事実と過去 13



 ひんやりとした空気が入り込む。莉世が扉を開けたことに気付いた契は視線を動かし、苦笑する。
「莉世、勉強は?」
「寝る前にするから良いの」
 莉世は契の隣に座り、首を傾げる。
「でも、何でそんなこと聞いたの? 普段なら聞かないよね?」
「何となく。寝る前にするのって効率悪いんじゃないの?」
「静かな方が出来るから。三階、夜の方が静かでしょ?」
「昼も静かだよ。誰か来ても、三階まで上がるひとって少ないから」
 睦月や奏に用があって訪ねて来ても、それは大抵一階で話せば済む。わざわざ三階まで上がろうとする者などいないのだ。
「時々騒がしいけど?」
「バルコニーがあるからじゃない?」
「バルコニーで優雅にお茶してるってこと?」
 莉世の髪が揺れる。その髪を梳きながら、契は「多分。俺は興味ないから知らないけど」と呟く。
「莉世、お風呂入ってきたら?」
「まだ早くない?」
「まぁ、入っておいで」
 理由を言わないからか、莉世の眉が寄る。それを無視して、契はもう一度同じことを言った。
「入っておいで」
「分かった」
 立ち上がり、莉世は部屋を出る寸前に振り向いた。そして、首を傾げる。
「契、もしかして今日庭に出た?」
「何で?」
「花の匂いがしたの。あと、土の匂いも」
「出たけど……良く分かったね」
「誰でも分かると思うよ」
 小さく呟き、莉世が部屋を出る。
 契は左袖の匂いを嗅ぐ。
「…………」
 庭に出たのは事実だ。けれど、契は花にも土にも触っていない。ただ、歩いただけだ。にも拘らず、莉世は契が庭に出たことに気付いた。
(何でだ?)
 庭に咲いている花は全て匂いが弱い。ただ歩いただけで移ることはない。
 人間である莉世が僅かに付いた匂いに気付くことはない。吸血鬼ならば気付く可能性もあるが、人間であれば気付かない。
(やっぱり限界か?)
 そう考えて、契は天井を見る。
 天井を見上げたまま、莉世の年齢を数える。次の二月五日で、莉世は十六だ。同じ様に、『彼女』も十六。
 本来ならば交わらない物が交わり、混ざることのない物が混じる。
 今年はそういう年なのだ。
(限界が来ても、当然か)
 そして、今年が限界に設定されていたとしてもおかしくはない。『彼女』と莉世の関係を考えるなら、今年は最大のチャンスが用意されている年だ。
 平行線を辿るはずの道が折れ曲がる。本来ならばありえないが、それが最大のチャンスだ。
「契、いる?」
 扉が開く。そこに顔を向けた契は奏が部屋の中に入って来るのを見て眉を寄せた。
「何だ?」
「相変わらず露骨だね。莉世じゃないからって対応変えるの止めたら?」
「別にどうでも良いだろ。それ以前にお前は莉世じゃない」
「莉世以外に冷たくするのは止めなさいって話だよ」
「大丈夫だ。莉世には普通に対応する。で、何の用だ? 俺はさっさと寝たい」
 事実を言うならば、別に眠くない。ただ、奏と会話したくないだけだ。
「別に眠くないでしょ。嫌うのは勝手だけど、取り合えず会話ぐらいは協力して」
「…………何の用だ? どうせ、莉世に聞かせたくないから莉世がいない時に来たんだろ」
「まぁ、そうだけど。そろそろ、莉世も限界でしょ? あの娘の様子を観察しなくても分かるよ、あの娘はもう一月も持たない。二月六日が限界じゃないの?」 
 二月六日、その日に起こったことを契は知っている。知りすぎていると言っても良い。だからこそ、契は眉を寄せた。
「何を言いたいんだ?」
「さっさと決断しろって言いたいんだよ。莉世を取るか『彼女』を取るか、さっさと決めてくれないと僕たちも動けない」
「霧生が動く必要はない。昔言っただろ、俺は霧生に頼らないって」
 過去に言った言葉をもう一度告げる。奏が苦笑し、すぐにそれを止める。
「頼る頼らないを別にしてさっさと決めて欲しいんだよ。予定を立てるなら早い方が良い、それぐらい君でも分かるんじゃないの?」
「すぐに決めれる内容だと思ってるのか? 俺だけじゃなくて、莉世と『彼女』の意志も関わるんだぞ」
「君の意志と莉世の意志は分かるけど、『彼女』は関係ないんじゃないの? 『彼女』の意志を確認する方法なんてないでしょうが」
 その言葉に契は「奏にはな」と呟く。
 奏は『彼女』の意志を確認出来ない、けれど契にはそれが可能だ。だからこそ、契は行動を躊躇う。
 莉世と『彼女』の意志は食い違う。それが分かっている上に、どちらを優先するべきなのか決めらないのも分かっているから、意志を確認することすら躊躇うのだ。
「俺は莉世の意志も『彼女』の意志も確認したくない。どっちか一人見捨てることになるのが分かりきってるからな」
「それは初めから分かってたと思うけど? 莉世を選べば『彼女』は選べないし、『彼女』を選べば莉世は選べない。二人同時に存在させることは不可能だ。だから、どっちを選ぶのか早く決めて欲しいんだよ」
「別に、今すぐ決めないとヤバイってこともないだろ。莉世が戻って来る前に出てけ」
 どちらかと言えば長風呂の莉世が戻ってくるまでにはまだ時間があるが、出来れば奏が来ていたことに気付かれたくない。
「まぁ、さっさと決めてくれればそれで良いから。一応、決めたら言って」
「分かったから出てけ」 
「はいはい、出て行くよ。じゃあ、よろしく」
 扉が閉まる。一度出て行って、再び顔を出すのではないかと疑いながら扉を睨んでいた契は三分ほど経っても扉が開かなかったから視線を動かした。
 机の上に伏せて置かれている写真立て、それを手に取った契は中の写真を数秒だけ眺めた。
 再び伏せられた写真立てには、庭で撮られた契と莉世の写真が飾られていた。




