忘却の言葉 03
契の脳裏に、奏の言葉が甦る。
『あの娘をこっちに引きずり込む前に、関係を切った方が良い』
それはそのまま、莉世を追い出せということかと叫びかけながら、契は怒りを飲み込んだ。
奏にとっては、莉世はいてもいなくても同じだ。ただ、面倒事が起こる前にいなくなれば良いと思っているだけ。
けれど、契にとっては違う。契にとって莉世は『いなくてはならない存在』だ。
(奏にも、亜梨紗がいた)
久しく思い出さなかった名前。契にとっても、奏にとっても親戚であった少女の名前。
奏には、亜梨紗がいた。なのに、契に対して『莉世と縁を切れ』と告げる。
奏と亜梨紗、契と莉世、その関係は似ている。奏にとって亜梨紗がどんな存在だったか、それを憶えているなら、あんな言葉は出て来ない。
彼女の考え、言葉、それを忘れていないなら、あんな言葉は出て来ないはずだ。
莉世を『こっち側』に引き込む前に、関係を切る。
それは、莉世のことを思っているように聞こえるだけで、実際には彼女の意見を無視した言葉だ。
関わるなと告げるだけならば誰にでも出来る。けれど、実際に関わることを止めると決めるのは莉世だ。他人が何を言っても意味はない。
(結局、決めるのは莉世だ。俺が今から莉世を拒絶しても、意味なんてない)
関わらないように避けたとしても、莉世は避けられるようになった理由を探す。そしてすぐにその理由が奏の一言だと突き止める。
それぐらいのことを可能にする行動力を、莉世は持っている。ただ使わないだけだ。
そして、それ以前に契は莉世に対して何かを押し付けたくない。
莉世が自分で決めて契から離れるなら良い。そうでなく、契が離れろと押し付けるのは避けたいのだ。
「莉世」
「何?」
「もし、俺に関わるの止めろって言ったらどうする?」
その問いに莉世が沈黙する。考えているんだろうな、と思った契は静かに彼女の答えを待つ。
「関わるのを止めるのは、無理」
簡潔な返事が耳に入る。歩きながら、契は「何で?」と問う。
関わるのを止める。それは、簡単であると同時に困難だ。莉世が『無理』だと判断した理由が、契には分からない。
「だって私と契、同じ家に住んでるでしょ? 関わりたくないって言われても、ご飯の時とか絶対に顔を見ることになるし、どっちかがここを出るのも無理だし」
「俺が出て行ったら莉世は関われなくなるんじゃないの?」
「心配で電話とか掛けると思う。それに、契がいない日常が分からない」
はっきりと断言し、莉世は苦笑する。
「馬鹿みたいだけど、契がいないってだけでも変だし、耐えれない。だから、関わるの止めろって言われても関わっちゃうと思う」
「そっか」
でも、と莉世の声が響いた。彼女は「何でそんなこと言うの?」と首を傾げる。
「もしかして、奏に何か言われた?」
「まぁ、大体そんなとこ」
「私、奏に文句言って来ようか? 放っといてって」
その言葉に、契は苦笑する。
「言わなくて良いよ。俺が言っといたから」
「そうなの?」
「うん。だから、莉世は文句言いに行かなくて良いよ」
そう告げて、淡く微笑む。
「あと、俺がこんなこと言ったから距離置くとかは禁止。逃げた分追っかけるよ」
「大丈夫、距離なんて置けないから」
「まぁ、莉世はそうだろうね」
彼女の言葉に苦笑する。
莉世は、距離を置けない。置かないのではなく、置けないのだ。
彼女がそう言った理由を契は知っている。おそらく、奏も知っているだろう。だから、契に言ったのだ。
『関係を切れ』
莉世を引きずり込む前に。全てが手遅れになる前に、その原因を取り除けと。
(手遅れ、か……)
ぼんやりと考える。
奏が遠ざけたい手遅れを、契は望んでいるかもしれない。
選択を突きつけられた時、契は『下手をすれば手遅れになる選択』を選んだ。
莉世の隣に居続けるのも、彼女の首に牙を立てることも、全て。
奏ならば避けるであろう選択を選び、ぎりぎりの境界線を歩く。
そういう道を選び、歩き続けている。
だから、『莉世をどうするつもりだ』と問われる。
手遅れになることを避けるはずの契が、手遅れになってもおかしくない行動を取り続けるから。
(……どっちが幸せだ?)
莉世にとって、『今のまま』と『手遅れ』、そのどちらが幸せなのか契には分からない。
彼女自身は、手遅れになれば何が起きるのか知らない。そもそも、『手遅れ』と言う言葉が何を示すのかすら知らないはずだ。
だから、契は正確な判断は出来ない。契にとって『莉世はこっちの方が幸せなはずだ』という判断しか出来ないのだ。
そしてそれは、奏も同じだ。けれど、契と奏は違う。
奏は『今のまま』が莉世の幸せであり、契は『手遅れ』が莉世の幸せだと考える。
このままでも、莉世は幸せだ。けれど、契はこれが『幸せ』だとは思えない。
忘れたままでいる、それが本当に莉世の幸福だとは思えない。
忘却の末の安穏が幸福だと、信じたくない。
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