GAME 26




 赤く濡れた手と動かない男。それが現実ではないと理解していながらも、雛は頭を抱えて座り込んでいた。
 現実ではない光景。いつか現実になるかもしれないそれを、必死に拒絶する。
『お前が殺した』
『その手で殺した』
『能力で殺した』
『暴走し、殺した』 
 首を振る。どこかから響く声を否定し、声にならない声で違うと叫ぶ。
 殺していない、殺せない。能力差がありすぎるが故に殺せず、彼が殺されることなどありえない。
 けれど、それは普段ならばだ。暴走し、自我を忘れればどうなるか分からない。
 殺されるはずのない彼が、殺されるかもしれない。勝てるはずの彼が、負けるかもしれない。
「雛、しっかりして。現実じゃないから大丈夫」
 翡翠の手が背中に触れた。床に湛えられた水が座り込んだ雛のスカートを濡らし、冷たさが全身を支配しようとする。
 現実ではない。それは理解している。けれど、いつか現実になるかもしれない光景がもたらす恐怖は彼女から能力の制御を奪う。 
 主である雛の能力が乱れたことで、彼女に従う精霊たちの動きも鈍る。その事実を身をもって感じている翡翠は雛を落ち着かせる為に声を掛ける。
「雛、現実じゃないんだ。偽物を見せられてるだけで、本物じゃない。翔は死んでないし、雛も殺してない」
 そんなことは理解しているだろうと思いながらも、翡翠はそう告げた。現実ではない、雛が最も恐れる光景を見せた男は立ち去らずに佇んでいる。
 防御に長けている翡翠の攻撃など意味がない。そう思っての行動だと読み、翡翠は舌打ちする。
 攻撃の能力を有しているといっても、攻撃に長けている精霊と比べると彼は強くない。雛の能力の制御が揺らぎ、本来の能力を発揮し辛いこの状況で攻撃しても、ほとんど意味はない。無駄なことに時間を掛けるぐらいなら、雛を立ち直らせた方がいい。
 翔と充がいるから、戦力的にはさほど問題ない。けれど、彼らの補助に徹している雛の精霊たちは主の乱れに引き摺られ、全力を発揮出来ない。
 長引けば長引くほど、不利になる可能性がある。彼らは犯人の女の能力を完全に理解出来ていない上に、その限界も知らないのだ。
 油断など出来ない。油断すれば、思わぬ攻撃を受けて不利になる。現に、雛は恐怖に支配されて動けなくなっている。
(最悪だ、雛はこういうのに弱い……)
 雛は精神的な攻撃に弱い。常に暴走を恐れている彼女は、精神的な攻撃を得意とする敵とは相性が悪い。
 暴走するのが怖い。その結果として引き起こされるであろう殺し合いが怖い。自身が死ぬかもしれないことよりも、自我を失った自身が翔を殺すかもしれないことが怖い。
 恐れている現実を見せる能力に雛は勝てない。彼女は恐怖を拭えない。異能者である限り、恐怖を抱えたまま生きていくしかないのだ。
 そうでなくなるには、彼女が能力を完全に制御出来るようになるしかない。けれどそれは、一日二日で可能なことではない。
 恐怖を完全に拭い去るには、数年がいる。そのことを理解しているからこそ、翡翠は頭を抱えたくなる。
 一時的に彼女を落ち着かせても、同じ能力を使われれば意味はないのではないか。そんな疑念があるのだ。
「雛、現実じゃないから大丈夫。とりあえず落ち着いて深呼吸して」
 長い黒髪が揺れる。首を振った雛の背を撫で、翡翠は「大丈夫だから」と繰り返す。
 犯人である女に向かっていた紅葉の膝が折れる。右手を上げていた楓の顔が強ばり、集められていた能力が霧散する。他の精霊も行おうとしていた動作を中断させられ、愕然とする。
 そして、それは翡翠も同じだった。強い眩暈に襲われ、倒れ掛けた彼は何とか自分の身体を支えた。
