忘却の言葉 02




 ぽつりと雫が落ちた。完全に乾いていない髪から落ちた雫はシーツを濡らす。背中に回された腕の温度を感じながら、莉世はそれを見る。
 自分のものではない髪が頬に触れ、角度によっては黒にも見える髪が視界の端を占めた。
 首筋に鈍い痛みが走る。 
 痛みの原因など考える必要はない。
 何が抜き出されているかを理解していれば、考えるまでもないのだ。
 生暖かい液体が首を濡らす。滴り落ちた雫はシーツを赤く濡らした。
 赤い、円形の染み。そこに莉世は手を伸ばし、指先でなぞる。
 視界は自由にならない。だから、指先に付着したであろう血液も見えない。ただ、指先に血が付いたことは分かる。
「莉世」
 契の声が静かに響く。視線を動かした莉世は彼の顔を見て淡い微笑みを浮かべる。
「契、口べたべた。子供じゃないんだし、拭かないと」
 指を伸ばし、血を拭う。それが自身の血であるということに、莉世は何も感じない。
「俺の方はどうでも良いんだけど、莉世の首もべたべたになってる。タオル取ってくるから待ってて。寝てても良いけど」
「眠くないから寝ないよ」
 そう返すと、契が苦笑する。髪を撫でてから部屋を出る彼を見送り、莉世は首に手を当てる。
 首を濡らしている血液。それが手の平を濡らす。赤く濡れた手を目の前に上げ、莉世は小さく呟いた。
「真っ赤」
 

 自身の部屋から持ってきたタオルを濡らす為に一階へ降りた契は不意に足を止めた。
 僅かな苛立ちを覚え、壁を殴る。それがただの八つ当たりであり、意味のない行動だと彼自身も理解している。
 莉世の言葉が甦る。
『契、口べたべた』
 その一言を、莉世は微笑みながら告げた。彼女自身の血を拭う、それに対して彼女は何も感じていない。 
(誰の所為だ、莉世がああなったのは)
 自問すれば、即座に『お前が原因だ』と声が返る。彼女がああなったのは全て契が原因だ。
 吸血鬼を恐れない。それは、ある意味では命取りだ。
 けれど、それよりも遥かに危険な歪みを彼女は内包した。
「莉世……」
 小さく呟く。莉世、その名前を呼んだ回数など、契は記憶していない。誰でもそうだろう。一々数えている方がおかしい。
 莉世の名に込められている意味を、契は知っている。誰が何を思って付けた名か、痛いほどに理解している。
 首を振る。洗面所に向かう為に歩き出した彼に、背後から声が掛けられる。
「契」
 たった一言、名前だけが呼ばれる。莉世ではない、それだけが脳裏に浮かぶ。
 振り向き、相手を見る。契よりも身長が高い男を見て、彼は小さく呟く。
「奏、何の用? 俺、今から洗面所に行くんだけど」
「大した用じゃないよ。ただ、一つ確認したいことがあったから」
「何?」
 契は、奏にそう返す。出来ればさっさとタオルを濡らし、莉世の部屋に戻りたい。
 彼女を一人にしておくのが、不安だ。
 そんな内心を見透かしたのか、奏が苦笑する。
「本当に、心配性だね。ちょっと一人にしたぐらいで何かある訳じゃないでしょうが」
「……で、何の用? 無駄話がしたんだったら弥生にでも言って」
「いや、契に用があるんだって。ひとの話聞こうよ」
「忙しいからまた今度」
 奏を無視して、洗面所に向かう。あっさりと踵を返した契の後を、奏が追いかけてくる。
「契、君に対して言いたいんじゃないんだよ、僕は」
「じゃあ何? 俺に対して言いたいんじゃないのに俺に話しかけてどうするの。直接、言いたい奴に言って来れば?」
「莉世のことを莉世本人に言っても良いと思う?」
 契は足を止める。振り向き、奏を見る。穏やかな、いつも通りの彼の顔。
「莉世のことを、彼女に言ったら問題がある。だから、君に言うんだよ」
「…………」
 無言で続きを促す。 
 莉世に言えない、彼女自身の話。それを奏から持ちかけてくることはほとんどない。
 だからこそ、奇妙な緊張を覚えた。
 静か過ぎる平和。穏やか過ぎる日常。
 それを破壊する言葉を奏が口にするのではないか、そう危惧する。  
「本来なら、僕が口を出す問題じゃない。君と莉世が決めた枠の中に、僕が口を出すべきじゃないんだ。でも、これだけは言わせて貰う」
 穏やかな奏の顔に、一瞬だけ感情が乗る。穏やかなだけではない彼の性格、その一端である厳しさ。それが表情に表れる。
「君は、莉世に何をしている? あの娘を、どうするつもりだ?」

