忘却の言葉 04



 手を伸ばす。
 掴む為に、離さない為に、留める為に。
 何を掴むの、と問う。
 掴まないと駄目なの、と答える。
 自分自身に問い、自分自身で答える。
 自問自答という行動に、彼女自身は溜息を吐く。
 彼は、自問自答と言う行動をそれほど好きではない。だからこそ、自問自答を繰り返す自分を赦せない。
 弱い、そんな単語が浮かぶ。
 彼は、強くない。それよりも、彼女の方が弱い。弱すぎると自覚する。
 膝を抱えて座り込む。手を伸ばしても届かない。
 掴まないといけないのに、届かない。
 掴むことを諦めて、停滞する。
 彼女はそれを選択し、同時に忘却の果てに追いやった。



 目を開ける。淡いグリーンのカーテンを見て、莉世はぼんやりと違うと感じた。
 彼女の部屋のカーテンは淡いグリーンではない。だから、誰の部屋なのか思い出す為に記憶を辿る。
(頭、痛い……)
 寝返りを打ち、身体を丸める。手櫛で髪を整えながら起き上がり、時計を見る。
「十二時……」
 起こしてくれたら良かったのに、と誰に向かってでもなく呟く。
 視線を動かし、ようやく契の部屋だと認識する。
(殺風景……)
 部屋を見て、殺風景だと感じない者はほとんどいないだろう。それぐらい、契の部屋は殺風景だった。
 必要最低限の物だけが置かれた部屋は、冷たさを主張する。部屋の主が他人を好まない、その事実を体現しているように見え、莉世は溜息を吐く。
(冷たいひとじゃないはずなのに)
 冷たい人物ではないと言うことを、莉世は今までの経験から知っている。
 本当に冷たいひとなら、莉世に構わない。厄介者と言われても文句を言えない莉世に構わず、完全に無視する。
 契は、他人と距離を置こうとしているだけで、冷たい人物ではないのだ。
 唐突に扉が開く。莉世が視線を動かすと、どこかに行っていたらしい契が部屋の中に入ってくるところだった。
「起きた?」
「さっき。途中で起こしてくれても良かったのに、起こさなかったよね?」
「良く寝てたから。何か起こすの可哀想な顔してたし、着替え取りに行ってた」
 契は持っていた服を莉世に差し出す。セーターとスカートを受け取った莉世は契が本棚の方を向いているのを確認してから着替え始めた。
「着替え渡した俺が言うのもあれだけど、莉世って気にしないよね」
「何を?」
「俺が居ても普通に着替えだす」
「見ないでしょ?」
 靴下を履き、着替え終えた莉世は手櫛で髪を整え、「お昼、食べたの?」と問う。
「莉世も食べて来たら?」
「いらない。あんまりお腹空いてないから」
「葉月さんが泣くよ」
「晩ご飯は食べるけど、お昼はいらない。食欲ないの」
「また?」
 本棚から視線を外した契が眉を寄せる。不機嫌だと主張しながら、彼は莉世の髪を梳く。
「莉世、すぐに食べなくなるの止めたら? その内倒れるよ」
「大丈夫。倒れたことないから」
「そういう問題じゃないよ」
 髪が絡む。契の指に絡んだ自身の髪を見て、莉世は「黒だったら良かったのに」と呟く。
 黒だと言えない髪。その色が、莉世は嫌いだ。    
「髪の色? これでも良いと思うけど?」
「この色、嫌い。親の顔なんて憶えてないけど、遺伝でこの色ってことも嫌」
 髪が落ちる。手を離した契は莉世の顎を掴むと上を向かせた。
「それ、髪だけ? 本当は、目の色も嫌いなんじゃないの?」
「嫌いだよ。どっちも、嫌い」
 契の指が離れる。莉世の首筋の傷を隠していたガーゼを取った彼は小さく呟く。
「流石にまだ治ってないね」
「治ってたらもう人間じゃないよ」
「まぁ、そうだけど。ガーゼ、しとく?」
「しない」
 莉世は首を振り、そう呟いた。
 吸血鬼であれば、傷はすぐに治る。けれど、莉世は人間だ。
 たった一晩で傷が完治することはありえない。そんなことがあれば、莉世は既に人間ではなくなっている。
 契の指が傷痕をなぞる。その行動の真意を読もうとした莉世は彼がいつも以上に表情がないことに気付くと諦めた。
 完全に表情がなくなった顔をされると、何を考えているか読むのは不可能だ。
 だから、彼女は何も言わずに大人しくしていた。
「ガーぜしてないと傷見えそうなんだけど」
「絆創膏張るから良いの」
「まぁ、莉世がそれで良いなら文句言わないけど」
 空気に触れる。契の指が離れ、再び空気に晒された傷痕を莉世は手の平で押さえた。
 手の平が濡れる。そんな感覚を覚え、莉世は自分の手ではなく契の手を見た。
 数瞬前まで傷口に触れていた指。その先に、赤い物は付いていない。何かで拭うような時間はなかった。となれば、手の平が濡れているような感覚がするのはただの気のせいだ。
「莉世、もしかして首痛い?」
「痛くない。でも、血が出てるかもって焦った」
「出てなかったよ、さっきは。絆創膏いる?」
「いる」
 絆創膏が渡される。それを張ろうとした莉世は絆創膏では傷口が隠れないことに気付き、眉を寄せる。
「絆創膏、一枚無駄になった」
「傷、ガーゼじゃないと無理だった?」
 契に問われ、莉世は頷く。無駄になってしまった絆創膏をゴミ箱に捨て、彼女は溜息を吐いた。
「ガーゼ、嫌いなのに」
「それぐらい我慢して」
 傷口を隠す為に、ガーゼが張られる。それを終えた契はベッドの端に腰掛け、「お昼、食べてきたら?」と呟く。
 それに対し、莉世は「紅茶だけ貰ってくる」と返して立ち上がり、首を傾げた。
「契も紅茶いる?」
「砂糖抜きで」
「分かった」
 
