変わる日常、再会 10




「出かけないんじゃなかったの?」
 そんな声が投げられたのは、日が沈み、既に夜中になってからだった。
 スニーカーを履き、玄関を出ようとしていた雛は僅かに目を瞠るとすぐに振り向き、「何だ、翡翠か……」と呟く。
「ちょっと気になることがあったから、散歩」
「こんな時間に? しかも、誰も呼ばずに」
「呼び出さなくても、呼んだら来るでしょ?」
 それは事実だ。わざわざ呼び出しておかなくても、彼らは呼べば来る。どこにいても、即座に主の元に来ると定められている。
 だから、精霊たちの大半は主の傍に控えている。影のように付き添いながら、呼び出されるまでの時を待つのだ。
 中には名草のように一日現出している者や、翡翠のように用がないにもかかわらず現出する者もいるが、彼らは少数派だ。
 扉に背を預け、廊下に立っている翡翠を見る。
 昔は彼の背は高いと感じていた。だが、今ではそれほど高いとは思わない。
「身長伸びないよね、翡翠って」
「成長してたらとっくに老人だよ。背が伸びないのは雛のほうだと思うけど?」
 その指摘に彼女は顔を歪める。小柄だと自覚しているが、他人に言われるとそれはそれで腹が立つ。
 しかもそれが、幼い時から傍にいる精霊だ。殴ってやろうかとすら思う。
「まぁ、雛の身長はどうでもいいけど」
「どうでもいいのに言うの? 殴っていい?」
「そこからじゃ届かないんじゃないの?」
 確かに、玄関の扉にもたれている雛と廊下に立っている翡翠とでは距離がある。彼女が腕を伸ばしても届かないのは事実だ。
 溜息を吐いた彼女は視線を足元に落とす。
「心配性だよね」
「そりゃ、大事な大事な主に怪我されるのは嫌だからね」
 その言葉に嘘がないのは知っている。嘘を吐かないと知っている。
 本心から出た言葉だと知っているから、雛は苦笑を浮かべた。
「本当に心配性……。でも、ただ散歩に行くだけだから大丈夫。危なくなったら呼ぶ」
「散歩に行くぐらいで危ないことに巻き込まれる?」
「多分、巻き込まれない。でも、危なくなったら呼ぶよ」
 そう告げると彼女は家を出た。鍵を掛け、階段を降りる。
 どこに行くと決めていたわけではない。ただ、自身の勘に任せ、『何となく』で進んでいた彼女は一つの騒ぎに巻き込まれる。
 異能者と異能者の、小さな騒ぎ。そこを通っただけだと無視出来なかった彼女はその輪に引き摺り込まれた。
 散歩に来ただけで騒ぎに巻き込まれるということは本来ならばありえない。
 だが、巻き込まれてしまった以上「ありえない」と言っているわけにはいかない。
 事実、彼女のすぐ横を少年の拳が通っていったのだから。

「何て言うか、血の気、多いの?」
 軽く首を傾けて拳を避けた雛はそのまま問う。問われた少年はあっさりと避けられたことに目を瞠っていたが、すぐに距離を取る。
 いつでも反撃出来るように構えている少年を見て雛は隙だらけだなぁ、と呟いた。
 おそらく、その辺の不良と喧嘩をすることはあるのだろう。それも一度や二度ではなく、回数だけは多いはずだ。
 けれど、隙が多い。喧嘩慣れしていると言ってもただ『慣れている』だけで、彼女から見れば脅威でも何でもない。
(これぐらいなら誰か呼ばなくても平気かな)
 精霊を従えているとはいえ、自身が危険に巻き込まれた場合、一番危ないのは自分自身だ。
 護ってもらうことは出来る。けれど、それ以上に頼らなくてもすむようにしなければいけない。
 精霊を呼び出すだけでも負荷は掛かる。護ってもらうとなれば、その負荷が何倍にも跳ね上がる。
 そうなれば、いずれ自滅する。
 もちろん、自滅するより先に相手が倒れるのだが、なるべく頼らなくてもいいようにするのが理想だ。
 だから、師である男は彼女に体術を教えた。それが身に着いているかと問われれば目を逸らすしかないような実力だが、ただ喧嘩慣れしているだけの少年相手なら何の問題もない。
(……何か変)
 明らかに喧嘩慣れしている少年に殴りかかられるのは初めてではないが、妙だと感じる。
 おそらく、少年は『後天的な異能者』だろう。殴りかかってきたのは身に着いた動きで、意味はない。
 それ以上におかしいと感じるのが、少し離れた所に立っている女性。
 二十を過ぎたあたり、おそらく二十二歳程度だと思うのだが、彼女は生まれながらの異能者だ。
 けれど、異能を維持している家系に生まれたわけではないのか制御が甘い。
 制御が出来ていないというわけではないが、僅かな綻びがあるのだ。そこを突付けばあっさりと暴走するような致命的な綻び。それが、雛の目には映っていた。
(何でこんなひとが?)
