花と棘 08


 

 もし、向けられたのが純粋な敵意であったなら。
 莉世は怒りを抱えて相手に仕返しをした。敵意を向けるのだから、同じものを返されても文句を言えないだろう、そう突きつける。
 けれど実際に彼女に向けられたのは、敵意ではなかった。
 ただの暇潰しとして、娯楽として楽しむ為の悪意を向けられた。
 だから、対応に困った。その結果、彼女は逃げ出した。
 娯楽として悪意を向けられたのなら、莉世が行動したところでそれは娯楽の域を出ない。
 興醒めに持っていくことは出来ても、余計な労力を使うだけだ。なら、始めから相手が飽きるのを待てば良い。
 娯楽として成り立たせる為に必要な、生贄の羊。その役割を始めから放棄すれば、すぐに彼女の興が醒める。
 そう理由付けて、莉世は逃げた。
 逃げ出したことを肯定しながら、莉世は彼の肩に額を押し当てる。文句を言われても仕方ない行動を取る莉世に対し、彼は文句を言わない。逆に、その行動を受け入れる。
 よくよく考えると、彼が莉世の行動に対して文句を言ったことはほとんどないのだ。文句を言ったとしても、それに彼の感情はほとんど篭っていない。言わなければならないから言う、そんな形だけの文句しか、彼は言わない。
 だから、今も文句を言わずに莉世の行動を受け入れる。
 彼は、莉世よりも僅かに体温が高い。だから、莉世にとって彼は熱い。
 それが、どれだけ奇妙なことなのか莉世は知らない。知らないから、ゆっくりと歪んでいく。
 小さく、声が響く。莉世の髪を梳きながら、契が呟いた。
「莉世、いつまで抱きついてんの?」
「あと二十五分」
「まぁ、良いけど。嫌なことでもあった?」
 問われ、莉世は首を振った。なかった、と呟いて顔を上げる。
「契、怒らないよね。私が何しても、絶対に怒らない」
「怒らないと駄目なことしないからね、莉世は。怒らないと駄目な時はちゃんと怒るよ」
 契の手が莉世の髪を梳く。すぐに髪を触るのはもう癖として定着してるんだろうな、と思いながら莉世は違うことを口にする。
「契、兄弟いる?」
 その問いに、契の手が止まる。驚いたように莉世を見て、彼は「急に何?」と問う。
「今まで、そういう話したことないからちょっと気になったの」
「残念ながら、俺は一人っ子。兄弟いなかったよ」
「そうなんだ。ちょっと意外。何か、契って弟か妹いそうだなって思ってたから」
「いなかったよ、妹みたいな子はいたけど」
 妹ではなく、妹みたいな子。その違いをさして気にすることなく、莉世は問う。
「どんな子だったの?」
「莉世みたいな子だったよ、もうちょっと気が強かったけど」
「その子、今どうしてるの?」   
 髪に差し込まれたままの契の手が止まる。一瞬だけ驚きを浮かべた彼は薄く微笑んだ。
「海の底にいるよ」
「海の、底?」
 鸚鵡返しで問う。
 海の底にいる、その意味がすぐには分からない。普通の人間なら、海の底で生きることは不可能だ。同じ様に、吸血鬼もそうだろう。
 だからこそ、分からない。
 契の言う、妹のような存在は既にこの世にいないのか、それとも『海の底』と言う言葉はただの比喩なのか。
「そ、海の底。海の底で寝てるから、いつか迎えに行かないといけないんだ、本当は」
 契の手が髪を滑る。同時に抱きしめられ、莉世は首を傾げる。
「契?」
「…………何でもない」
 契の手が離れる。淡く笑った彼は「そろそろ離れて」と莉世の背を叩く。
「さっき、あと二十五分このままでも良いって言ってたのに?」
「うん、もう駄目。ちょっと紅茶淹れてくるから」
 そう言われ、莉世は離れる。立ち上がった契は莉世の髪を撫でてから部屋を出る。
