花と棘 10



 走るのは何年振りだ、と記憶を掘り返す。それはそうしなければならない理由があるからではなく、何か考えていないと狂いそうだからだ。
 契にとって、莉世は喪う訳には行かない存在だ。だから、この十四年間の間に伸ばされる手は莉世に届く前に振り払ってきた。
 けれど、油断していた。
 霧生家は安全ではない。それは理解していた。いくら契が気を付けていても、僅かな情報から莉世を特定することは出来る。それに、霧生家に『人間』がいるということも本来なら異常と評されることだ。
 どれだけ気を付けていても、手は伸ばされる。それを振り払うことは契以外には不可能だった。
 霧生家に厄介になっている以上、迷惑は掛けたくない。そう思って出来る限り睦月や奏を頼らないようにしていた。
 唐突に、走るのは十四年振りだと思い出す。
 十四年前のあの日以来一度も走っていない。あの日以前も、走ったことはない。あの時は『彼女』の命が掛かっていたから走った。そして今は、莉世の安否が心配で走っている。
 玄関の扉を開く。そのまま二階へと続く階段を上がり、自室の扉を開ける。
 そこに、莉世はいた。
 紅茶でも飲んでいたのか、既に空になったマグカップをテーブルに置いて首を傾げる。
「契、どうしたの?」
 口調はいつも通りだ。見た目も、服を着替えていること以外は何も変わらない。
 莉世は無事だ。それに安心して膝から力が抜けそうになるが、数歩歩いて莉世を抱きしめる。
「莉世、怪我してない?」
「してなよ。もしかして、奏から聞いたの?」
「聞いてないけど、勘。何かあったらどうしようって思ってたけど、良かった……」
「心配性」
 笑いを含んだ声が契の鼓膜を揺らす。苦笑した莉世は首に腕を回し、契に抱きついた。
「大丈夫だよ、ちょっと頭痛かったのももう治ったし。本当に大丈夫」
「そっか」
 莉世の髪を梳く。僅かに湿っている髪に、契は首を傾げる。
「シャワーでも浴びてきた?」
「うん。ちょっと押さえられて、気持ち悪かったから」
「そっか」
 莉世は全てを語らない。けれど、さっきの言葉で予想は付く。
 時々忘れそうになるが、莉世は基本的に他人に触られることを良しとしない。触られれば眉を寄せるか、はっきりと拒絶するかのどちらかだ。
 今回の場合は気持ち悪いと感じながらもそれを言えず、シャワーを浴びて忘れようとしたのだろうと思い、契は莉世の髪を撫でた。そして、唐突に気付く。
 莉世の身体が冷たい。昔から体温が低いのは契も知っている。けれど、それにしても冷たすぎる。
 この温度は、人間と言うよりもむしろ。
「莉世……、寒くない?」
「? 全然。いつも通りかな。急にどうしたの?」
「何となく。……まぁ、いいや。莉世も紅茶飲む?」
「ううん、いらない。さっき飲んだから」
 そう言って莉世はテーブルの上のマグカップを指差す。彼女が数年前から愛用しているそれは、彼女が葉月から誕生日プレゼントとして貰った物だ。 
 彼女は、常に引け目を感じている。
 身内がいない、結城莉世という少女。親戚でも何でもない霧生家に厄介になっている、邪魔者。だから、努力だけはした。邪魔者にならない為の、努力を。
 それを契は知っている。彼女が何を犠牲にしたのか痛いほど知っている。
 天才ではなく秀才、そう評したのは奏だったが、それは正確に莉世を表している。
 彼女は、努力によって身に付けた物が多い。だからこそ、天才と言うよりも秀才だと評される。
 けれど、契にとってはどちらも変わらない。重要なのはそんなことではなく、莉世が『そうしなければならない』と思い込んだことだ。
 彼女は、真実を知らない。だから、間違いに気付かないまま成長してきた。
 その責任は、契にある。
 真実を話さないと決めたのも、口止めしたのも、全て契だ。そして、彼女の間違いを正すこともなく、歪ませた。
 殴られても、文句は言えない。
 数年前から、そう思うようになった。真実を話せば、契は莉世に拒絶される。
 殴られても、拒絶されても、蔑まれても、刺されても文句は言えない。言う権利などないのだ。
「まぁ、俺は紅茶淹れてくる」
「うん、行ってらっしゃい」
 それは、莉世がこの部屋から移動しないと告げるに等しい。彼女は、無意識の内に契の部屋に留まることが多い。そしてそれを、契は責めない。
 彼女の真実を隠し続けているのだから、彼女の行動には口を出さない。そう決めたのだ。
