花と棘 06


 

 莉世と契が、二週間以上会話していない。
 その事実に気付いた奏は不機嫌そうな顔でリビングにいた契に声を掛ける。
「莉世と喧嘩でもした?」
 普段なら、奏がリビングにいる時間に契もリビングにいるということはない。
 契は行動時間を莉世に合わせている。本来夜行性である吸血鬼でありながら、朝に起き夜に眠る。
 だからこそ、吸血鬼然とした生活を送っている奏と顔を合わすことは少ないのだ。
「奏の所為で」
 基本的に、契の声には感情が乗らない。契本人や彼の近くに居すぎている莉世なら感じ取れる感情でも、奏や他の人物には感じ取れない。
 表情にしても、不機嫌だと分かる以外は何も分からない。常に無表情だとしか感じないのだ。
「機嫌悪そうな声だね。それに、莉世と喧嘩したのが僕の所為って言うのはちょっと違うと思うけど?」 
「奏があんなこと言うから莉世がどれぐらい理解してるか明らかになったんだ。それでこうなった。奏の所為だろ」
「うん、もうちょっと他人が理解出来るように喋ろうね。で、何? 莉世が思ってた以上に馬鹿だったから喧嘩したの?」
「馬鹿って言うな、馬鹿って」
 契の溜息が響く。不機嫌そうな顔をしたままの彼は読んでいた本をテーブルの上に放り投げる。
「莉世がああなったのは誰の所為だって言われたら俺の所為だ。でも、だからって莉世にこのままだとどうなるかを言う必要なんてないだろ」
「あぁ、それで喧嘩したんだ。でも、事実だと思うけど? このままだとあの娘は死ぬか吸血鬼になるかのどちらかだ。まぁ、君の性格を考えたら死ぬ前に吸血鬼になるのがオチだろうけど」
 契は、莉世を死なすことを良しとしない。彼女が死ぬのなら、その前に吸血鬼に変えてしまう。
 それが容易く予想出来るから、奏は彼に釘をさす。
「あの娘にとっては、今のままが幸せなんだよ。こっち側に引きずり込んでも、誰も喜ばない。引きずり込んで、後戻り出来なくなる前にあの娘を切り離した方があの娘の為だ」
「奏にとってはそうだろうな。奏から莉世を見れば、そうなる。でも、俺にとってはそうじゃない。莉世が幸せだって思ってないのは、誰が見ても分かるだろ」
 その言葉には敵意が含まれていた。昔から変わらない、莉世の為に行動する契の敵意。
 それを受け流し、奏は首を傾げる。
「充分幸せだと思うけど? ここにいれば敵意に晒されることはないし、危険になることもない。ついでに言うと、契もいる。あの娘にとっては充分幸せだと思うよ」
「ここにいれば、な。ここから一歩でも出れば敵意を向けられ蔑まれ、好奇心で根掘り葉掘り聞かれ、からかわれる。それも含めて幸せだと言えるか?」
 莉世の隣にいた契だからこそ、見えていた現実もあるのだろう。けれどそれは、客観的ではない現実だ。
 距離を置き、彼女に深く関わらなかった奏からすれば、莉世は今のままでも充分幸せなはずだ。
「仕方ないんじゃないの? 人間って言うのは自分と少しでも違うと徹底的に攻撃する。一部の人間からの攻撃なんて無視するしかないと思うよ」
「言葉に物理的な威力があれば今頃莉世は死んでるぞ。そんな状況に置かれたことも含めて、幸せだって言えるか?」
「言えるよ。普通に生きてれば多少攻撃されるのは仕方ない。莉世の場合、優秀だからね。天才ではないにしても秀才である以上、多少の攻撃は仕方ない。そこに境遇に対する攻撃が加わったぐらい、無視すれば良いだけだ」
 他人と関わって生きていくのなら、多少の攻撃には耐えなければならない。
 だから、総合的に見れば莉世は幸せだ。
「今のままが、あの娘にとって幸せだと思うよ」
 その言葉に、契が反論する。
「全部忘れて何も憶えてないのを幸せだって言うのか?」
「幸せだよ、辛い記憶は何も残ってない。思い出したら自殺してもおかしくない記憶は何も残ってないんだ。それを幸せだって言わないなら、何と言う?」
 彼女にほとんど関わっていない奏でも『辛い』と断言出来る記憶。それを、莉世は何も憶えていない。
 それは、幸せだろう。辛い記憶と同時に優しい記憶を忘れていても幸せだと思えるほど辛い記憶を、彼女は憶えていないのだ。
「奏は関わらなかったからそう思うんだ。莉世はそこまで弱くない。多少辛い記憶を憶えていたぐらいで自殺なんてしない。そんなことを許すはずもない」
 唐突に、携帯電話の着信音が鳴る。それが契の物であり、同時に莉世からの電話であることに気付き、奏は眉を寄せながら時計を見る。
 午前八時三十分。
 新学期が始まって一週間ほど経った今では、恐らく授業が始まるまでさほど時間がないであろう時間。
 授業を受けない、と言うことがありえないはずの莉世が、契に電話を掛けてくるにしては妙な時間だ。
「……分かった。すぐに行くから待ってて」
契が通話を切り、リビングを出ようとする。その背に、奏は声を掛けた。
「何だった?」
「帰るから迎えに来てって」
「へぇ、珍しいね。多少体調悪くても無視して授業受けそうなのに。そんなに調子悪そうだった?」
「……泣きそうになってた」
 契がそう呟くのとほぼ同時にリビングの扉が閉められる。
 残された奏は数秒間悩んでいたが、やがて考えることを止めてコーヒーを淹れる為にキッチンに向かった。



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