えた、その可能性に期待していた莉世は呆然とする。
 彼女の瞳は、夢と同じ様に色が変わっている。


 目が覚めた。
 言葉にすればそれだけのことに契は首を傾げる。
 普段なら、こんな微妙な時間に目が覚めることはない。眠ってから四時間しか経っていないのに起きることは珍しい。
 二度寝する気になれず、起き上がる。部屋を出て階段を上がり、莉世の部屋の扉を開ける。
 まだ寝ているだろうと思って音をさせないように開けたが、灯りが漏れてきた。
「莉世?」
 こんな時間に起きているはずがない。電気を消し忘れたまま寝たのだろうかと思いながら部屋の中に入る。
 ベッドの上に、莉世はいた。寝ているのではなく、膝を抱え、膝頭に額を押さえつけている。
「莉世?」
 もう一度声を掛ける。普段ならば、莉世はすぐに顔を上げる。そもそも、こういう行動を取らない。
 莉世の髪が揺れた。昔から長く伸ばしている髪は、湿っているのかいつもよりも深い色として契の目に映る。
 けれど、そんなことはどうでもいいことだ。顔を上げた莉世がいつも通りなら、契はその髪を梳いた。
 だが、違った。
 莉世は泣いていた。
 淡い色の瞳に膜を張るかのように涙が浮かぶ。その瞳の色に、契は違和感を覚える。
 莉世の瞳の色よりも、澄んだ色。莉世本来の瞳というよりも、『彼女』に近い色。
「莉世?」
「起きたら、こうなってたの……。理由とか、全然分からなくて……」
 膝を抱く手が震えている。浮かんでいた涙が頬を伝い落ちる。両手で顔を覆った莉世に、契は問う。
「何か、あった? 変な夢見たとか、そういうこと」
 莉世の肩が跳ねる。顔を上げた彼女は「変な夢は見たけど、関係あるの……?」と呟く。
「内容次第」
「白い部屋が、紅くなって……私、そこで怪我してたの。右腕だったと思う。床に出来た血溜まりに私が映ってて、それも、瞳の色が違った……。この夢、何か関係あるの?」
 莉世の瞳が揺れる。夢の内容を話した所為で再び泣き出しそうになっている彼女の頭を撫で、契は口を開く。
「あると言えばあるし、ないと言えばないんだけど……俺が前に妹みたいな子はいたって話したの憶えてる?」
 莉世が頷く。それを受けて、契はもう一つ問う。
「じゃあ、東宮鈴って奴が莉世が『彼女』に似てるって話したのも憶えてる?」
 もう一度、莉世が頷く。
「何で、そんなこと確認するの……?」
「東宮鈴が言ってた『彼女』って俺の妹みたいな子だったんだ。で、今の莉世と『彼女』は同じ目の色してる。本来ならありえないってことぐらいは分かる?」
「分かる……。でも、何で?」
 莉世からすれば、いきなり『彼女』の話が出て来ても何も分からない。ただ、契にいた妹のような存在の話が関係するとしか思えないはずだ。
「俺は、一度『彼女』を海の底に沈めた。海の底とか水の底とか精神の底とか、ひとによって言い方は違うけど、とにかく『彼女』をここから遠ざけた」
 過去を語る。それは同時に、莉世に告げていなかった真実を告げることになる。
「ここから遠ざけても、『彼女』の身体は残ったんだ。『彼女』を隠す為に、『彼女』の精神を反転させた子を、『彼女』の身体に残した」
「……どういう、こと……」 
 莉世の声が震える。知りたくないと思っているのが契にも伝わる。
 知りたくないのも、聞きたくないのも、当然だろう。莉世は勘が良い。この話の意味する所をすぐに理解してしまう。
「莉世は、『彼女』を反転させた……『彼女』の裏で、本来の『彼女』を眠らせる為に存在してたんだ」
 莉世の瞳が凍り付き、罅割れた。




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