花と棘 09



 契は莉世の言葉を反芻しながら歩いていた。
 あれは、莉世が知っているはずのない記憶だ。あの記憶を持っているのは、莉世ではなく『彼女』なのだから、莉世の口からあの言葉が出てくるはずがない。
 逃げろと言われていたのは、『彼女』だ。なのに、莉世がそれを口にした。
(そろそろ、限界か……?)
 あの日から何年経ったか数える。次の二月六日で、十四年。その年月の長さに、契は泣きそうになる。
 十四年、何もなかった。事件と言えるものはなく、ただひたすら平穏が全てだった。
 ある意味では、あのひとの願いが叶っていたのだ。『彼女』を平穏の中で過ごさせたいと言うあのひとの願いが。
 けれど、それはもう限界かもしれない。莉世があの言葉を口にしたこともあるが、外から平穏を壊す者がいるのだ。
 足を止める。歩いている者も、座っている者もいない人影のない公園。
 休日ならば、近所の住民の憩いの場となっているのだろう場所だ。平日の昼間となれば人影が減るのは仕方ないが、誰もいないというのは奇妙だ。
「…………人払いでもしたのか?」
「してないわ。ちょっと、ここに来たくないなぁって思わせただけよ」
 それは人払いだろう、と思いながら契は相手を見る。
 緩くウェーブした黒髪と小柄な体格。少女と断言出来る年齢でありながら、既に少女とは言えない雰囲気を放つ女。
「十年以上関わってこなかったくせに、何の用だ? 俺にとってお前は敵で、それ以外の何でもない」
「知ってるわよ。契にとっては『彼女』に害を為す者は全て敵でしょ? あぁ、亜梨紗や信も同じ考えだったわね」
「無駄話をする為にここに来たんじゃないんだ。さっさと用件を話せ、鈴」
 鈴と呼ばれた少女が笑う。それを見て、契は静かな怒りを燃やした。
 目の前にいるのは、東宮鈴。契にとっては敵としか言えない少女と会話をしているのは、人質を取られた上で彼女に呼び出されたからだ。   
「次に人質を取るなんてことがあれば、俺は東宮家を潰すぞ」
「あぁ、そんなにあの娘が大事だったの? 確か、莉世だったかしら? 『彼女』の次はあの娘なの?」
「お前には関係ない。もちろん、東宮家にもな。俺が言いたいのは、莉世を人質にするのは止めろってことだ」
 契の言葉に鈴が笑う。くすくすと笑い声を漏らしながら、彼女は口を開く。
「それ、答えになってるわ。『彼女』の次はあの娘、あの娘に手を出せば貴方は怒る。それを証明してるわよ」
「なら、莉世に手を出そうと思うなよ。十四年前と違って、俺たちにも力がある。あの時と同じ結果には終わらないんだ」
「どうかしら? 案外、あの時よりも悪い結果に終わるかもしれないわよ? 例えば」
 鈴が言葉を止め、嗤う。
「あの娘が死ぬとか」
 風が動く。激情に駆られた契は鈴の首を掴む。
「そんな結果を俺が赦すと思うのか? 莉世が死ぬよりも先に、お前が死ぬ、それが正しい結末だ」
「どうかしら? いくら貴方が決意を固めても、運命には逆らえないのよ?」
「こんなところで莉世が死ぬ運命なんて来るはずがない。そんなものは俺が防ぐ」
「意志だけで運命を変えれるなら良いわね。でも、本当にそんなことが可能なら、あの日亜梨紗が死んだのは彼の意志が弱かったからなのかしら?」
 微笑みながらの一言に契は「知るか」と呟く。
 あの男の意志で亜梨紗の生死が左右されたとは思わない。そもそも、あの日彼はあの出来事にほとんど関係していなかった。彼が気付いた時には全てが手遅れだったのだから、あの男の意志など介入する暇がなかった。
 一瞬だけ、あの日の記憶が甦る。
 血を吸って黒くなった土と、流れ続けた血。淡く微笑んだ亜梨紗の顔と、全てを託すと決めたあのひとの顔。
 その全てを奥に追いやり、契は鈴を見る。
「そもそも、何の用で呼び出したんだ。俺はお前に用なんてない」
「知ってるわよ。でも、私はあるの。おかしいと思わなかった? どうして私たちが十年以上も黙っていたのか」
 その言葉に契は沈黙を返す。契自身、おかしいとは思っていたのだ。
 あの日に事件を起こして、それ以前もずっと付き纏ってきた相手が、あの日以降黙り込み、何もしてこない。
 平穏に身を任せながらも、常に違和感を感じていた。何故、何もないのかと。
 上手く『彼女』を隠せているからかとも考えた。けれど、『彼女』の行方が分からなくなれば契が狙われる。誰もが、『彼女』の行方を知っていると思う契に何もしてこないのは、それはそれでおかしいのだ。
 だから、彼は仮説を立てる。
 十年以上も黙っていたのは、単純に『彼女』の行方が分からなかったから。
 もしくは、『彼女』に対して興味をなくしたから。
 けれどそれは、楽観的な仮説だ。あの日事件を起こしたことを踏まえて考えると、十年以上『彼女』が見つからないから諦めると言うことはありえない。
「隠せなくなるのを待つつもりだったのか?」
 その問いに鈴が嗤う。
「ねぇ、契」
 ゆっくりと、鈴の唇が動く。薄紅の塗られた唇が毒のような言葉を吐き出す。
「霧生家にいたらあの娘は安全なんて、誰が決めたの?」
 契は目を瞠り、霧生家のある方角を見る。
 あそこが安全とは限らない。それを理解し、それでも良いと考えていたはずなのに、いつの間にかあそこが安全だと思い込んでいた。
「油断しすぎなのよ、契は」
 


