花と棘 07



 逃げ出す。
 それが何を意味するのか、莉世はぼんやりと考える。
 強者は逃げ出さない、それが前提ならば、逃げ出す者は全て弱者となる。
 けれどそれは、何かが違うような気がする。何が違うとは言えない、けれど違う。
 校門に背を預け、ぼんやりと考えていた莉世は同じように校門に背を預けている人物に声を掛ける。
「先輩、もうすぐ授業始まるんじゃないですか?」
「遅れて行くから良いんだよ。と言うか、さっさと帰らないのか?」
「迎えに来て、って言っちゃいましたから。それに、独りになりたくないんです。このまま暇潰しの会話に付き合って欲しいぐらいですよ、私」
 断られることを承知で言うと、あっさりと返事が返って来る。それも、了承の意が。
「まぁ、良いぞ。どうせ、お前が帰るのを確認してから戻るつもりだったからな。お前の彼氏が来るまで暇潰しに付き合ってやる」
「彼氏じゃなくて兄です」
「せめてもう少しマシな誤魔化し方はないのか? 全然似てないだろ」
 桜井に言われ、莉世は溜息を吐く。そして、「五年も否定し続けてるんですから、そろそろ憶えてください」と呟いた。
「契は恋人でも何でもなくて、兄です。ほとんど兄」
「いや、似てないだろ。と言うか、それ以前に兄がいる訳ないんじゃないか? お前の場合」
 この会話も五年ぐらいしてますよね、と呟き、莉世ははっきりと告げる。
「まぁ、厳密には兄じゃないですよ。それ以前に、血の繋がりもないです。一番正しい表現は同居人、もしくは他人以上家族未満だと思ってますし、多分、あっちも同じように考えてますよ」
 莉世と契に血の繋がりはない。同じ様に、莉世と奏にも血の繋がりはない。そして、霧生家にいる誰とも莉世は血が繋がっていない。
 莉世のことを一言で表すなら、孤児だ。
 親の顔も兄弟がいるかすら知らない莉世は気が付くと霧生家にいた。自身の苗字が霧生ではなく結城であることを疑問を覚えたこともあるが、それはそういうものだと納得していた。
 むしろ、普通だと思っていたのだ。
 苗字が違う家族と住んでいても、その家族が全員吸血鬼であっても、普通だと思っていた。
 それが違うと気付いたのは、恐らく小学校に入学する前後だ。
 その頃になれば、吸血鬼が存在している人間が少ないと言うことには気付いた。そして、それとほぼ同時期に自身の境遇が普通とは僅かに違うことに気付いた。
 最初におかしいと思ったのは、呼び方だ。
 当時の友人は、自身の母親のことを『お母さん』と呼ぶか、『ママ』と呼んでいた。
 けれど、莉世は違った。莉世は母代わりであった霧生葉月のことを『葉月さん』と呼んでいたのだ。
 その次は、苗字だ。
 当然だが、友人とその両親は同じ苗字だった。授業参観や運動会の時などに親が学校に来る。そういう時に友人の親同士が話しているのを聞き、莉世は疑問を感じていた。
 どうして、皆親と同じ苗字なのだろう、と。
 それをそのまま葉月に問い、そして莉世は自分が『当たり前』だと思っていたことがそうではなかったと知った。
 そして、莉世に『本当の親』が居ないと知った友人たちはそれをからかうようになり、それはやがて虐めへと発展した。
 尤も、莉世の場合は小学校高学年になる頃にはほとんど虐められなくなり、時々陰口として言われるようになったのだが。
「と言うか、私の場合は親の顔も憶えてませんからね。仮に兄弟がいたとしても気付かないと思いますよ」
「いるとしてもお前を探し出すのは大変そうだな。目立つような目立たないような微妙な立ち場だしな」
 そこそこ偏差値の高い高校の、学年トップクラス。天才ではなく秀才。生徒会に所属していても、その役割は書記というほとんど目立たないもの。