 扉が閉まる。その音を聞いて、莉世は壁に背を預けた。
 ベッドに座ったまま壁に背を預け、目を閉じる。
 ぼんやりと思い出すのは十年以上昔の記憶だ。
 何もかもがぼやけた、ほとんど形を保っていない映像。
 どこかの庭で、少年が立っている。莉世はその背を見て、彼に声を掛けることを躊躇う。
 けれど、莉世が声を掛けるより先に彼が振り向く。
 その少年の顔を、莉世は思い出せない。
 契だったのか、奏だったのか、それとも陸だったのか。
 霧生家で暮らす、三人の少年。その内の二人は既に少年とは言えない歳になったが、十年ほど前ならば、恐らく少年と言える外見だったはずだ。
 吸血鬼の成長スピードと、人間の成長スピードは違うのだから。
(誰だったっけ、私、あの時誰に声を掛けたかったんだっけ)
 ぼやけた映像と同じ様に、当時の記憶などほとんどない。だから、思い出せない。
(あのひと、誰だったんだろ)
 目を閉じたまま、ぼんやりと考える。思い出せないことを考え続けていたのは数十秒だけで、ぼやけた過去の映像とは全く違うものが莉世の目の前に広がる。
 目を閉じる前と何も変わらない、契の部屋。片付きすぎているその部屋に、新たな人影があった。
「奏、何の用?」
「一応、君に用があるんだよ。そういう態度止めたら?」
「どういう態度?」
「興味ないからさっさと終わらせてくれって態度」
 奏が苦笑する。柔らかすぎる笑顔は莉世に僅かな違和感を抱かせた。
 どこが違うのか、言葉に出来ない違和感。ただ、どこか変だと感じるだけの違和感を無視して、莉世は問う。
「何の用なの?」
「君がどこまで理解してるかの確認だよ。まぁ、契と喧嘩して二週間も会話しなかったんだし、ちょっとぐらいは理解出来たの?」 
 莉世は答えずに黙る。
 奏が何を言いたいのか、莉世は理解した。だからこそ、黙り込む。
 人間と、吸血鬼の違い。それを理解したのか問うのは、悪趣味だとしか言えない。
「まぁ、答えなくても良いよ。それが答えになるからね」
 奏の声が響く。微笑んだ彼は莉世の首に手を伸ばす。それを見て、莉世は息を呑んだ。
 契とは違う手。骨ばった手が首筋に触れる直前、莉世はその手を振り払う。
 音が響く。莉世の手が、奏の手を叩いた音。拒絶の音であると同時に、莉世にとって馴染みのない音だった。
 手が震える。手だけではない、それを意識して、莉世は深呼吸を繰り返す。
 昔から、よくあることだ。
 伸ばされる手が怖い。それも、決まって男の手。
(例外は、契……)
 混乱している自分と、冷静に分析する自分。その二つの間で、莉世は呼吸する。
 伸ばされる手が怖いのは事実、契の手ならば平気なのも事実。その二つの事実を確認しながら、莉世は奏に問うた。
「奏、契に会わなかったの……?」
「会ってないよ。会わないように歩いて来たから」
 奏が部屋に来たのは、契が出て行ってから暫くした頃だった。同じ二階に部屋を持っているのだから、契がいつ部屋を出たか気付くことは可能だろう。顔を合わせないように部屋に来ることも。
(そろそろ、戻ってくるはず……)
 時計を見る。紅茶を淹れ、部屋に戻ってくるには充分な時間が過ぎている。
 だから、そろそろ戻って来る。契が歩く速さを、莉世は憶えている。
 扉が開く。自分の部屋だからこそ、静かに開けようとは考えない契の開け方に、莉世と奏は同時に扉を見た。
 戻って来た契は、テーブルの上にマグカップを二つ置く。一見すると、いつも通りの表情、けれどそれが恐ろしい怒気を孕んでいることに気付いた莉世は息を呑む。