 その問いに、契は沈黙を返す。
 即座に答えを返しても良かった。けれど、あえて沈黙を返す。
「僕は君と莉世が何をしていようが気にしないよ。あの娘がある日突然死体で見つからない限り」
 奏の言葉に契は内心で「やっぱりか」と呟く。彼は、莉世に対してそれほど情が移っていない。
 境界線を引いて、それを越えない程度に関わり続けている。
「奏だって、俺が莉世を殺さないって理解してるんじゃないの?」
「知ってるよ、君は莉世を殺さない。殺せない、が正しいかもね」
「どっちが正しいかなんてどうでも良いと思うけど? 奏は、何が言いたくて俺を呼び止めたの?」
 その問いに奏ははっきりと告げる。
「あの娘をこっちに引きずり込む前に、関係を切った方が良い」



 扉が開く。その音に、莉世は視線を動かした。
 そして、「遅かったね」と呟く。
「奏に見つかって説教されたから。顔上げて」
 言われ、莉世は僅かに顔を上げる。顎を支えるように添えられた契の指は、莉世のそれよりも温かい。
 首筋にタオルが当てられる。契のことだからタオルを濡らしてくるだろうとは思っていたが、それが水ではなく湯で濡らされていたことに莉世は僅かな驚きを覚える。
「タオル、お湯で濡らしたんだ」
「俺だったら水だけど、莉世に冷たいのは流石に酷いかなって思ったから。水の方が良かった?」
「どっちでも良いけど、温かい方が嬉しい」
「それ、水は嫌ってことじゃん」
「うん」
 首を拭いていたタオルが離れる。同時に契の指も離れ、莉世は上げていた顔を下げる。
 契の手が彼女の右手を掴む。白い指と手の平を赤く染めた血液を、温かいタオルで拭う。
「タオル、汚れちゃったね」
「それで言うなら、シーツの方が汚れてるよ。莉世、首触ったあと普通に手置いた? 凄い汚れてるんだけど」
「んー、置いたかも。あんまり気にしてなかったから分かんないけど」
 爪の間に入り込んだ赤を、タオルが吸い取る。その光景を見ながら、莉世は呟く。
「真っ赤」
「うん、莉世が触ったからね。自分で自分の血なんて触って、気持ち悪くなかったの?」
 契が顔を上げる。終わったよ、と呟いた彼は莉世の右手を離す。
「気持ち悪くはなかったけど、真っ赤だなぁって思った」
「……まぁ、赤くないと怖いだろうけどさ。シーツの替え、取ってこようか?」
「ううん。明日替えるから良い」
「今日は?」
 契が問う。片手に濡れたタオルを持った彼は部屋を出ようとしていたが、それを止めて扉に背を預ける。
「契の部屋に泊めてもらおうかなって思ってる。時計、止まっちゃったから」
 机の上に置いている目覚まし時計を指差す。その文字盤は正しい時刻を示すことなく沈黙している。
「駄目?」
 首を傾げると、莉世の長い髪が揺れた。腰まで伸びた髪はベッドの上を泳ぐ。
「まぁ、良いけど。怒られても知らないよ」
「その時は、契も巻き添えでしょ?」
 莉世は微笑みながら告げた。その言葉に契は「俺は怒られないから」と返し、莉世の手を掴む。
「歩ける?」
「歩ける。でも、あんまり見えないから引っ張っていってもらえるとありがたいかも」
 廊下は暗い。灯りを点けても良いのだが、契はそれを面倒だと感じているはずだ。だから、莉世もわざわざ灯りを点けてとは頼まない。 
「階段降りる時に引っ張ったら危ないと思うんだけど?」
「その辺りは契が考えて。でも、私はあんまり暗い所は見えないから」
「昔だったらさっさと抱き上げて連れて行けたんだけどなぁ……。今は流石に無理だし、ゆっくり歩く?」
「うん」



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