花と棘 11




 奏は読んでいた本に栞を挟み、溜息を吐いた。
 契の部屋に侵入していた不審者を父である睦月に渡したあと、自室で本を読んでいたのだが目が疲れた。
 目頭を押さえ、小さく呻く。よくよく考えれば、今日はほとんど寝ていないのだ。睡眠時間を削ってまで文庫本を読む必要はない。
 視線を動かす。机の上に積まれている文庫本やノート、ファイルの奥に、一つだけ写真立てがある。
 中の写真はかなり古い。いつのものだったか、正確に覚えていないのだ。
 桜が咲いている中で、亜梨紗が笑っていた。彼女は右手で妹を引っ張り、左手で契を引っ張って、いつも通りといえばいつも通りだったその行動に奏は苦笑し、亜梨紗の父に写真を撮られた。
 懐かしい想い出だ。写真に写っている四人の内二人がここにいない現実は無視出来ないが、それを抜きにしても微笑ましい写真なのだ。
 目を閉じる。唐突に思い出したのは莉世の顔だ。
 未だに幼さの残る横顔。常に気を張り、他人のいる場所では休憩しようとしない莉世に、奏は僅かな苛立ちを覚えていた。
 僅か、と言うのは正しくないかもしれない。契辺りからすれば、僅かではなく『かなり』の可能性もあるし、苛立ちなどではなく憎しみに近いかもしれない。
 けれど、奏は『僅かな苛立ち』だと分析する。そして、苛立ちの原因を思い出す。
 莉世の横顔は、似ている。誰に似ているのかすら考えたくないが、とにかく似ているのだ。そして、そのひとと違って莉世は絶対に気を抜かない。それどころかまず笑わない。笑うことには笑うが、声を上げて笑うということが全くない。
(多分、契に似たんだろうな)
 莉世が幼い時から一番時間が余っていたのが契だ。必然的に莉世の面倒を見るようになり、そのまま彼女に少なからず影響を与えた。
(と言うか、時間が余ってたんじゃなくて余らせてたのか)
 霧生家に暮らしている七人の内二人の苗字は霧生ではない。莉世は孤児であり、契は平たく言うと家出少年だ。尤も、その辺には複雑な事情が絡み合っているのだが。  
 時計を見る。既に午後三時を過ぎているのに気付いて、奏は溜息を吐いた。
 睡眠時間が足りていない。そろそろ寝るか、と思って立ち上がると同時にノックもなしに扉が開く。
 そんなことをするのは、契ぐらいだ。扉の傍に立っている人影を予想しながら振り返り、奏は溜息を吐く。
「契、僕は今から寝るところだったんだけど」
「話が終わってからでも寝れるだろ」
「まぁ、それもそうだけど。これ以上僕の睡眠時間を削らないで欲しいんだよ」
「知るか」
 契が扉を閉める。他人の部屋だから静かに閉めようと考えない彼の閉め方は、かなり荒い。
「もうちょっと静かに閉めたら? 莉世の部屋だったらもうちょっとぐらいは静かに閉めるでしょ、君」
「莉世の部屋だからな。でも、ここは莉世の部屋じゃなくて奏の部屋だ。静かに閉める必要はない」
「そう断言するのはどうかと思うよ。で、何の用? と言うか、莉世にはどう言い訳して出てきたの?」
「コップ下げてくるって言ったんだ。だから、はっきり言うと時間がない。今日の昼、莉世に何があったかさっさと話せ」
 その言葉に奏は溜息を吐く。そして、数年前に亜梨紗が口にした言葉を呟いた。
「もうちょっと年上に敬意を払いなさい。亜梨紗がそう言ってたけど、あれ、正しかったね」
「知るか。第一、亜梨紗の言葉全部なんて一々憶えてない。で、俺がいない間に何があったんだ?」
「って言われてもね、どこから話したら良いか分かりにくいし……まぁ、そろそろ寝るかなぁって思って部屋に戻ろうとしたら何か変な気配に気付いてそれを辿って君の部屋に辿り着いて、何か莉世が危ないから不審者捕まえて父さんに渡しただけだよ」
 一々説明するのが面倒で省略した説明と言えるかどうかすら怪しい説明を契に語る。当然、省略した部分に対して契が質問を投げる。
「不審者?」
「そう、不審者。自称東宮の使いで、東宮の分家の吸血鬼。処分は父さんが下したから僕は知らない」
「…………」
 契が沈黙する。その顔はいつも通りの無表情だ。感情を読むことが不可能だと思わせる、契の無表情。
「東宮、か。もしかして暇なのか? 十何年か振りに急にちょっかいかけてくるし……」
「流石にその理由はないと思うよ。多分、莉世のことがばれたんじゃないの?」
「…………」
 再び、契が沈黙する。数秒前と同じ様な沈黙と無表情でありながら、全く違う沈黙だった。
 奏でも読めるのだ。契が怒っている、そう分かる無表情で、彼は拳を握る。
「莉世のことがばれる、な。まぁ、あれだけ普通に生活してたら知られるよな。俺は『彼女』を水底に沈めただけで、莉世には何もしてないからな。知られてもおかしくない。でも、このタイミングである必要はないだろ」
 拳が壁にぶつけられる。それが彼の本音だろう。
 平穏を壊されるのが許せない、壊すならもっと後でも良い、何故この状況で壊そうとするのか。そんな感情の全てを、契はぶつけた。
(相当頭に来てるんだろうな、多分)
 奏でも契の感情が読めるのだ。それ自体が異常事態と言っても良い。普段ならば、契の感情など全く読めない。莉世といる時だけは若干分かるような気もするがそれも微妙だ。
「何でこのタイミングなんだ……。何で莉世が限界だって時に来るんだよ……」
「その方がやりやすいからでしょ」
 東宮にとって、莉世の抵抗などほとんどない方が良いはずだ。彼らが何をするつもりなのか、奏は正確には知らないが何をするにしても莉世の抵抗がない方が良いということだけは分かる。
 だから、結城莉世が限界寸前の今、行動を開始したのだ。