 同じように巻き込まれたのだろうか、と内心で首を傾げる。けれど、それならば逃げる時間があったはずだ。
 今にしても、少年は何もしてこない。この間に逃げることが可能なのだから、ただ巻き込まれただけなら逃げるはずだ。
 なのに、女性は逃げない。何か目的があるわけでもなさそうだ。
(……何なんだろう、このひと。人質?)
 だが、人質だとしても誰に対する人質なのか分からない。
 雛がここに来たのは偶然だし、他の誰かに対する人質であったとしてもただの路地裏で人質を取ってどうするのだ、と突っ込みたい。
 となれば、人質ではないはずだ。それに、人質ならば雛が来た時点で助けを求めるだろう。
(何か変なひとだけど……無視していいかな)
 害になることはない、と判断して女性を無視する。女性の茶色い髪が引っかかる様な気もしたが、ただの気のせいだと思い、すぐに忘れる。
 周囲に人影はない。元々、昼間でも閑散としているのだ。こんな夜中にひとが多いわけがない。
 大きな騒ぎにならなければいいだろうと判断した雛は顔を下げ、トントンと爪先を地面に当てる。
 あまりやりすぎると靴の先が汚れるのだが、これから走るかもしれないのに僅かなズレがあると気になる。
 顔を上げると目の前に少年の拳があった。頭を下げてそれを避け、少年の腕を掴むと手首を捻る。そのまま少年の後ろに回り、足を払う。バランスを崩した少年の腕を掴んだまま、雛は口を開く。
「何で殴ろうとしたの?」
 それほど気になったわけではないが、時間稼ぎの為に問うと「言う必要なんてないだろ」と返される。
「いきなり殴りかかって来たくせに」
「俺の腕捻り上げながらよく言うよ。まさか成瀬がこんな性格だったなんてな、騙された」
「え?」
 今まで会ったことがない少年に名前を呼ばれ、雛は眉を寄せる。
「何で知ってるの」
「……忘れてんのかよ」
「だって知らないし。誰?」
 会話を続けながらも、雛は同時に別のことを実行する。ゆっくりと気付かれないように進めながら少年の言葉を待っていると溜息が響いた。
「中学の時に二年間同じクラスだっただろ」
「……ごめん、知らない」
 記憶を遡るが、全く分からない。中学の時に二年間同じクラスだった人間はいたような気がするが、少年のような人間はいなかったような気がする。
「早川の弟の方、って言えば分かるか?」
「…………え、ちょっと待って、早川って、あの早川?」
「どの早川だ、それ。と言うか、早川なんて俺と姉貴しかいなかっただろ」
「…………うん、思い出した。で、何で殴りかかってきたの?」
 中学の時の知り合いだと思い出し、もう一度聞くと「腕、放せ」と告げられる。
「嫌。放したら逃げるでしょ。で、何で?」
「普通驚くだろ、急に出て来たら」
「そういう殴り方じゃなかったと思うけど? 私だって理解して、それで殴ろうとしたんでしょ?」
 そもそも、普通に歩いているだけの知り合いを殴ろうとする人間はいないはずだ。もしいるとしても、その数は少ない。 
 会話をしながら、雛は少しずつ行動している。気付かれないように気を付けながら、彼の能力を取り上げていく。
「……成瀬、お前、なにしてる?」
「何もしてないけど? 強いて言えば、早川の腕捻ってる」
「嘘吐くなよ。俺だって馬鹿じゃない。取り上げられてるのには気付く」
 冷や汗が頬を滑る。気付かれた。
 彼の腕を捻ったまま、能力を取り上げるスピードを速める。
 だが、遅かった。
 あと少し、と言う所で突き飛ばされ、雛は腕を放してしまったのだ。
「……っ……」
 地面に座り込んでしまった雛の前に早川が立つ。見上げると憎々しげに顔を歪めた早川と目が合った。
「まさか、成瀬にこんな能力があったなんてな。あの女から聞いてなかったら絶対に気付かなかった」
「あの女って誰? もしかして」
 雛が言うよりも先に早川が口を開き、「俺に能力をくれた女」と応える。
 それを聞いて、雛の中でぼんやりとしていた犯人像が形を持ち始める。