 落ち着けと叫びかける。その寸前で声を呑んだのは声を荒げるよりも先に、走ってきた翔が雛の肩を掴んだからだ。
「現実じゃないのは理解出来るだろ、しっかりしろ!」
 雛が顔を上げる。だって、と呟いた彼女は頬を濡らしている涙を拭わないまま首を振る。
「分かって、るけど……」
 どこから声が響く。お前が殺したと繰り返す声は低く、何度も繰り返される言葉は雛の心を恐怖に染める。
「分かってるなら動け。お前も戦力だって言っただろ」   
 俯いて首を振る。分かっているが、能力の制御が出来ない。こんな状態で能力を使えば、必ず暴走する。
 殺し合いはしたくない。だから、動けない。
「雛、お前、帰ってくる気なんだろ?」
 その問いに雛の肩が跳ねる。それは問いではなく、確認だ。
 そろそろと顔を上げた雛に対し、翔ははっきりと告げる。
「異能者であり続けるつもりならこんなところで立ち止まるな。立ち直れないなら、帰って来るな。そんな奴は誰も必要としてない」
 雛の頬を涙が伝う。それを見て言いすぎだと言おうとした翡翠は文句を飲み込む。
 本来ならば、翔はこんなことを言わない。雛が幼い時からどういう眼で見られていたかを知っているからこそ、『能力のない奴はいらない』と告げない。
 強すぎる能力を持った雛はその能力を忌まれ、疎まれた。そして、『強者であるから存在を許されている』と暗黙の内に告げられていた。
 誰も、翔に勝てない。もし彼が暴走すれば手も足も出ない。唯一勝てるかもしれない存在だから、制御が不完全という爆弾を抱えたままの雛も異能者であり続けることを許された。
 全員がそう思っていたわけではないが、一部の者はそう考えていた。翔に勝てる可能性を持つから異能者であり続けている、そういう眼で彼女を見ていたのだ。
「脆弱な精神で能力を使おうとするな。それすら守れないなら帰って来るな」
 はっきりと告げた翔は立ち上がる。雛に背を向け、再び犯人の元へ歩く。
「成瀬雛はこんなところで駄目になるような異能者じゃないはずだ。少なくとも、俺が知っているのはそういう異能者だ。そうじゃないなら、帰って来なくていい。異能者であることを止めて、さっさと去れ」
 振り向かずに去っていく翔の背を見て、雛は声を上げずに泣く。
 ずっと昔、幼い時に追い付きたいと望んだ。常に強くあろうとする彼に憧れ、追い付きたいと望んだ。けれど、実際はあの時から一歩も近付いていない。
 翔が遠退いたのではなく、雛が近付いていない。間に存在する距離を詰めることも出来ずに立ち止まったままなのだ。
 翡翠の手が頭に触れる。泣き出した雛を落ち着かせる為に手を伸ばした彼は彼女を抱きしめ、気付かれないよう小さく溜息を吐く。
 翔の言葉は、嘘ではない。今回、雛は戦力だ。役に立たない戦力なら要らない、そう思ってもおかしくないし、翔の性格なら本気でそう思っているはずだ。
 けれど、弱い異能者である雛は要らないというのは彼の本心ではない。強かろうが弱かろうが雛は雛だという考えだと誰もが知っている。
 ただ、ここで立ち止まり、何も出来ないのなら異能者であることを止めろと強制しているだけだ。
 異能者であることを止め、別の道に進めばいい。雛自身がどの道を選ぶか今決めろと言っているだけで、彼はいつかしなければならない選択を目の前に突きつけただけだ。
「雛、さっさと決めないと翔は本気で雛を追い出すよ」
 囁くように告げると、雛の肩が跳ねた。驚きと恐怖を浮かべた顔で雛は翡翠を見る。
「異能者であり続けるのも、止めるのも雛の自由だよ。でも、止めたらもう二度と追いつけない。それぐらい、分かる?」
