プロローグ 01
この世界には、『人間』ではないモノたちが存在している。
彼らはその正体を明かすことなくひっそりと暮らし、人々の生活に溶け込んでいる。
それ故に、ほとんどの人間は『彼ら』が存在することを知らない。
彼らの存在を知っている者は限られ、『人間』は彼らのような存在がいると知ることなく日々を過ごす。
「あー、暇だ」
「手を動かして書き続けていれば暇じゃないですよ」
「あれだ、人間外の存在がいないから暇なんだ」
「いたら怖くないですか? 人間じゃないんですよ?」
「面白いだろ。人間外」
「先輩の考えが理解出来ません」
『人間』ではない存在。
『人間』と似て非なる、全く違う存在。
その存在を、吸血鬼と呼ぶ。
「私は怖いと思うんですけど、人間じゃない存在」
「面白そうだなぁと思うが? 意見交換とかしたい」
「先輩、疲れてます?」
「実は左腕が痛い」
「今日、ほとんどいませんしね。二人で六人分の仕事分けてたから痛くなっても仕方ないですけど……。あ、六時半」
「そろそろ帰るか」
「そうですね。じゃあ、先に帰らせてもらいますね」
「おー。寄り道するなよ」
「しません。まっすぐ帰ります」
吸血鬼は、人の血を欲する。
だから彼らは恐れられた。
大昔、人間に恐れられた吸血鬼の多くは殺された。
数少ない生き残りは人間に関わることを避け、ひっそりと暮らす。
人の血を欲しながらも、それ以外の血で満足し、人間に関わることを止めた。
(だから、知られてない。創作にのみ存在を残して、忘れ去られる)
吸血鬼が実在したと言う事実は忘れられ、創作の中にのみ生き残る。
人間にとっては、それが当たり前なのだ。
『吸血鬼など存在しない』、それが常識だ。
「莉世」
声を掛けられる。
視線を落として歩いていた彼女は顔を上げ、声を掛けてきた相手を見る。
「今日は早く帰るって言ってたけど、充分遅いよ。真っ暗だし」
「雑用多くて、ちょっと遅くなったの」
彼女はそう返すと「でも、契が迎えに来てくれるとは思わなかった」と付け足し、彼の隣を歩く。
「暗くなると危ないから」
「そう? 学校から家まで十分ぐらいだからそんなに危なくないと思うんだけど」
「それでも、暗くなると危ないから。何か出るかもしれないし」
「人間外の存在が?」
「出て来るかもね。特に、吸血鬼」
人間に関わることを止めた吸血鬼の存在を知っている者など、ほとんどいない。
けれど、彼女は知っている。
吸血鬼という存在を。
「寒いね」
「手、繋ぐ? 俺のほうが莉世より体温高いよ?」
「……契、恥ずかしくないの?」
「全然。どうする?」
「じゃあ、右手借りる」
「うん」
吸血鬼は、人の血を欲する、人と同じ姿をした全く違う生き物。
彼らは、人間とは違う。
比べるまでもなく、一目見れば『違う』と感じるのだ。
その違いを言葉に出来るか否かは人によって違う。けれど、十人中十人が『違う』と感じる。
それだけは絶対だ。
「契の手って温かいよね」
「莉世の手が冷たいだけどと思うけど? 俺より冷たいってヤバイよ」
「三十五度ぐらいだから大丈夫」
「いや、駄目だって。俺より冷たいってのがどれだけヤバイか分かってる?」
「一応は」
「その返事だと、全然分かってない」
人を避け、姿を消した吸血鬼。
彼らは全員が姿を隠した訳ではなく、一部の吸血鬼は人に溶け込んで生活している。
気付かれないよう、細心の注意を払って。
「分かってるよ? でも、これぐらいなら普通だと思うの」
「厚着しても良いよ?」
「普通に寒くないって感じるのでもあんまり体温変わらないよ。それに、今冬だから。ちょっと冷えるのは仕方ないと思う」
「屁理屈?」
「真実」
社会に溶け込んだ吸血鬼たちは、気付かれないように注意を払い続ける。
彼らにも良心はある。
穏やかな生活を壊したいとは思わないからこそ、姿を隠すことを決めたのだ。
「まぁ、どっちでも良いけど。莉世、明日休みだよね?」
「うん。急にどうしたの?」
「明日倒れられたら嫌だから」
けれど、そう思ったのは本当にごく一部の吸血鬼だけだ。
中には、かつて同胞を殺した人間を恨んでいる者もいる。
恨んでいても、直接的な行動に出ないのは彼らなりの掟があるのか、過激な行動を起こそうとする者を誰かが止めているからだろう。
「倒れたら嫌って、何で?」
「俺の所為で倒れられると罪悪感感じるから」
呟いた契は立ち止まると空いていた左手で莉世の頬を撫でる。
「まぁ、倒れるほどなんてありえないんだけど」
「……契、まだ二十四日しか経ってない」
「六日早めて。そろそろ限界だから」