 彼女は、契が怒っているところを見たことがない。少なくとも、記憶に残っていないのだ。
「とりあえず」
 契が口を開く。普段よりも低く、尚且つ機嫌の悪い声に莉世の肩が跳ねる。その正面で、奏は表情を変えない。
「奏はさっさと出てけ。何となく状況は読めた」
「へぇ、珍しいね。ちなみに、どういう状況だと思う?」
「良いから出てけ。紅茶ぶっ掛けるぞ」
 契の手がマグカップを持ち上げる。冗談ではなく本気だと言うことが伝わったのか、奏は苦笑しながら部屋を出る。
 扉が閉まって、静寂が戻って来る。その静寂を、莉世は壊した。
「契、流石に紅茶掛けるのは止めた方が良いと思うんだけど……。それ、熱湯でしょ?」
「まぁ、熱湯ぶっ掛けないと止まらない奴じゃないからやらないけどな」
 マグッカップが再びテーブルに置かれる。奏を追い出しても、契の機嫌は悪いままだ。それを感じ取り、莉世は冷や汗を流す。
 正直に言うと、怖い。その感情を奥に追いやるよりも先に、契が呟いた。
「で? 何があったの?」
「……何も、なかったよ」
 暫く考えてからそう返す。よくよく考えれば、莉世は奏が何の為に部屋に来たのか理解していない。
 彼女の認識を確かめようとしていたが、それも何の目的があってすることなのか知らないのだ。
「じゃあ、俺は質問を変える。何で震えてたの?」
 その問いに莉世の肩が跳ねる。伸ばされた手と、それによって味わった恐怖、その二つが甦り、血の気が引く。
 伸びてきたのは、手だ。それがどうしようもなく怖かった。理由など分からない。昔からそうだったとしか言えない。
「手が、伸びてきたの」
 小さく呟く。契の眉が跳ね、彼の纏う雰囲気が不機嫌から訝しがるものへと変わる。それに気付きながら、莉世は続ける。
「手が来たの、だから怖くて、叩いて……」
 伸びてきた手が怖い。そう感じる理由を、莉世は憶えていない。だが、分かることはある。
「あのひとから、逃げないと駄目で……、だから、手が駄目で、逃げろって、皆が言うから、逃げないと駄目で、だから私、あそこにいちゃ駄目で、本当は、ここにいるのも駄目で、逃げないと駄目なのに」
 頭を押さえる。自分でも、何を言っているのか分からない。数秒前に口にしたはずの言葉さえ、全く思い出せない。
 視界の端に、莉世自身の髪が見える。普段よりも暗く見えるその髪に、違う映像が重なる。
 彼女よりも僅かに暗い髪、緩いウェーブの掛かった髪を、誰かの手が梳く。その光景を、彼女はずっと見ていた。ずっとずっと、身近にあった光景なのだ。
(頭、痛い……)
 頭を押さえる手に力が入る。その手を、契が掴んだ。
「莉世、さっき、何を言ったか分かってる?」
 莉世は首を振る。何を言ったのか、全く記憶に残っていない。分かるのは、思い出せないと言うことだけだ。
「頭、痛いの」
「薬飲む?」
「寝るからいい」
 呟き、莉世は立ち上がる。けれど、その寸前に契に腕を掴まれた。
「ここで寝てて良いよ。どうせ、ちょっと出掛けるし」
「良いの?」
「良いよ。でも、あんまり酷かったらちゃんと薬飲むこと」
「分かった」
 小さく頷くと、契が莉世の髪を撫でる。彼は上着を持って部屋を出て行く。
 扉が閉まる。その音を聞いて、莉世はベッドに寝転んだ。
(頭痛いの、ちょっとマシになった……?)
 目を閉じる。何となく、頭痛がマシになったような気もするがそれは、契の手が触れてからだ。
 恐らく、ただの偶然だろう。そう思いながら、莉世は眠った。




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