忘却の言葉 05




「そろそろ、限界でしょ?」
 そう問われ、莉世は足を止めた。
 けれど、彼女はリビングを出て、部屋に戻ろうとしている時に声を掛けられた所為で、マグカップとケーキを載せた盆を持ったままだ。
 出来ることならさっさと戻りたい、その感情を隠すことなく、莉世は問い返す。
「何が?」
「君たち二人が何をしてるか、全く気付いてないと思ってるの? もしそうだとしたら、莉世の頭は相当おめでたいよ」
「君たち二人って言われても誰と誰のことか分からないんだけど? 奏は何が言いたくて私を呼び止めたの?」
 首を傾げる。常に穏やかな表情を浮かべている奏の顔に、厳しさが浮かんでいるのを無視して、莉世は繰り返す。
「言いたいことがあるなら、はっきり言って。奏は、何が言いたくて私を呼び止めたの?」
「そろそろ、君の身体が限界だろうと思っただけだよ」
 奏の溜息が響く。予想していなかったことを言われ、莉世はゆっくりと瞬きをする。
「意外……。奏に体調のこと言われるなんて思わなかった」
「僕だって言いたくて言ってる訳じゃないんだけどね。本音を言えば、君が死体で見つからない限りはどうでも良いよ」
 でも、と奏は続ける。その顔に浮かんだ厳しさの中に、莉世は義務的な厳しさを見つける。
 言わなければならないと決められているから、莉世に告げる。そんな感情が一瞬だけ浮かんでいた。
「君だって馬鹿じゃない。ついでに言うと、昔ほど子供じゃない。そろそろ理解出来るはずだ。君と契は違いすぎる。そのままだと、君が『こっち側』に引きずり込まれることになるって」
 馬鹿ではない、子供でもない。だから、理解出来るはずだ。
 その言葉に、莉世は小さく笑う。
 長すぎる時を生き続ける吸血鬼からすれば、十五歳の莉世など子供でしかないはずだ。
「で? 何が言いたいの? さっさとここから出て行けって言いたいの?」
 淡く微笑みながら、問いかける。
 もし、出て行けと言われたら莉世はそれを受け入れる。ここ以外に行き場がなくても、出て行けと言われたら受け入れるしかないのだ。
「出て行けとは言わないよ。ただ、契と関係を切れって言いたいだけだ」
「そんなこと言われてもどうしようもないんだけど? 私と契なんて、他人以上家族未満の関係だし」
「そういうことじゃないよ。僕が言いたいのは、これ以上契に血を与えるなってこと」
 その言葉に、莉世は首を傾げる。
 吸血鬼は、血を欲する。それは人間の血ではなく、同胞の血でも問題はない。
「でも、契は吸血鬼の血なんていらないって言ってたけど?」
「今はね。契より、自分の心配をしなよ。毎月毎月契に血を渡してたら、その内死ぬよ」
「大丈夫。その辺は加減してるらしいから」
 奏の溜息が響く。これまでと違って厳しさを前面に押し出した表情を浮かべ、彼ははっきりと告げた。
「加減してようが何だろうが、君と契が近くにいると悪影響があるんだよ。それも、ただの人間である君に」
「……貧血で倒れるとか、そういうこと?」
「違う。そんな生易しいものじゃない。このままだと、君はいつか死ぬよ」
 一瞬だけ、息を呑む。奏の口調が冗談ではなく、真実だと告げていた。
 いつか死ぬ、その漠然とした言葉を彼は遠くない未来として告げる。
「死にたくなかったら、さっさと契から離れた方が良い。『こっち側』に引きずり込まれるのも嫌だろう?」
 その問いに、莉世は首を傾げて「さぁ?」と返す。
「奏の言う『こっち側』が、私には良く分からないから。それに、奏に言われたぐらいで私が契から離れると思う? 死にたくなかったら、最初から血を渡さないと思うけど?」
 一定周期で首に牙を立てられる。それは、本来なら恐怖であったはずだ。
 それを、莉世は受け入れた。恐怖でもなく、義務でもない感情で受け入れたのだ。
 死を恐れるのなら、最初から受け入れずに拒否する。契の行動を受け入れた時点で、莉世は既に『契から離れないこと』を選択していたのだ。