 部屋を出て、廊下を歩く。
 歩いているうちに、莉世の身体の冷たさを思い出す。
 あの冷たさを、契は知りすぎている。あれは、莉世の体温ではなく『彼女』の体温に近い。だからこそ、理解する。
 結城莉世は、限界が近い。
 彼女自身はそれに気付かない。彼女にとって体温が低いのはいつも通りのことであり、それがどれだけ低くても異常だとは思わないのだ。
 そして、同じ様に莉世の周囲の人間も彼女の異常に気付かない。莉世の異常に気付けるのは、吸血鬼か、『彼女』を知りすぎている者。
 小さく舌打ちする。『彼女』のことを知りすぎている、そんな者は少ない。けれど、その中に契が心の底から嫌う者がいる。その顔を思い出して、契は拳を握った。
 握って、広げる。それだけの行動で、一瞬抱いた怒りは消えていく。完全に消えるのではなく、いつか燃え上がる種火を残したまま、小さくなる。
(莉世には見せれないな)
 そう考えて、苦笑する。莉世は、契が怒っているところをほとんど見たことがない。ある意味、契の怒りに慣れていないのだ。
 莉世が歪んでいるのなら、契は屈折している。それを、契自身が誰よりも理解している。
 莉世がいれば良い。彼女以外は必要ないと、契は態度で示してきた。それを知らないのは恐らく莉世だけだ。
 莉世は、契の感情に気付いていない。目隠しをされているように、全く気付いていないのだ。
 そして、契はそれでも良いと思っている。莉世が気付かなくても良いのだ。別に、今すぐ気付けと押し付けるつもりはない。だから、気付かなくても良いと思える。
 階段を降りる。一定のリズムで響くその音に反応する人影はない。
 午後二時を過ぎたばかりでは、まだまだ日が出ている。創作に現れる吸血鬼のように日光で灰になると言うことはないが、眩しいから出来れば寝ていたいと考える吸血鬼は多い。
 霧生家で暮らしている吸血鬼の中でも、契を除く五人は基本的にそう考えている。だが、その内の四人はそれぞれそう出来ない理由によって日中でも起きていることが多い。
 だから、時々あるのだ。出来れば顔を合わせたくない存在と出会うことが。
「起きてたのか」
「ええ。でも、それは私の台詞でもあるわよね? 何で起きてるの?」
 階段を降りきっていない契は廊下に佇む少女を見下ろす。
 外見だけで言えば、莉世とそう歳は変わらない。睦月よりは葉月に似たのだろうと感じる外見の少女は、葉月ならば絶対に纏わないであろう棘のある雰囲気を纏って契に問う。
「昨日までずっと莉世の顔を見たくなくて引き篭もってたくせに。あの娘を護りたいのか殺したいのかはっきりしたら?」
「何で俺が莉世を殺すんだ。それは実行しそうなのはお前だろう、弥生」
「私は殺さないわよ。そんな能力、持ってないわ」
「重要なのは能力じゃなくて意志だろう。特に、お前は」
 弥生が小さく笑う。彼女は自身の髪を掻きあげ、はっきりと告げる。
「私だけじゃないわ。『彼女』もそうだったのに、それを言わないのはどうして? 平穏に慣れすぎて、もう『彼女』のことなんて忘れたの?」
「ここで『彼女』の話をする理由がないだろ。大体、お前と『彼女』の話をするのも嫌なんだ」
「まぁ、そうでしょうね。私だって出来ることなら契と会話せずに過ごしたいわ。さっさと出て行ってくれると嬉しいもの」
 契と弥生は、相性が悪い。それは初対面の時から感じていたことであり、会う回数を重ねるごとに強くなっていった事実だ。
 出来ることなら会いたくない。そう思っていても、同じ家に住んでいる限り顔を合わせることになる。だから、お互いに運悪く顔を合わせてしまえばほぼ必ず対立する。
 そうなった時に仲裁をしていた『彼女』は今ここに居ない。『彼女』というストッパーを喪った今、契と弥生は徹底的に対立する。
「あの時『彼女』に傷を負わせた男なんて、さっさと消えれば良いのよ」  
 弥生の言葉は、真実を突いている。けれど全ての真実を表すことは出来ない言葉しか彼女は口に出来ない。
 弥生は弥生の視点でしか話が出来ない。同じ様に、契も契の視点でしか話が出来ない。そしてそれが全ての真実を表しているとは限らないのだ。
「なら、『彼女』を泣かせ続けた女も消えるべきだな」
 憶えている。いつもいつも仲裁をしていた『彼女』。喧嘩しないで、と繰り返し続けていた『彼女』は泣いていた。
 契と弥生の言い争い、それも弥生の怒気に『彼女』は恐れを抱いていた。
