事実と過去 12


 
 チャイムが鳴る。午前が終わり、午後が始まる。その合図であるチャイムを聞いて、莉世は溜息を吐いた。
 連続した授業から開放されるという喜びは彼女にはない。授業が終わり、愚痴を言いながら友人同士で昼食を食べるクラスメイトたちの声が反響し、混ざって意味のない音として処理される。
(今日、あんまり食欲ないなぁ)
 朝起きた時からそうだった。元から少食なのだが、最近それに輪をかけて食欲がない。
 だから、お昼はいらないと葉月に告げたのだ。けれど、それを言うと彼女は泣きそうな顔をして「お弁当、作ったのに」と呟き、結局莉世は彼女から弁当を受け取っていた。
 鞄を見る。その中に入っている弁当は、普段よりも小さい物だ。食欲がない莉世のことを考慮して、葉月は普段よりも少ない量を作った。
(んー、どうしようかな、お弁当。食欲ないけど食べないと葉月さん落ち込むだろうし、かと言って残しても落ち込むし……誰かにあげるのは論外)
 急に影が差す。莉世よりも背の高い人物が隣に立つ。それによって影が差したのだと気付いた彼女は顔を上げ、首を傾げる。
「先輩、ここ、一年の教室ですよ」
「知ってる。俺も去年はこの教室だった」
 噛み合ってるのか、噛み合ってないのか、と問えば恐らく噛み合っていない会話をしながら、莉世はもう一つ問いを投げる。
「何の用ですか? あれですか? 仕事が溜まりすぎてお昼休みの間に片付けとかないと危ないんですか?」
「そういうことだ。弁当持って生徒会室まで来い」
「お茶ありましたっけ?」
「あるぞ。麦茶と抹茶と緑茶」
「一つ、違いませんか?」
「全部茶だ」
 無駄話をしながらも、莉世は鞄の中から弁当を取り出した。それを持って桜井と一緒に教室を出る。
「大体、俺はちゃんと放送したぞ。生徒会役員は生徒会室集合って。何でお前だけ来てないんだ」
「食欲ないなぁ、お弁当どうしようって考えてたら聞こえませんでした」
「それはそれで大丈夫か? と言うか、お前でも食欲ない時あるのか。年中食欲なさそうなくせして」
「普段はそれなりに食べてますよ。まぁ、少食だって言われますけど」
 階段を降りる。一年の教室は二階にあるが、生徒会室は別校舎の三階だ。しかも、一年の教室のある校舎からは一度一階に降りて渡り廊下を歩き、三階まで上がらなければならない。
「生徒会室、遠いですよね」
「まぁ、せめて二階から渡れるようにしとけ、とは思うな。一々移動するのが面倒だ」
「先輩は良いじゃないですか、歩くの速いから。あと、無駄に体力ありますよね?」
「褒めてるのか貶してるのかはっきりしろ。妙な噂流すぞ」
「どんな噂ですか?」
「結城莉世三股」
 その言葉に莉世は足を止める。桜井が語った言葉を反芻し、首を傾げる。
「事実無根ですよね? それ」
「いや、結構目撃証言あるぞ。他校のとか、フリーターとか、どう見ても成人済みとか、エリートとか」
「それ、フリーターと成人済み、同一人物ですよね? と言うか、全員家族です」
 恐らく、契と陸と奏のことだろう。外見的にその三人しか出てこない。
 いつ、どのタイミングで目撃されたのかまでは分からないが、心当たりはある。契は登下校時に見られて、陸は恐らく契の代わり、奏も契の代わりに来た時に見られたのだろう。
「まぁ、血は繋がってませんけど。同居人の家族その一と二と三をを勝手に恋人にしないでください」
「事実無根なのか?」
「ええ。そんな噂流された日には私六人に土下座しないと駄目ですから」
 その場合、一時間土下座で済む保証はない。
「その一とは案外ありそうな気もするけどな」
「ないですよ。あったら、私なんてここにいません」
 莉世自身、理解している。
 契は、本当に大事なものは離さない。閉じ込めて、絶対に逃がさない。
 だから、噂のような事実はないと断言出来る。
「まぁ、変な噂は流さないでくださいね。色々困りますし」
「もう既に充分流れてるんじゃないか? その一との恋人説」
「……今、さっさと生徒会長になる方法とかないかなぁって思いました」
「生徒会長になったからって噂は揉み消せないぞ」
「まぁ、そうでしょうね」
 唐突に背中に痛みを感じる。同時に、視界が傾く。
 落ちる、と気付いた時には既に遅かった。長い髪が広がり、その先に見える足は階段から離れている。
 莉世の手から弁当が落ちる。その音だけが妙に響いた。
「落ちるなら落ちるで予告しろ」
「それ、無茶です。でも、ありがとうございます」
「弁当大丈夫か?」
「多分、大丈夫だと思います。中は出てないみたいですし」
 桜井が莉世の腕を引く。何とか体勢を立て直した莉世は溜息を吐きながらも上を見る。
「絶対、誰かが突き落とそうとしましたよね」
「だろうな。見てないから犯人特定は無理だな」
「まぁ、良いですけど。結果的に無傷で済みましたし……先輩、腕大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。手摺掴んでたしな」
 桜井が莉世の腕を離し、同時に手摺をつかんでいたもう片方の手も離した。そのまま二人は階段を降り、転がっていた莉世の弁当を拾う。
「葉月さんが作ってくれたのに……」
「食欲ないんじゃないのか?」
「ないですけど、でも、ちょっとショックなんです。今日、食欲ないって言ったら『じゃあ量を少なくして栄養は取れるようにするわ。あと、好きな物いっぱい入れてあげるから』って」
「良いひとだな。もう普通に『お母さん』って呼んでも良いんじゃないか? そっちの方が喜びそうだ」
「それが出来たら良いんでしょうけど、無理です。私、迷惑掛けてるだけだし、実は嫌われてるんです」
 桜井が視線を動かす。無言のまま続きを促していることを感じ取り、莉世は苦笑しながら告げる。
「言っておきますけど、別に葉月さんに嫌われてる訳じゃないですよ。私が嫌われてるのは奏……変な噂の言い方を借りるならエリートです」
 苦笑しながらも、思い出すのは時折向けられる奏の視線だ。基本的には穏やかでありながら、滲み出す苛立ち。隠しても隠し切れないそれを、莉世は向けられた。
「理由は分からないんですけどね。普段は普通なんですけど、時々恐い顔で見られるんです。まぁ、そういう時にわざわざ話しかけないから何もないですけど」
「それぐらいなら良いだろ。急に嫌われてるとか言うから暴力沙汰かと思ったぞ」
「すみません。でも、それぐらいしか嫌なことはないんです」
「ならなおさら『お母さん』って呼んだらどうだ? そっちの方が良いと思うぞ」
「無理ですよ、流石に。もう『葉月さん』で慣れてますし」
「そういうものか」
「ええ」
 廊下を歩き切り、階段を上る。一定のリズムで響く音に、莉世は契のことを思い出した。
「先輩、歩くのちょっと速いです」
「そうか? じゃあ、頑張れ」
「頑張れって何ですか、頑張れって」
 桜井は歩く速さを落とさない。追いつこうと必死になっていた莉世はそれを諦め、自身のペースで歩く。
 桜井の歩く速さと、契の歩く速さはほとんど同じだ。契は莉世の速さにある程度合わせるが、桜井は絶対にそんなことをしない。結果、二人の間は少しずつ開いていく。
 そして、生徒会室に着いた。その中には既に莉世と桜井以外の三人がいる。
 弁当を食べたらそのまま雑用だと思うと、莉世の気は重かった。 