「奏の言葉じゃ、私は動かないよ。契の近くにいて、奏の言う『こっち側』に引きずり込まれるのなら自分で決めたことの結果として受け入れる」
 断言すると、奏が苦笑した。けれどそれは、彼が普段浮かべる苦笑ではなく、聞き分けのない子どもを相手にして、思わず浮かべてしまったような苦笑だった。
「何だかんだ言って、契の影響受けすぎてるよ、君。性格の悪さがそっくりだ」
「それ、褒めてないよね。奏の所為で紅茶、ちょっと冷めたんだけど」
「完全に冷え切ってないんなら良いと思うけど? というか、君も契も猫舌でしょ? ちょうど良いんじゃないの?」
「冷ますのと冷えるのは別なの。もう戻っていい? どうせ、もう終わりでしょ?」
「良いよ。でも、憶えておいて」
 奏の雰囲気が変わる。普段の穏やかなものから、冷え切ったものへと変わったそれを纏いながら、彼は一言呟く。
「このままだと、君は死ぬよ。人間としての死か、生物としての死かは別としてね」
 そう告げ、奏は踵を返した。それを見送って、莉世は部屋に戻る為に歩き出した。
 人間としての死と、生物としての死の違いを考えながら。



 そろそろ莉世を探しに行こうと思い、契は腰を上げた。元々、ベッドから扉まではそれほど距離がない。数歩歩き、扉を開く。
「あれ? 契、タイミング良すぎない?」
 そんな声を聞いて、契は「うん、莉世が遅かったから」と返す。ついでに彼女の手から盆を預かり、溜息を吐く。
「何で紅茶淹れに行くだけでこんなに時間掛かったの? 葉月さんがケーキも食べなさいって言っても、こんなに遅くならないと思うんだけど」
 テーブルの上に盆を置く。紅茶と、二種類のケーキを見ながら問うと、すぐに返事があった。
「奏に話しかけられたから」
「それでこんなに遅くなったの?」
「うん」
 ベッドに腰掛けた莉世の頭が上下する。その動きを見下ろした契は「小さい頃に良くやってたなぁ」と思いながら莉世の隣に座った。
「奏に話しかけられたって、何話したの?」
「その内死ぬよって言われた」
「…………何で?」
 普通、ただ話しているだけで『その内死ぬ』という言葉は出てこない。少なくとも、契の知っている限りは。
「何か、そろそろ限界じゃないの、とか悪影響があるとか色々言われた」
「あぁ、そういうことか」
 契に向かって『関係を切れ』と言っていたが、それを莉世にも言ったのだろう。 
「その内死ぬよって言われて、怖くなかったの?」
 問うと、「怖くないよ」と返された。即答と言っても良い速さで答えた莉世は紅茶を一口飲む。
「怖かったら、最初からあんなことしなかっただろうし、奏に言われても現実味がないから」
「じゃあ、俺が言った場合は?」
「明日死ぬのかなって思う」
 紅茶を飲み干し、空になったマグカップをテーブルの上に置いた莉世は契を見上げ、首を傾げる。
「で? 本当に私はもうすぐ死ぬの?」
「莉世を殺す予定はないよ」
 苦笑しながら告げると、莉世は微笑んだ。
「じゃあ、私は死なないね。契以外の誰かに殺されるなら別だけど」 
「莉世が殺されることはないよ」
 少なくとも、霧生家で暮らしているだけであれば殺されることはない。
 わざわざ莉世の命を奪おうと考える者がいないから、殺されることはないのだ。  
「ねぇ、人間としての死と生物としての死の違いって何?」
「それ、奏に言われた?」
「うん。ちょっと考えたんだけど、どっちも同じような気がして……」
 莉世の眉が寄る。契はそれを広げると「皺になるよ」と呟き、左手を動かした。
「まぁ、簡単なことだよ。奏はこのままだと吸血鬼になるか、俺に殺されるよって言おうとしたんだ」
 吸血鬼になると、人間であった莉世は死ぬ。
 命を奪われれば、生物としての莉世は死ぬ。
 それを、奏ははっきりと突きつけたのだ。
「でも、吸血鬼に変えるなんて無理って言ってなかった?」
