事実と過去 15



 蒼い景色を見た。周囲よりも頭上の方が薄い色をした景色。
 浮かんだのはおそらく吐き出した息で、苦しくないことだけが救いだった。
 ゆっくり、ゆっくり沈んでいく景色。水面の明るさが遠ざかり、泣きたくなるような気持ちで彼女は水面を見つめ続けていた。
(変な、夢…………)
 ベッドに寝転がったまま自身の夢をそう評価した莉世は時計を見て眉を寄せる。
 文字盤が示していた時刻は十二時半、とっくに午後だ。
 起き上がり、部屋を見る。既に契の姿はない。いつものことと言えばいつものことだが、莉世は「起こしてくれても良いのに」と呟き、溜息を吐いてから部屋を出る。
 自室に戻って着替え、コートを持って階段を降りる。リビングの扉を開いた莉世は中にいた葉月に声を掛ける。
「葉月さん、ちょっと散歩行って来る」
「お昼は?」
「お腹空いてないからいらない」
 そう告げて莉世は玄関へ向かう。普段なら誰かとすれ違うこともあるのだが、今日に限っては誰ともすれ違わずに門を通れた。
 商店街の方向に向かって歩きながら、莉世はぼんやりと思考する。
 一昨日から、何かが変だ。今日の夢はただの夢の可能性もあるが、昨日や一昨日に浮かんだ光景はおそらくそういうものではない。
(フラッシュバックってこともないだろうし…………何だったんだろ、あれ)
 見た物を説明する、それだけの行動にも疑問が付き纏う。奇妙なことがあった、それだけの認識で済ますことにし、莉世は息を吐いた。
 コートのポケットに手を入れる。財布を持って来るのを忘れたが、小銭ぐらいならあるかもしれない。
「百二十円……」
 ちょうど自動販売機で缶ジュースを買えるが、コートのポケットに入っていた理由が思い出せない。
(適当に入れたのかな?)
 それしか理由がないが、適当なことをしていた事実に莉世は眉を寄せる。常にきっちりとしている訳ではないが、それにしても酷い。
 歩きながら自動販売機を探す。暫く歩いた所でそれを見つけた莉世は温かい紅茶を買う。
 ベンチに座り、紅茶を飲む。
 休日の昼間であるからか、買い物をしている人は多い。友人同士で歩いている人もいる。
 そういう人たちを眺めながら、莉世は紅茶を飲む。
 普段なら、散歩に出ようとは考えない。にも拘らず散歩に出たのは、昨日のことがあるからだろう。
 変な物を見た、そんな話をしようとは思わない。知られたくないと思うのだ。
 心配を掛けたくない。だから、莉世はある程度区切りをつけるまで散歩に出ることにした。
(どうせなら、もうちょっと遠くまで行けば良かったかな)
 商店街を歩くぐらいでは、片道三十分ぐらいの散歩にしかならない。家の近所を歩くだけではなく、どうせならもう少し遠くまで行けば良かったと後悔する。
(…………お腹空いてきた)
 何も食べずに散歩をしたからか、流石に空腹を覚え、莉世は紅茶を飲み終わると立ち上がる。
 ゴミ箱に缶を捨て、帰り道を歩く。その途中で、後ろから声が掛かった。
「ねぇ、この辺に霧生家ってあると思うんだけど、貴女、場所知ってる?」
「霧生家、ですか?」
「ええ、霧生家」
 声を掛けられた莉世は内心で首を傾げる。霧生家に用があるのは大抵が吸血鬼だ。けれど彼らは、ほぼ必ず夜に訪ねて来る。昼間に訪ねて来るのは、よほど急ぎの用事の時だけだ。 
「何か、用なんですか?」
 莉世が問うと、相手は小さく微笑んだ。どこかで嗅いだことのある花の匂いが広がり、緩くウェーブした髪が揺れる。
「ええ、用があるの。霧生家には、一人だけ人間がいるでしょ? 結城莉世って名乗ってる子が」
 その言葉に莉世の肩が跳ねる。
 吸血鬼の血筋である霧生家に、人間である莉世が居候している。それは、吸血鬼の間では好奇心とともに広がった情報だ。だから、知られていてもおかしくはない。
