事実と過去 14



 莉世は寝返りを打って枕元に置いていた時計を取り、文字盤を見た。
(一時、半…………)
 普段ならば既に寝ている時間だ。けれど、今日に限ってすぐに眠れない。  
 上体を起こし、時計を枕元に置く。膝を抱えた莉世は小さく溜息を吐き、考える。
 眠れないのは事実だ。けれど、このまま起きていてもすることがない。そして、起きているのが知られれば怒られる。
(諦めてリビングに行くか、契の部屋に行くかの二択か……)
 数秒間悩み、莉世はカーディガンを羽織って部屋を出る。階段を二階分降りてリビングに向かった莉世はリビングの扉を開ける寸前に頭を叩かれた。
 驚いて振り向くと、そこには呆れ顔の奏がいた。彼はその表情のまま口を開く。
「何でこんな時間に起きてるの、さっさと寝ておいで」
「寝れないから、ココア飲もうと思ったの。飲んだらすぐに寝る」
「そう、契には言って来た?」
 その言葉に莉世は眉を寄せる。契の名前が出てくる理由が分からない、と思っていると奏が首を傾げた。
「もしかして、今日は一人で寝てた? 珍しい」
「どういう風に考えてるのか知らないけど、私だって一人で寝るよ。と言うか、契と一緒に寝る日の方が少ないの」
「てっきり昔みたいに毎日一緒かと思ってたよ。まぁ、良いや。ココア飲んだらさっさと寝れば?」
「そうします。あと、昔みたいにってどういうこと? 奏の中で私はまだまだ子供ってことなの?」
「うん。君はまだまだ子供。別に何も間違ってないと思うけどね。僕たちと君は感覚が違う。契だって、何だかんだ言って莉世のこと子供扱いしてるよ」
 奏の言葉の後半を莉世は無視した。聞く価値もない、そう判断してキッチンでココアを淹れる。
 明かりを点けていても、リビングは暗い。夜中だから仕方ないとは言え、莉世にとって暗闇は純粋な恐怖を思い出させる。
 窓を見る。部屋の風景が反射する窓ガラスに莉世の姿が映り込んでいた。湯が沸くまでの間、莉世はそこを見る。
 髪は、黒くない。同じ様に、瞳の色も黒ではない。その色が彼女自身は嫌いだった。白すぎる肌も、小柄な体格も嫌いなのだ。
「髪、切ろうかな」
 小さく呟く。腰まで伸びた髪は数年変えていない。最初に伸ばし始めた理由も憶えていないが、気が付くと何年もこのままだった。
「ばっさり切るの?」
 奏に問われ、莉世は視線を動かす。
 いつの間にか後ろに移動していた奏は、莉世の隣でコーヒーを淹れ始めている。
「考え中。悩んでる」
「契とか落ち込みそうだね。莉世、ずっと髪長かったから」
「うん。だからどうしようかなって悩むの。ばっさり切ったら落ち着かないし……」
「じゃあそのままでいなよ。僕としてはばっさり切って欲しいけど」
 その言葉に莉世は首を傾げる。ココアを淹れ、マグカップをテーブルの上に置いて莉世は問うた。
「奏、それ、どっちなの?」
「そのまま。莉世が切りたくないならそのままでいれば良いって思ってるよ。でも、僕の意見は切れば良い」
「…………何で? 葉月さんとか、弥生も髪長いのに」
「一番長いのは莉世でしょうが。まぁ、三人揃って同じ様な長さだから一人ぐらい短いのがいても良い様な気はするけどね」
 奏が自分のマグカップにコーヒーを淹れる。ぼんやりとそれを眺めていた莉世は「奏と陸兄似てない」と呟く。
「外見が? 性格が?」
「両方。奏は裏でこそこそ戦略立てて、美味しいとこだけ持って行きそうだけど、陸兄は普通なら騙されない話に騙されそう」
「つまり、莉世は兄さんは馬鹿だって言いたいの?」
「身も蓋もなく言うと、そう。でも、別に陸兄が嫌いって訳じゃないけど」
「契が好きなだけでしょうが。そういう方向で見るなら僕も兄さんもかなり離れてるから」
「契を基準してない」
 莉世は首を振ってそう告げ、マグカップを持ち上げる。その中のココアを飲もうとして、まだ熱すぎることに気付き諦める。
「大体、何で契なの? ついでに言うと、契が好きなだけってどういう意味?」
「そのまま。傍から見てると絶対にそうだって思うよ。で、実際は?」
「分からないから黙秘。答える必要もないし、奏だって興味ないでしょ?」
「ないね。全くない。どうでも良いよ」
「なら聞かないで。興味ない話聞いても面白くないと思うんだけど」
「まぁ、そうだね」
 小さく呟いた奏の目に感傷が浮かぶ。それに気付かない振りをしながら、莉世は熱すぎるココアを一口飲んだ。
「熱い……」
「じゃあ冷ましてなよ」
「良い。このまま持っていく。おやすみ」
「おやすみ」
 莉世はマグカップを持ったまま階段を上がる。二階に着いてすぐ、このまま廊下を歩くか再び階段を上るか考え、数秒で結論を出す。
 扉をノックする。返事がないのはいつものことだから、小さな隙間を開けて部屋の中を見る。
 最初に感じたのは眩しさだ。ほとんど灯りの点いていない廊下と違って、部屋の中は明るい。思わず目を瞑った彼女に、部屋の内側から声が掛けられる。