 能力的には弥生よりも数段上、格が違うとすら言われていた『彼女』は、他人の怒りに慣れていなかった。その当時の年齢を考えればある程度慣れていてもおかしくないのだが、『彼女』の家族は基本的に穏やかな性格だった所為か、『彼女』は契と弥生の言い争いに耐えれなかったのだ。
「良く言うわ。『彼女』を一番泣かせたのはあんたでしょ?」
「いや、お前だ。俺は『彼女』を泣かせてない。少なくとも、お前よりはな」
「何言ってるのよ。一番泣かせてたのはあんたよ、次が私って言うのは認めても良いけど」
「いや、一番泣かせてたのは霧生弥生だ。その次が陸だな」
「あぁ、確かに兄さんは良く泣かせてたわね。うっかりで」
「そのうっかりが許せなくて何回か殺しかけたけどな」
 今思い出しても腹が立つ。陸のうっかりはうっかりと言えるレベルではなかった。契の許容範囲などというものはあっさりと越え、それどころか基本的に温和で怒ることなどなかった『彼女』の母親が陸に説教を開始する程度には許されないものだったのだ。
「でも、私はあんたのそう言う所が嫌い。あんたは『彼女』の選択肢を奪って世界を狭めて閉じ込めてた」
「だからお前は『彼女』に選択肢を与えようとして失敗したな」
 お互い、既に過去として処理したことを持ち出す。徹底的に対立し、相手が立ち上がれなくなるまでぶつかる為だけに普段以上に語る。
「失敗して後悔したくせに、何で莉世と関われる? 消えるべきなのはお前だろう、弥生」
 選択肢を与えて世界を広げようとして、弥生は失敗した。それを誰よりも知っているのは契だ。『彼女』には選択肢を与える必要などなかった。契たちが何かするよりも先に、『彼女』は既に選択を終えていたのだ。
「莉世と『彼女』は関係ないでしょ? 『彼女』に対して失敗した私が莉世と関わるのまで否定するのにその理由は違うわよ」
「裏と表だろう、莉世は。俺は、表で失敗したお前が裏に関わってるのが許せないんだよ」
「それ、莉世の否定に繋がらない? あの娘は結城莉世だって言い張ってるくせに、裏とか言っちゃって良いの?」
 弥生が嗤う。契を言い負かす為の材料として、莉世を持ち出す。
「そもそも、契はあの娘をどうしたいの? 手遅れになるのを避けたいのか、それとも手遅れになってどうしようもなくなるのを望んでるのか、どっち?」
「どっちだとしてもお前に関係ないし、ここで言うことでもないだろ、それ」
「じゃあ質問を変えるわ。あの娘を人間として死なす気はある?」
 弥生の問いに契は息を呑む。けれどそれはたった一瞬で、契本人以外では莉世しか気付かない些細な行動だ。
「俺は、莉世を殺す気がない」
「つまり、莉世は人間として死ねないのね。あの娘、あと何十年も生きていける身体じゃないもの。そろそろ限界のはずだし」
 莉世は、弥生が語る言葉の正確な意味を知らないだろう。そう思いながら契は彼女に言葉を返す。
「お前も奏も何でそんなに莉世の限界に拘るんだ? 霧生にとって莉世の限界なんてどうでも良いだろ」
「まぁ、そういう意見もあるわよね。霧生にとって、莉世の限界なんて関係ないわよ。でも、同居人としては気になるのよ」
「嘘だろ、それ。同居してるからって理由で気にするのは葉月さんだけだ」
 同居しているから、と言う理由で莉世の体調を気にするのは、恐らく葉月だけだ。莉世を実の娘のように思っている葉月以外は、それぞれ純粋な心配を抱くことがない。
「あの娘、すぐに食べなくなるでしょ? あれが気になるのよ。ただでさえあんたの所為で体調を崩しやすいのに、その上食事を抜くことが多いから。自殺志願者なのかと疑うわ」
「一日二食にするぐらいで疑うなよ。と言うか、お前なんでここにいるんだ」
「部屋に戻ろうと思ってたら、契に会ったのよ。ここしかないでしょ、二階に上がる階段」
 弥生の呟きに契は「確かにそうだな」と返し、階段を降りる。そのまま歩き、弥生の隣を通り抜ける。同じ様に弥生も歩き出し、階段を上がる。
「あぁ、そうだ。言い忘れてたんだけど、莉世の好きな紅茶、切れてるわよ」
「……なんで俺が紅茶淹れに来たって分かってるんだ? と言うか、莉世の分は淹れないぞ?」
「淹れないの? まぁ、言っておいて。三日ぐらいはないわよって」
「一応言っとく」


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