 けれど、莉世は目の前の少女から自身の名が出たことに動揺する。
 今まで、莉世は霧生家に住んでいる吸血鬼以外の吸血鬼と一対一で話したことがない。常に誰かが傍にいた。だが、今は誰もいない。
 それが怖い。
「…………会って、どうするんですか?」
「簡単よ。私と一緒に来てもらうの。もちろん、貴女の意思なんて無関係に」
「私が、結城莉世だって言う証拠でもあるんですか?」
 莉世は、名乗っていない。にも拘らず、目の前の少女は『貴女の意思』という言葉を使った。莉世が莉世だと分かっているからの発言だろうが、だからと言って「はい、そうですか」と連いて行く様な馬鹿ではない。
 彼女を無視して霧生家まで帰れば良い。
 そう決め、莉世は踵を返そうとした。その寸前で、少女の声が耳に入る。
「証拠ぐらいあるわよ。貴女、『彼女』にそっくりだし、契にも似てるわ」
「どういう、意味ですか?」
 莉世は、契に似ていない。少なくとも、彼女自身はそう思っている。
「似てるのよ。自覚がないのはそう考えて見ないからね。それに、私は貴女の過去を知ってるわ」
 その言葉に莉世は眉を寄せる。
 過去を知っている、その言葉の意味がいまいち分からない。
 莉世にとって過去とは霧生家に来てからの十数年だ。それ以前にどこで暮らしていたかは記憶になく、当然興味もない。
 だから、過去を知っていると言われても興味は湧かない。ただ警戒するだけだ。
「何なんですか、あなた」
「私? 東宮鈴、東宮家の次期当主よ。貴女にとって分かりやすく言うなら、吸血鬼よ」
 目を見張った莉世に向かって鈴の手が伸びる。薄い色を塗られた爪が莉世に向かうが、それは別の手によって払われる。
 薄紅の唇が歪んだ。
「ほんと、いつもいつも邪魔するのね」
「うるさい」
 鈴の手を払った契は右手で莉世を下がらせる。莉世は数歩下がり、契に声を掛ける。
「契、何で…………」
「帰ったら話すよ。だから、あと」
 その言葉より僅かに遅れて「そういうこと。莉世はさっさと帰るよ」という声が掛かる。振り向いた莉世は奏を見つけて眉を寄せた。
「何で奏まで…………」  
「まぁ、それは気にしない。さっさと帰るよ」
 奏に急かされ、莉世は踵を返した。
 数歩歩いて、肩越しに契を見る。彼女に背を向けている契の表情は見えない。けれど、莉世は直感する。
(怒ってる…………)
 その対象は彼女には分からない。分かるのは、契が怒っているという事実だけだ。
 そして、その事実に彼女は嫌な予感を覚える。言葉には出来ない、曖昧な予感。だが、それが近い内に現実になりそうな気がした。



「帰しちゃって良かったの?」
「良いんだよ、帰して。お前に何かされるより安全だ」
 鈴の言葉に契はそう返した。
 ここにいるよりも、霧生家にいる方が安全だ。契がいなくても、あそこには睦月がいる。能力的には何の問題もない彼に任せておけば、莉世の安全についての心配ない。
「私が言いたいのはそっちじゃないわ。霧生の次期当主と帰らせて良かったのって言いたいの」
「ここから帰るぐらいだったら何の問題もない。大体、お前は何の用があって来たんだ。莉世に何かする気だったのか?」
 鈴の唇が弧を描く。
「それ以外に何があるの? 私は『彼女』が欲しいのよ? 人質でもあり捕獲対象でもあるあの娘を狙うのは当然でしょ?」
「ここにいない『彼女』を手に入れるのは無理だ。そもそも、『彼女』はお前の話なんて絶対に聞かないぞ」
 他の誰よりも『彼女』を理解している契はそう断言する。『彼女』は鈴の話など聞かない。仮に聞いたとしても、鈴の良いようには動かない。
「でしょうね。だって『彼女』、契にそっくりだもの。私の思い通りには動いてくれないわ。でも、『彼女』の意思を尊重する必要なんてないのよ?」