 空は、既に深い藍色だ。その道を、莉世は一人で歩く。途中までは桜井たちと一緒だったが、彼らは駅に向かわなければならない。商店街の端にある霧生家に住んでいる莉世とは途中で別れる。
 家の近くだから、一人になっても平気だ。そう思っていた莉世は小さく溜息を吐く。
 既に、霧生家は見えている。けれど、莉世は僅かに緊張していた。
「独りは、怖い……か」
 普段ならば、隣に契がいる。けれど今日は莉世は独りだ。そして、こんな時に限って彼の言葉を思い出す。
『暗くなると危ないから。何か出るかもしれないし』
「…………恨んでも許されるかな」
 小さく呟き、まるで子どもだと思って頭を振る。既に、霧生家は見えている。暫く歩けばすぐに門を潜れる。独りの時間など、すぐに終わる。
(暗いのなんて、あとちょっと。独りも、あとちょっと)
 そう思いながら歩く。広すぎる霧生家は門を潜ってから玄関までも遠い。けれどそれは、数分歩けば良いだけだ。
 歩きながら、ぼんやりと考える。
 莉世が帰宅する時、ほぼ必ず契が迎えに来る。契が無理ならば奏、奏も無理なら陸、陸ですら無理なら弥生か葉月、と順番を回し、絶対に莉世を独りで帰らせない。
 けれど今、莉世は独りだ。それが僅かに引っかかる。
(何かあったのかな)
 玄関を開ける。重い扉は耳障りな音を立てながらも莉世の帰宅を告げる。
 最初に感じたのは、暗さだ。その次は緊張感。何に緊張しているかは分からない、けれど、確かに屋敷中が緊張している。
「葉月さん?」
 声を掛けるが、返事がない。普段なら、彼女は莉世の帰宅に気付くとひょっこりと顔を出し、夕食について語る。それがないと言うのはいささか奇妙だ。
 扉を閉める。そのままダイニングに向かわず、莉世は二階に上がった。
 奇妙なことは、他にもある。
 契がいない、それが一番奇妙なのだ。莉世は、彼が迎えに来れなくても帰宅してすぐ顔を見に来ることを知っている。それに、迎えに来れないなら来れないで誰か来る。それすらなかったのはおかしいのだ。
 契の部屋の扉を開ける。そして、莉世は首を傾げた。
「契?」
 返事はない。莉世は扉を閉め、部屋の奥のベッドに近付く。
「契?」
 もう一度呼びかける。暗い部屋の中、彼女の目には契が眠っているようにしか見えない。
 部屋を出ようと思い、踵を返す。ベッドから数歩も離れない内に、莉世の身体はベッドに沈む。
「…………契、起きてたの?」
「さっき起きた。おはよう、おかえり」
「おはよう、ただいま。私、まだコート着たままなんだけど。それどころか、手袋とマフラーもしたまま」
「うん、だろうね。着替えておいで」
「じゃあ放して。このままじゃ着替えに行けない」
「それもそうか」
 契の手が離れる。起き上がった莉世は床に落ちた鞄を持って部屋を出る。
 階段を上がって、自室に戻る。鞄を机の横に置き、コートをハンガーに掛ける。制服からワンピースに着替えた莉世は部屋を出て、階段を降りる。
 契の部屋の扉を開ける寸前、彼女は小さな違和感を感じて窓を見た。けれど、窓から見える景色はいつも通りだ。いつも通りの、霧生家の庭しか見えない。
 違和感を感じたのはただの気のせいだと思い、莉世は扉を開けた。


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