「まぁ、外見は目立つか。あんまり日本人って感じしないよな、お前」
「一応日本人のはずなんですけどね、私。まぁ、断言出来ないのが微妙ですけど」
 莉世は、全体的に色素が薄い。髪にしても瞳にしても肌にしても、日本人と言い切ってしまうには薄い。
 平均身長に届かず小柄で、全体的に色素が薄い。顔立ちも整っているからか、時折第一印象を聞くと『人形みたいだった』と言われる。
 そういう特徴を含めても、莉世の身内が彼女を探し出すのは困難だろう。積極的とはいいがたい性格の莉世は基本的に裏方に回る。ともすれば、そこにいた、と言う事実にすら気付かない。
「で? 何で帰ろうとしてたんだ? 俺とぶつかった時、来たばっかだっただろ?」
 その問いに莉世は沈黙を返す。が、さっさと言え、と脅され結局は答えを口にする。
「簡単ですよ、久々に堂々と見下されて、ちょっと逃げたんです。流石に教室に入る寸前に中で言われてる悪口が聞こえたら、入りにくいですから」
「珍しいな。中学の時でもほとんど言われなくなってたのに、今更それが出てくるって」
「ですよね、どれだけ暇なのか聞きたいぐらいです。それと、情報源も」
 莉世が孤児であることを大声で話し、見下していた少女は小学校、中学校ともに全く別のところに通っていた少女だ。高校に入ってからの同級生が莉世の境遇を知るチャンスはほとんどない。
 彼女の学年には、彼女と同じ小学校、中学校に通っていた者がいない。上の学年になれば同じ中学出身の生徒もいるが、彼がその情報を口にすることはない。
「念の為に聞きますけど、先輩、私のこと誰かに話しました?」
「いや、全然。と言うか、俺を疑うのか?」
「ええ。私と同じ中学出身って先輩しかいませんから。小学校が同じだった人はいませんけど」 
「まぁ、どこかから聞いたんだろうな。完全に情報を遮断するなんて無茶な話だし」
 その言葉に莉世は溜息を吐いた。そして、「あの人も、私の話をする暇があるなら自習した方が良いと思うんです」と呟く。
「そんなに成績悪いのか?」
「後ろから数えた方が早いです。留年してもおかしくなかったぐらいでしたよ、確か」
「時間の使い方を間違えてるな」
 風が吹く。一月中旬の風はまだまだ冷たい。
 何となく、視線を動かす。肌を突き刺す寒さの中、莉世は歩いてくる契を見つけた。
「じゃあ、私帰りますね。先輩、明日嫌がらせに仕事回さないでくださいよ」
「大丈夫だ。お前の分の仕事は誰も手を付けずに残るから」
 莉世は苦笑すると「じゃあ、全部置いておいてください」と告げて歩いた。
 恐らく、桜井は莉世の背が完全に見えなくなってから校舎に戻るだろう。それを知っているから、莉世は振り向かずに歩き、契に声を掛けた。
「無茶言ってごめんなさい。契、寝てたでしょ?」
「起きてたけど、何で寝てたと思ったの?」
「朝だから。本当なら寝てる時間でしょ?」
 本来、吸血鬼は夜行性だ。朝寝て、夜起きる。そんな生活を送ることが当然である生物なのだ。
 契は莉世の生活リズムに合わせ、朝起きて夜眠る。けれど、二週間以上顔を合わせていなかったことから、吸血鬼本来の生活リズムで過ごしていたと思ったのだ。
 それを告げると、契が苦笑した。
「俺の場合、朝起きて夜眠るって言うのが定着しちゃってるから、喧嘩したぐらいじゃ元に戻れないんだよ」
「そうなんだ」
「うん。と言うか、莉世よく電話掛けてこれたね。二週間も話してなかったのに」 
 からかうように言われ、莉世は眉を寄せる。
 二週間以上話していなかったのは事実だ。けれど、避けようとしたのではなく、普段通りに生活していたら二週間以上会話しなかっただけで、どちらかと言えば契が莉世を避けていたのだ。