 扉が閉まる音を聞いて、契は溜息を吐いた。
 ベッドに寝転がり、天井を見つめる。
 起きてすぐ、莉世の着替えを取りに行く為に部屋を出た。その時に、廊下で奏と会った。
 同じ家に住んでいるのだから、一日の内に何度も顔を合わすことがあっても不思議ではない。
 けれど、基本的に契は自室か莉世の部屋にいる所為で奏を顔を合わすことは少ない。それにも拘らず、二日連続で顔を合わせ、その上昨日と同じように嫌味を言われると腹が立つ。
(莉世を切り離せ、か。あいつ、本当に莉世がいらないんだな)
 莉世は不要だと断言した奏の顔を思い出し、契は起き上がって舌打ちする。
 昔から、奏は莉世を不要だと決め付けていた。契には必要でも、奏自身には不必要だと言っていた。
 奏にとって、莉世はいてもいなくても変わらない、それは事実だろう。彼が生きていく上で、結城莉世という少女は必要ない。
 彼は、亜梨紗が存在しているだけで良かったのだ。少なくとも、十四年前のあの日までは。
 亜梨紗の顔を思い出す。彼女が最後に言った言葉を思い出して、契は顔を歪めた。
『逃げ出したら、見捨てたら、終わり。あんたがあの子を見捨てたらそこで全部終わるの。犠牲にしたものも全部無駄になるわよ』
 そう告げて、彼女は契の背を押した。逃げ道を作って、そして自ら道を埋めた。
 あの時、契が彼女から預かった伝言はまだ告げていない。『その日』が来るまで黙っていろと言われた所為でもあるが、契自身、彼女の伝言を告げてしまって良いのか悩んでいる。
 あの言葉を告げると、逃げれなくなる。あの言葉は、亜梨紗の遺志であると同時に『彼女』を縛り付ける言葉だ。
 だから、契は告げることを迷う。それと同時に、『手遅れ』を望む。
 本来ならば避けなければならないはずの手遅れになることを、契は望んでいる。
 それをはっきりと自覚して、契は拳を握った。
 元々、決めるのは『彼女』と契だ。
 そして、『彼女』の意思を確認出来ない今、最終的な決断を下すのは契だ。
 時計を見る。莉世が部屋を出てから、大分時間が過ぎている。ただ紅茶を淹れて来るだけなら、既に戻って来ていてもおかしくない。
 眉を寄せ、扉を見る。五分経っても戻って来なかったら探しに行こうと決め、契は時計を睨んだ。


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