 薄紅の唇がゆっくりと弧を描いた。それを見て、少女の隣に控えていた男は声を上げる。
「どうか、なさいましたか?」
「いいえ。ちょっと楽しくなってきただけよ。貴方もそう思わない? あの無表情な契ががんがん揺さぶられるよ?」
「理解、しかねます。元々、彼は常に無表情では?」
「それを崩せるから楽しみなの。誰でも、積まれている本は倒したくなるでしょう?」
 少女の言葉に男は内心で溜息を吐く。確かに、主である少女は机の上に置いてある書類の山や、本の山を見ると崩して遊んでいる。けれどそれは、僅かばかりの迷惑を伴うのだ。
「貴方今、本を崩すのは止めろって思ってるでしょ? でも、あれだって楽しいのよ?」
「残念ながら、私は鈴様とは趣味が違いますので。それより、彼女をどうなさいますか?」
「あぁ、契の執着してる娘? 確か、莉世だっけ? あの娘はあれよ、人質兼捕獲対象」
 鈴は立ち上がる。膝よりも少し長い黒のスカートが揺れ、同じ様に癖のある黒髪も揺れた。
 ヒールの音を響かせながら、彼女は歩く。窓の近くまで歩いた彼女は窓を開け、笑う。
「あの娘は契に対する人質で、『彼女』が出てきたら捕獲対象よ。分かった?」
「……基本は、どちらですか?」
「捕獲対象。捕獲対象兼人質の方が良いかしら?」
「どちらでも同じだと思いますよ」
 そう言い、男は溜息を吐いた。それに気付いた鈴は首を傾げる。
「幸せ、逃げるけど良いの?」
「迷信ですよ、それ。第一、既にそんなものは失ってます。何だってあの化け物どもに喧嘩売るんですか、貴女は」
 鈴は首を傾けるのを止め、笑う。右手を伸ばして彼女は断言した。
「あそこに彼らがいるから」
 彼女が指差したのは窓の外。もっと言えば、彼らの家がある方角だ。
「だから、蹴落としたいのよ」
 そう言って彼女は部屋を出る。部屋に残った男は溜息を吐きながら小さく呟く。
「いつものことだが、何で香水なんかつけるんだ。あれだと、俺たちにはキツイだろ。人間だったら淡い、ってレベルで済むだろうけど、ここに人間はいないんだ。もう少し考えてくれ、お嬢様」
 呟いたところで、本人がいないのだから意味はない。ただ、今まで我慢していたことを吐き出すように男は呟き、やがて鈴と同じ様に部屋を出た。


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