「そろそろ、姫は限界だ」
 唐突な男の声に部屋の中にいた全員が視線を動かした。人間であれば暗いとぼやく部屋だが、吸血鬼である彼らは灯りがなくとも困らない。
「限界とはどういうことだ? 裏が表に戻られるということか?」
「それとも、戻ることなく亡くなられるということか? どちらだ?」
 問われた男はゆっくりと微笑む。どこか蛇を連想する微笑を浮かべ、男は答える。
「裏が表に戻られ、同時に裏は消える。その限界が近づいているということですよ」
 彼らの間にざわめきが広がる。一言一言は小さく、ただ音の集まりとなって反響した。
「では、姫の限界はいつだ?」
「そこまでは。けれど、恐らくあと一月持つか持たないかではないかと」
 男はそう告げ、微笑を消した。
「それもこれも、全て契様が原因かと」
 ざわめきが大きくなる。口々に文句を呟く彼らはやがて男に問うた。
「姫は、亡くなることなくこちらに戻って来るか?」
「そこまでは流石に。ですが、亡くなることはないでしょう。そして、無抵抗でこちらに戻って来ることはないかと。姫も案外強情ですからね」
 男の脳裏に十四年前の少女の顔が浮かぶ。母親に似たのか、父親に似たのか分からないが、とにかく強情で絶対に自分の意志を曲げようとはしなかった。
「だが、姫を亡くせば全てが水の泡だ。そうなることだけは避けたい」
「分かっています。だからこそ、こちらから行動して突付きますよ。契様が行動を起こさねばならないように」
 そう言った男の顔には一度消えたはずの蛇のような微笑が再び浮かんでいた。


Copyright (C) 2010 last evening All Rights Reserved.

inserted by FC2 system