「分かって、る……」
「どっちを選んでも、俺は従うよ。止めないし、考え直せとも言わない。今日が最後になっても文句言わないよ」
 翡翠は防御に長けていながら攻撃の能力も持っている。能力的に見れば優秀でありながらも性格に難があると言われる彼を従えようとする者は少ない。
 元々、防御に関しては二十五体中二位の能力を持っているのだ。強大な能力を持っている精霊は従える為の労力も他の精霊に比べると大きい。
 雛が彼の主であることを止めれば、次に誰かの精霊として呼び出されることはないかもしれない。その予感を彼は昔から感じていた。
 だから、『最後になっても文句を言わない』のだ。次に彼を従える者が現れるか分からない以上、主の最後の命令を無視するわけにはいかない。
「まぁ、そんなんだから俺たちのことは気にせず選んで。どっちを選んでも、誰も怒らないから」
 二十五体全てが使役される時代はこれで最後かもしれない。その予感は昔からあった。精霊たちはいつか全員が使役されなくなる時代が来ることを覚悟しながら主の命令に従う。
 一番最初の主の最初の命令が『俺の血が受け継がれ、尚且つお前らを従えられる者がいる限り、仕え続けろ』という言葉だったのだから。

 炎で作られた龍は女を狙い、吼えた。
 けれどそれは女の傍にいた男が掻き消す。そして、女は微笑んだ。
「残念ね、家系に繋がらない異能者さん」
「普通、消すか?」 
「まぁ、普通を基準にするのが間違っているんじゃないですか?」
 名草の言葉に「そういうものか?」と聞き返した優は女に向かって歩いていく翔を気付いた。
 雛のところに行ったはずだが、再び犯人の所に向かうということは、一応何らかの決着がついたのだろうか。
 そう思い、背後を見た優は座り込んだままの雛が今まで見たことがないほど真剣な顔をしていることに気付いて首を傾げる。
「何がどうなったんだ?」
「さぁ? さすがに聞こえなかったから分かりませんね。気になるなら、あとで主に聞いてもいいですよ?」
「いや、いい。聞いたら聞いたで混乱しそうだ」
 もう一度正面を向く。犯人の近くにいた充に翔が声を掛け、言葉を交わしているのを見ながら優は眉を寄せた。
 足首まである水。それが、少しずつ減っている。一気に減るのではなく、少しずつ減っていくそれは何かを連想させる。
「……犯人の能力」
「どうしました?」
 名草が首を傾げる。彼女に「水、減ってるよな?」と問い、優は続ける。
「犯人が能力を使うたび減ってるような気がしたんだが……まぁ、意味ないよな」
「目安にもなりませんしね。ほとんど意味ないですよ」
「だよな」
 自身の内の能力に出現を命じ、再び龍を作る。最初の物に比べて小さくなった龍は大きさこそ小さいものの、密度は高い。
 掻き消されることなく、女に届くのではないかという淡い期待を抱きながら、優はその龍を女の元に向かわせた。

 雛の近くに行っていた翔が戻って来たことに気付き、充は「言いすぎだろ、お前」と呟いた。
「聞こえてたのか?」
「近くに式がいたから聞こえた。あれだけ言われて立ち直れる奴じゃないだろ、雛は」
「あれだけ言われて立ち直れる奴じゃないと、帰って来れないんだよ。まぁ、雛はあれだけ言われても立ち直れる。異能者であることを止めれないからな」
 二十五の精霊の内、十体の動きが鈍い。その十体が雛の精霊だと分かっている翔は名草と翡翠を除いた八体を主である雛から引き離し、一時的に自身の精霊とする。
 八体は主から引き離されたことに驚愕を覚えながらも、自分たちの成すべき行動を実行に移し始める。それを見て、翔は頷いた。