頬を撫でた指が下がる。肩に乗っていた髪を払い、露わになった首筋を撫でながら、契は呟く。
「ほら、もうすぐ年末だし。大晦日とかのんびりしたいんじゃないの?」
「大晦日は葉月さんの手伝いするから、あんまりのんびりじゃないけど……。でも、早くない?」
莉世の問いに契は苦笑する。
「俺たちだって生きてるから。完全にコントロールするのは無理だよ」
「……夕食食べてお風呂入ってからね」
「それで良いよ」
吸血鬼は、人に関わることを止めた。
社会に溶け込んだ吸血鬼たちも、『人間』の血を求めながらもそれ以外の物で満足しようと努力する。
同胞の血を得て、空腹を満たす。
そういう吸血鬼も存在していると、莉世は知っていた。
けれど、彼女が良く知っているのは同胞の血で満足する吸血鬼ではない。
彼女が知っているのは、『人間』の血で満足する吸血鬼だ。
それも、彼女自身の血で満足する吸血鬼。
いつか命を奪われてもおかしくない存在を、彼女は誰よりも理解している。
「でも、私の血なんて美味しくないでしょ?」
「さぁ? 俺と莉世じゃ味覚が違うかもしれないし」
「そもそも、何で血が必要なの? 鉄分じゃ駄目?」
「駄目なんじゃない? 鉄分と血液は別だから」
「成分的な問題でもあるの?」
「まぁ、あるんじゃない? 俺たちだって深く気にしないから分かんないけど。普通に食事するのと同じだよ」
「契、普通にご飯食べてない?」
「それはそれ。これはこれ」
かつて吸血鬼が殺されたのは『人間の血液を必要とする』からだ。
一定以上の血液を奪われた人間は命を落とす。
吸血鬼に殺された人間が少なくなかったから、吸血鬼は恐れられ、恨まれ、殺された。
創作にあるような、『人間を吸血鬼に変える吸血鬼』は少ない。
そして、そんな能力を持っている吸血鬼はほとんど人間を襲わない。
だから、吸血鬼に殺された人間が出、その結果として吸血鬼が殺されたのだ。
「まぁ、さっさと帰ろっか。立ち止まってたら危ないし」
そう言われ、莉世は「立ち止まったの契の所為だよ」と呟く。
「契が止まったから私も止まったんだよ?」
「……歩きながら首触ったらガリってなるような気、しない?」
「しない」
きっぱりと告げると、契は「俺だけ?」と首を傾げる。そのまま十秒ほど悩んでいた彼はすぐに考えるのを止めて歩き出す。
「莉世の手、ちょっと冷たすぎる気がするんだけど」
「契の手が温かいだけだと思う。それに、今はちょっと温かいよ」
「俺の手が冷える代わり?」
その言葉に莉世は小さく頷き、「嫌なら離す?」と訊ねる。
「そうしたらまた冷えるし、このままで良いんじゃない?」
「でも、そろそろ離さない? もう、家に着くよ」
莉世の言葉に契は「着くけど、このまま」と呟き、痛いと感じない程度に手を強く握る。
その行動が逃げ出さないように留めるかのように思え、莉世は声を掛ける。
「契、私、逃げないよ?」
「知ってるよ。莉世がわざわざ逃げ出したりしないって」
彼は莉世を見て微笑むと一言付け足す。
「逃げれるなら、とっくに逃げてるだろうし」
言われ、莉世は繋いでいた手を離した。
そして、契の頬に手を伸ばして小さく囁く。
「逃げようなんて、思ったことないよ」
『人間』が忘却の果てに追いやった記録には、吸血鬼に殺された人々の数が記録されている。
誰も知らないところでは、もっと多くの人々が命を奪われたかもしれない。
人間の血液を欲する吸血鬼は、ある意味では捕食者だ。
だから、人間は彼らの多くを殺した。
殺される前に、殺した。
「わざわざ逃げる理由もないでしょ?」
莉世にとっては、『いずれ命を奪われるかもしれない』と言うことは逃げる理由にならない。
可能性を恐怖するのではなく、『契はそうしない』ということを信じる。
楽観的な希望ではなく、今日に至るまでの彼の行動から裏付けされた確かな信頼。
「私を殺す必要もないし、殺さないでしょ?」
そう言って微笑んだ彼女を見て、契は莉世の髪を梳くと「でも」と呟く。
「何かの間違いで殺されるって思わないの?」
「思わないよ。そんな間違いが起きるなら、私はとっくに死んでるだろうし。何年契と一緒にいると思ってるの?」
人間とは時間の感覚が違う吸血鬼からすれば短い時間かもしれないが、人間である莉世からすれば長すぎる時間が過ぎている。
「……莉世って直球だよね」
「契に比べたらマシだと思うけど? 契はちょっと間違えたら無神経だし」
「うん、自覚ある」
「あったんだ……」
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