「避けてたの、契でしょ」
「俺は避けてないよ。莉世のとこに行かずにぼーっと過ごしてたら莉世と会話しなかっただけ。まぁ、一日のほとんどは寝てたけど」
「部屋に行っても無視された」
「莉世が中に入ってこないからね。基本的にノックされただけだと起きないし、俺は避けてなかったよ」
「…………」
 溜息を吐き、莉世は首を振った。
「もうこの話止めよ、頭痛くなりそう」
「本当に頭が痛いのは帰ってからだと思うけど? 今日、葉月さんいるよ」
「大丈夫、頑張るから」
「じゃあ、頑張って」
 会話しながら歩く。元々、学校から霧生家までは十分程度だ。話している内に、霧生家の門が見えてくる。
 ふと、曲がり角から少女が出て来た。
 彼女の黒髪が歩みに合わせて揺れている。それを見て、莉世は彼女の髪に緩くウェーブが掛かっていることに気付く。
(この辺じゃ見ないひと……)
 莉世が通う高校は住宅街の端にある。学校からまっすぐ歩くと住宅街、そのまま歩き続けるとそこそこ賑わっている商店街が見えるのだが、霧生家があるのは住宅街の端だ。
 周囲にさほど住宅がないそこで、人とすれ違うことは少ない。
 前から歩いて来た少女が制服姿だったなら遅刻したのだろうと思う。けれど彼女は私服で、学生ではないと分かる。
 莉世は頭の中に地図を描く。
 住宅街を歩いて、高校に着く。その裏には山があるが、そこに立ち入る者はほとんどいない。高校に行くのでなければ、奥に向かっても何もない。ただの行き止まりだ。 
 すれ違った瞬間に、花の香りが広がる。それが香水の匂いだと気付き、莉世は眉を寄せた。
 きつすぎる訳ではない、けれど、淡いとは言えない匂いだ。
 隣を歩いていた契が驚いたように振り向く。彼の視線の先には、すれ違った少女がいる。少女は視線に気づくことなく歩き続け、角を曲がったことですぐに見えなくなった。
「契、どうかした?」
「…………香水、きつかったから文句でも言おうかと思っただけ」
「私も思ったけど、それ、わざわざ言うつもりだったの?」
「きつかったからね」
 契が微笑む。驚愕を奥に追いやり、何もなかったかのような顔をした彼は莉世の髪を梳く。
「まぁ、さっさと帰ろうか」
「うん」
 莉世の髪から、契の手が抜ける。莉世よりも体温の高いその手を見ながら、彼女はぼんやりと思考する。
 変だ。何かを誤魔化す時の契の癖、それを理解している莉世はもう一度おかしいと思う。
 誤魔化す時に、微笑んで髪を梳く。
 その癖は昔から変わらない。だから、契は『何か』を誤魔化した。
 そしてその『何か』は恐らく、すれ違った少女に関係している。
(知り合いだった? でも、それで誤魔化す必要なんて、普通はないよね……)
 旧友であったなら、普通に声を掛けられば良い。けれど、契の反応は昔馴染みに会ったと言うものではなかった。
 まるで、いるはずのない人物を見つけたような反応。
 それが何を意味していたのか、莉世は考える。けれど、結局分からなかった。
 そして彼女は、すれ違った少女のことを忘れる。これがきっかけだったと知ることもなく。


 莉世とすれ違った少女は角を曲がってすぐ、足を止めていた。
 振り向いて、自身が歩いて来た道を見る。その視線の先にいる契と莉世を見ながら、少女は小さく笑った。
「見ーつけた」
 かくれんぼをしている子供たちの中、鬼として他の友だちを探し続けた子供がようやく一人目の友だちを見つける。
 そんな声で、少女は呟く。
「もう終わりよ、かくれんぼなんて」
 


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