「莉世?」
「契、起きてる?」
「起きてなかったら電気消してる。おいで」
 その言葉に従い、莉世は扉を閉める。明るさに慣れるまでの間下を向いていた彼女はやがて顔を上げて謝る。
「遅くにごめんなさい」
「別に良いよ。本来ならこの時間が正しいし、本読んでただけだから」
「何読んでたの?」
「古い本。ちょっと読みにくい」
 そう言って契は机の上に本を置く。その隣に伏せられた写真立てがあることに気付いた莉世は「写真立て、伏せてて良いの?」と問う。
「良いよ、それはそれで正しいから」
「でも、写真、見えないんじゃないの?」
「見えなくて良いんだよ。どうせ、見て楽しいものじゃない」
 契の言葉に莉世は首を傾げる。見て楽しいものではない写真を飾り、それを伏せて置く。その行動の真意が彼女には分からない。そして何より、契の言い方は若干機嫌が悪い時のものだ。
「契、怒ってる?」
「怒ってないよ。でも、その写真立て、触らないで放っといて」
「うん」
 ベッドに腰掛け、莉世はココアを飲む。まだ熱いそれはマグカップの半分以上残っている。
 それを少しずつ飲んでいると、契が莉世の髪を梳きながら「莉世、一人で寝るって言ってなかったっけ?」と苦笑混じりに問うた。
「言ったよ。それに、二時間ぐらいは寝てたの。さっき目が覚めて、そのまま寝れなかったから」
 空になったマグカップをテーブルの上に置く。ベッドに近いそれの上に置かれている物はほとんどなく、ベッドから遠い机の上には本や写真立てを始めとした物が適当に置かれている。けれどそれも、必要最低限の物しかない。
 そして、莉世の知っている限り机の上に置かれている物の中で私物と言って良いのは写真立てだけだ。それ以外の私物は全てクローゼットの中に仕舞われて、しかもろくに整理していないことを莉世は知っていた。
「掃除」
「掃除がどうかした? するなら一回寝てからじゃないと体力持たないんじゃないの?」
「ううん、そうじゃなくて。契の部屋のクローゼット、たまには整理した方が良いんじゃないのかなって思ったの」
「一昨日ぐらいにしたから大丈夫。まぁ、それも半年振りぐらいだったけど」
 それを聞いた莉世は「そうなんだ」と呟く。
「ねぇ、さっきの本、読んでも良い?」
「読めないと思うよ」
 契が本を取って莉世に渡す。それを開いた彼女は眉を寄せた。
「ほんとに読めない……。これ、何の本?」
「何だっけ。まぁ、古い本。確か、霧生とかその辺に関する本だったと思う。何代か前に書かれた本だし…………」
「どれぐらい古いの?」
「睦月さんが完全に忘れてたから、相当古いはずだけど、いつ書かれたのかは知らない」
 その声を聞きながら莉世は文字を眺める。筆で書かれたそれは何百年も前の物であるからか、書いた人物の所為かは分からないが彼女にはほとんど読めない。
 読める文字だけを拾っても、文章にはならない。文章にならない物から書かれている内容を推測するのは彼女には出来ないことだ。
(結、の姫、朱、月……)
 読めた文字を頭の中に浮かべる。それを文章にしようとして、莉世はすぐに諦めた。
 何が書いてあるのか全く分からない、そんな本を読む気にはなれない。
「契、何でこの本を読もうと思ったの?」
 本を机の上に置いてから問うと、苦笑しながらの返事が返って来る。
「調べ物。ちょっと気になることがあったから」
「へぇ…………。大変そう」
「まぁ、莉世からしたらそうだろうね。でも、案外何とかなるよ」
 長い髪を契の手が梳く。それを気にせずに放っておいた莉世は唐突に頭痛を覚えた。
 ぼんやりと映像が浮かぶ。
 最初に見えたのは碧だ。見える全てが青く、ゆっくりと沈むように濃さを増す。まるで海の底に沈んでいくような映像の次は白い部屋。
 白い石で囲まれた部屋と、ゆっくりと広がる紅い色。
 今まで見たことがないと断言出来る物が浮かび、莉世の肌は粟立つ。
(何なの、これ……っ)
 記憶にないはずの物が浮かび、知らないはずなのに知っているはずだと思う。その矛盾に莉世は頭を抱える。
「莉世?」
 契の手が背中に触れる。顔を上げた莉世は契の顔を見て息を吐く。
「大丈夫、ちょっと、びっくりしただけ」
「顔色悪いよ。もう二時だし、寝たら?」
「そうする。契は?」
「俺はもうちょっと調べ物してる。気にせず寝てて良いよ」
 その言葉に莉世は小さく頷き、カーディガンを脱いでから横になる。
 目を閉じて、碧と紅を追い出す。その途中で彼女は契に問う。
「契、ちゃんと寝るよね?」
「寝るよ。俺の睡眠時間の心配はしなくて良いから、さっさと寝たら? 怖い夢見るよ」
「それはやだ。おやすみなさい」
「おやすみ」



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