「そういう考えだから俺は東宮家が嫌いなんだ。『彼女』を何だと思ってるんだ?」
 その問いに鈴は微笑む。
「大量殺戮が可能な吸血鬼。そう思ってるわよ?」
「十数年経っても同じ考えのままか」
「ええ、そのままよ。だって、『彼女』はそういう存在だもの」
「そう思ってるから『彼女』がそういう存在に見えるんだよ。『彼女』の本質はそんなものじゃない」
「じゃあ何? 『彼女』の血は契という例外以外は全て殺し尽くすわ。それを大量殺戮が可能と取るどこがいけないの?」
 その言葉に契は舌打ちする。
 分かっていた。『彼女』の特性をそう取る吸血鬼が多すぎることなど、とっくに理解していたのだ。けれど、『彼女』はそんなことを望んでいない。
 同胞を滅ぼす願望など絶対に抱かない。それは『彼女』の性格と、家族がそうならないように願ったからだ。だからこそ、契は我慢出来ない。
「何でお前らは『彼女』から平穏を取り上げる? 『彼女』が殺戮を望んでないことなんて誰でも分かるだろ」
「関係ないわよ。『彼女』の意思なんて無視して、私たちはしたいようにするわ。便利な物があるのに使わないなんてもったいないじゃない」
「……『彼女』は物じゃない。『彼女』にも意志はあるんだぞ」
「知らないわ。『彼女』に意志があって、尚且つ『物』じゃないと思うなら貴方が気を付けていれば良いでしょう? 『彼女』に隙を作ってるのは貴方の油断なのよ。まぁ、隙だらけの方がありがたいんだけど」
 そう告げ、鈴は嗤う。
「じゃあ、また来るわ。次は、『彼女』を貰うから」
「そんな未来は来ない」
「来ないなら、引き寄せるわ」
 鈴が姿を消しても、花の香りが残る。その香に、契は溜息を吐いた。
(相変わらず香水臭い)
 数日前にすれ違った時からずっと思っていたが、香水がきつすぎる。吸血鬼は人間よりも鼻が良い、それにも拘らず香水をつけている辺りは嫌がらせだとしか言えない。
(帰るか)
 帰り道を歩きながら、契は唐突に思い出す。
 鈴とすれ違った時、莉世も香水がきついと感じていた。
 吸血鬼ではない莉世すらも、きついと感じていたのだ。本来ならばきついと思わないはずなのに。
(……やっぱり、限界か) 
 莉世の限界が近い。けれど、いつが限界なのか契には分からない。限界寸前という事実しか分からないのだ。
 玄関を開ける。階段を上がるか、リビングに向かうか数秒だけ考え、リビングの扉を開ける。
「葉月さん、莉世は?」
「寝るって戻っちゃったわよ。お昼も食べてないのに……」
「そっか」
 廊下を歩き、階段を上がる。自分の部屋の扉を開けた契はコートを脱ぎ、溜息を吐いた。
 限界が近付けば近付くほど、莉世は体調を崩す。その兆候は既に現れている。
(迎えに、行かないとだめなんだろうな)
 壁に背を預け、『彼女』のことを思い出す。
『彼女』は契が迎えに行かなければならない。それ以外の誰かが『彼女』を迎えに行くことは不可能であり、そんなことになれば『彼女』は壊れる。
 目を閉じる。そうして浮かんだ光景は『彼女』と亜梨紗がいた頃の庭だ。二人が好きだった桜の花、それが満開だった時に奏も入れて四人で写真を撮った。
 あの写真が、最後の写真だった。あれ以降に撮られた写真には亜梨紗も『彼女』もいない。
(本当に、あれが最後だったな。亜梨紗の予言が当たるなんて、俺も奏も予想してなかったのに)
 そうなるはずがないと笑った言葉が現実になった時、契は自身が無力だったことを知った。
 何も出来なかったから、次に同じ様なことがあれば同じ結末を迎えないと決めた。だから、することは決まっている。
 莉世を喪えない。
 喪わなくて済むように、契は莉世を護り通す。 



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