「さっさと終わらすか。面倒なことばっかり待ってるしな」
「だな。お、また龍だ。雛の知り合い頑張るな」
 充がそう呟くと同時に炎で作られた龍が女を襲う。傍にいた男が一撃で掻き消せず、龍に吹き飛ばされていく様を見た女は頬を引き攣らせる。 
「こっちに生まれたわけじゃない雛の知り合いが頑張ってるんだし、本気出さないとまずいんじゃないか?」
「まずいも何も、最初から本気出す気だぞ、俺は。色々あって出せてないだけで」
 そう告げ、翔は犯人である女との距離を詰める為に歩く。そして、女の目の前に来た彼は女の鳩尾を殴った。その拳を通じて、無形の力を送り込む。
 女が内包する能力を別の能力で掻き乱し、能力を使えなくする。効果は一時的なものだが、暫くの間大人しくさせるぐらいは可能だ。
「……っ」
 女が息を詰める。それを気にすることなく拳を離した翔の腕を急に現れた男が掴む。
「動くな。折るぞ」
 首を動かし、背後の存在の顔を見る。一目見て人外ではないと理解し、翔は溜息を吐いた。
「ほとんどの奴にはあれぐらいで効くから大丈夫だろうって思ったんだがな。油断した」
 そう呟き、眉を寄せる。ほんの一瞬鋭くなった雰囲気に腕を掴んでいる男は狼狽したが、すぐにそれを押し隠す。
「他の奴らも動くなよ。こいつの腕が大事なら」
 充や精霊の動きが鈍くなる。同じように優も集めていた能力を霧散させ、動きを止める。
 男が満足したように頷き、女に声を掛けようとする。けれどそれは、途中で失敗した。
 誰も動かない、そう思っていた男は一人見落としていたのだ。
「腕を折る時間なんて、与えられると思ったの?」
 ひっそりとした呟きが男の耳に届く。確かな強者であると主張する能力の波動に、男の頬を冷や汗が伝う。
 腕を折る、その行動を始めようと指に力を込めた瞬間に男の体が霧散する。一瞬でそれをなした雛は翔を見上げた。
「大丈夫?」
「あぁ」
「ならいいけど、油断しすぎだと思う。普段なら、絶対に動けなくさせるのに」
「その辺は突付くな」
 呟き、翔は女の腕を掴んだ。無形の力を送り込み、女の能力を封じてから彼は「抵抗する気、あるか?」と問う。
「したくても、出来ないわよ……。能力を、封じられたら、異能者は何も出来ないわ」
「雛、嘘だと思うか?」
「これだけ元気に喋ってるから嘘だと思う。もうちょっと掻き乱しといてもいいんじゃないの?」
 それを聞いて翔は更に力を送り込み、女の能力を完全に封じる。ぐったりとした様子の、抵抗など不可能になった女を見下ろし、翔は充に声を掛けた。
「親父に犯人捕まえたって連絡してくれ」
「自分でしろよ」
 言いながらも、充は携帯電話を取り出し、翔の自宅に電話を掛ける。それを見ながら、雛は小さく呟く。
「私、ちゃんと帰るよ。制御、ちゃんと出来るようにならないと駄目だから」
「そうか」
 翔の手が雛の頭を撫でる。そして、「なら芹菜にも会えよ」と告げる。
「分かってる。ちゃんと会うよ。置いていってごめんって言わないと、駄目だから」
 充が電話を切り、優に声を掛ける。二人が話し合うのを見ながら、雛は「疲れた」と呟いた。
「まぁ、あとちょっとで帰れるからもう少し我慢しろ」
「何で今すぐ帰っちゃ駄目なの?」
「近くの異能者、土師家の当主にでも犯人渡さないと駄目だからな」
 思い出したようにどこかに電話を掛ける充を見て、翔がそう言った。それを聞いて、雛は溜息を吐く。
「犯人捕まえて解決って言えないんだ」
「まだしないと駄目なことが結構あるからな。仕方ない」 
 



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