 僅かに空気が動く。それを感じて、莉世は目を開けた。
(匂いが、違う…………?)
 最初は、契が部屋に戻ってきたのかとも思ったが、それにしては匂いが違う。誰が来たのか分からず、莉世は眉を寄せた。
(誰……?)
 起きたばかりで頭が働かない。けれど、部屋に入ってきたのが契でないことは分かる。
 身体を起こす為に腕に力を入れる。上体を起こしきる寸前、莉世は頭はベッドに押しつけられた。
 小さく悲鳴を上げ、莉世は視線を動かす。上から押さえつけられているせいで視線を動かしにくいが、薄暗い部屋の中で相手の姿がぼんやりと見えた。
 契でも奏でもない男。霧生家で生活している者の中にはいない男だ。
「隠した隠したと言われていたが、隠した結果がこれか? だとしたらえらく単純だな」
 今まで聞いたことのない男の声。知らない人間が近くにいるという事実に、莉世の肌は粟立つ。
(触られたく、ない。やだ、このひと)
 頭を押さえつけている手を除けようとして手を上げる。だが、その動きに気付いた男はより強く押さえつけてくる。
「…………っ」
 呼吸が詰まる。自力ではどうしようもないと思い、莉世は目を瞑る。それとほぼ同時にコツンと小さな音が響く。
「何となく、変だなぁと思ってたんだよ。君が契の部屋にいるのはいつものことだけど、そこに変な吸血鬼がいるって言うのが変なんだよ。で、これ誰?」
 声だけで分かる。契ではなく、奏が部屋に来たと言うに、一瞬だけ莉世は嫌悪感を覚える。
「霧生の次期当主か。貴方までこれに執着するか?」
 今までよりも強く頭を押さえつけられる。呼吸が苦しくなり、莉世はシーツを掴む。
「…………っ」
 けれど、男は莉世がどうなっていようが気にしない。抵抗されるのが面倒だから押さえつけている、そんな雰囲気を漂わせながら男は奏に問う。
「これに価値などないだろう? 本来の価値を失った抜け殻になど、何の価値もない。これは、ただの絞りかすだ」
「さぁね。少なくとも、僕はその子がいきなり死体で見つからない限りはどうでも良いから。その子に執着してるのは契だけだよ」
「冷たいことだな、霧生の次期当主。どちらかと言うと、これに執着するあれの方がおかしいのか?」
「さぁ? ある意味、契の方が正しいかもね。あの時から何一つ変わってないんだから」
 頭上で交わされる会話の意味はほとんど分からない。莉世に分かるのは莉世本人の意思は無関係に会話が進められているということだけだ。 
「何にしても、これに価値などない。こんな物、さっさと切り捨ててしまえば良いだろう」
「莉世の人権は無視、か。まぁ、こんな分かりやすいことするのは東宮家ぐらいだし、どうせ君も東宮家の使いでしょ?」 
 押さえられたままの頭が痛む。
 頭上で交わされる会話が聞こえない。莉世に聞こえるのは、今まで聞いたことのない言葉だ。
『あのひとから逃げなさい』
『あの手から逃げて』
『ここから逃げて、あそこに行った方が良い』
 顔の見えない人影が、莉世にそう告げる。背を押して、逃げ出すように命じる。そして彼女はそれに逆らわず、逃げた。逃げた先で平穏を手に入れ、全てを忘れた。
 だから、何も知らない。平穏と忘却の中にいた彼女には知る術がない。
 それは、価値を失ったに等しい。
(価値……、私の、価値……)
 孤児である結城莉世にはない価値。『彼女』には確かにあった価値。過去と同時に失った価値。
 交わされているはずの言葉は耳に入らない。ただの雑音として処理される会話に、莉世は気付かない。
 鈍い痛みに支配された頭の中に流れた映像も、思考も、莉世の物でありながら莉世の物でない。その異常に気付かないまま、莉世は再び目を開けた。
 それと同時に、会話が耳に入る。
「今の莉世に価値があるかどうかは契本人が決めるんだ。それに、今重要なのは勝手に入り込んできた君の処分だよ」
「東宮の使いである私を霧生の一存で処分できると思うか? 次期当主殿は噂ほど聡明ではないようだな」
「いや、出来るから。格で言えばこっちの方が上だ。それに、平和的に話し合う気もないからね」
 奏の手が男の腕を掴み、その身体を引きずる。上から押さえつけていた手が除けられたことで動けるようになった莉世は上体を起こし、奏を見る。
「そのひと、どうするの?」
「父さんに渡すからどうなるか分からないけど、とりあえず莉世の目の前にはもう二度と現れないと思うよ」
「そう」
 莉世は立ち上がると部屋を出る。その背に、奏が声を掛ける。
「シャワー浴びてくるんだったら、ちゃんとここに戻っておいで。多分、契が来るだろうから」
「分かった」
 扉を閉めた莉世は階段を降りて風呂場に向かい、その途中で小さな疑問を覚える。
(契が来るって、どういうことだろ? 帰ってくるなら普通にそう言うだろうし……何で来るって言ったんだろ?)
 暫く考えるが、すぐにどうでも良いかと思い、莉世は脱衣場の扉を開けた。


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