 莉世が首を傾げる。確かに、数年前に『人間を吸血鬼に変えるのは無理だよ』と奏が言っていた。
 それを憶えていたから、疑問が生まれたのだろう。
「まぁ、普通は無理かな。そんなこと出来る奴って数が少ないし、あと、面倒だから」
「契は?」
「条件さえ揃えば可能だけど、その条件揃えるのが結構大変だから基本的には無理」
 人間を吸血鬼に変える際に必要な条件を思い出し、それを告げるべきか一瞬だけ悩む。
 けれど、わざわざ告げる必要もないと判断し、別のことを口にする。
「奏も、条件さえ揃えば出来るけど俺と一緒で条件揃えるのが面倒だから基本的に無理だよ」
「へぇ……。条件って何?」
「知りたいの?」
「ちょっと気になるだけ」
 条件の内、どれを告げるか考える為に契は沈黙する。いくつかある条件全てを言ってしまうと、問題がある。出来る限り告げても問題のない条件を契は口にした。
「まぁ、これは当然なんだけど、『対象が生きてること』。死にかけならともかく、完全に死んでたら無理」
 左手の指を一本折り曲げ、「これが一つ」と呟く。
「これ以外にも色々あるんだけど、条件聞くだけでも危ないから」
「危ないの?」
「安全じゃなくなるからね」
 誤魔化すように呟き、「莉世だって人間じゃなくなるのは嫌なんじゃないの?」と問う。
 歪みを抱えてしまったが故に周囲とはずれている莉世でも、自身の存在が変質してしまうのは恐ろしいのではないかと思いながら問うと、彼女は首を傾げた。
「どうだろ? その時にならないとはっきりしないかも。契とか葉月さん見てる限り、吸血鬼でも人間とあんまり変わらないような気もするし」
 その言葉に嘘はない。それを理解して、契は小さく笑う。
 彼女の歪みは、彼女自身を呑み込む。本人が理解していようがいまいが関係なく、彼女は歪み、そしてずれた。
 手を伸ばす。
 莉世の頬を撫でた契は淡く微笑みながら体重を掛け、彼女を押し倒す。
 長い髪が広がる。僅かな驚愕を浮かべた莉世を見下ろし、契は言葉を紡ぐ。
「莉世は、理解出来てない。吸血鬼になるってことが何を意味してるのか、理解出来てない」
 人間と吸血鬼は違う。
 本来ならば、決して相容れることのない存在だ。
 吸血鬼にとって人間は『餌』であり、人間にとって吸血鬼は『捕食者』であり『化け物』だ。
「吸血鬼になったら、今の莉世は死ぬよ。死んで、消えるよ。莉世であって莉世じゃない、そんな存在になるって、理解してる?」
 莉世の首を撫でる。張り直したガーゼを剥がし、牙を立てる。
 逃げれないように腕の中に閉じ込め、彼女の血液を貪る。
 息を呑む、それが契にも伝わる。
 本来なら、莉世の血を飲む必要はない。昨夜血を飲んだばかりなのだ、それほど渇いていない。
 莉世の手が僅かに跳ねる。抵抗する為に動かそうとしていたのであろう手は少しだけ上がり、すぐに落ちる。
 彼女の身体から抜き出している血液、その雫が持つ意味を、彼女は知らない。   
 伝えていないのだから、知らなくて当然だ。
 知ってしまえば戻れない、だから契は語らずに過ごして来た。
 莉世の唇が震える。声にならない声が拒絶を訴え、細い指が契の髪を引っ張る。
 聞き逃してしまいそうなほど小さな声で、拒絶が告げられる。
 それを受けて、契は身体を起こした。莉世の首筋を濡らす血液を一瞥し、契はベッドから降りる。
 口元の血を拭い、部屋から出る為に扉へ向かう。
 その背に、声が掛けられる。
「契、何で……?」
 泣き出しそうな声。小さな子供のような声に、契は罪悪感を覚える。
「そろそろ、現実を把握した方が良いから。俺と莉世じゃ、全然違う。吸血鬼と人間は、全然違うよ」
 莉世の顔を見れなかった。だから、契は振り向かずにそう告げ、部屋を出る。
 扉を閉める音が、決別の音のようだった。
 
 

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