 女で、異能者。それも、異能を維持している家系に生まれたであろう女。
 家系によって異能を維持している家に生まれない限り、雛が能力を持っていると断定することは難しい。彼女の能力を正確に理解することは異能者の家系に生まれなければ不可能だ。
「……感謝、しないとね。ありがとう、早川」
 今まで殆ど情報がなかったのだ。それがこんな形で手に入る。
 その情報をくれたのが中学の時の知り合いであり、その上彼が既に能力に蝕まれているとしても助かったのは事実だ。
「何で俺に感謝するんだよ。可笑しいだろ」
「私もそう思う。今から、早川を酷い目に合わせるのにね」
 早川が眉を寄せる。それを見ながら、雛はゆっくりと右手を上げる。
「死なないと思うよ。手加減するから」
 そう告げるのと、能力を解放するのは同時だ。
 彼に声が届いたのか、否か、それすら分からない轟音が響く。
 それは雛を中心にして辺りを僅かに凹ませた。
「……ちょっとやりすぎたかな、修理大変そう」
 爆発の中、早川が全身に浅い傷を負っているにも拘らず、何もなかったかのように立っている雛に傷はない。
 彼女の周囲に常に張られている結界が全てを受け止め、その身に届かせなかったのだ。
 踵を返そうとした雛の背に「待ちなさい」と声が掛けられる。振り向いた彼女は同じように傷一つない女性を見て首を傾げる。
「何か用ですか?」
「貴女、何者?」
「ただの高校生ですけど?」
 何が目的なのか分からないが、とりあえずそう返すと女性の眉が跳ねた。彼女の周りで生温い風が吹く。
「今、この状況でそれでもただの高校生って言うの? いい性格してるわ」
「何のことか分かりませんけど、事実ですから。用はそれだけですか?」
 返事はすぐに返って来なかった。用がないのだろう、と判断した雛が踵を返し、歩き始めるとすぐ横を何かが通り過ぎる。
 それは曲がり角に当たり、形をなくした。
「…………どういうつもりですか?」
 振り向かないまま、足を止めて尋ねる。
「わざわざ、当たらない様に能力を使いましたよね?」
 彼女の隣を通っていったのは小さな火の玉だ。かなり高温だったのだが、彼女に当たらないように調整されていた。
 それ故に彼女は無傷であり、頭に来た。
 彼女に当たったとしても、名草が張っている結界に弾かれ、怪我を負うことはない。
 だが、それはあくまで彼女だけだ。
 ただの異能者、何の能力も持っていない一般人に当たればどうなるかなど、子供でも分かる。
 良くて重傷、最悪の場合は命を落とす。
「当たらないからいいだろう、とでも思ったんですか?」
 問いに答えはない。振り向いた雛の瞳には怒りが浮かんでいた。
 生まれながらの異能者である者は物心ついた頃から自分の能力の危険性を理解する者が多い。
 例外は異能者の家系に生まれなかった異能者の中の一部か、ただの馬鹿ぐらいだ。
 軽はずみに自分の能力を使えば何が起きるのか、それを理解して出来る限り能力を使わないようにする。それが普通なのだ。
「さっき、もしかしたらひとが来るかもしれないなんて全く考えてなかったですよね?」
 もし考えていれば、雛の隣を通った炎はもう少し違う方向に動いていたはずだ。
 通行人が来たら当たってしまうような位置ではなく、絶対に当たらない位置に向けて能力を使っていたはずなのだ。
「私もひとのこと言えませんけど、もう少し考えて能力を使ったらどうですか? ただの一般人を巻き込むなんてことになったら最低ですよ」
 雛は、時折自身の能力を制御出来なくなる時がある。
 その最たる例が怒りを抱いた時だ。
 そして今、制御が出来なくなっていくのを感じた。
(落ち着け、落ち着け。じゃないと、知られる。見つかる)
 呼吸と同時に能力を押さえ込む。だが、もしも名草の結界がなければ周囲に被害が出ているのは明白だ。
 視線を動かし、結界を視る。念の為に見ただけだったのだが、彼女の目に写されたのは最悪の状況だった。
 丸い膜、その一部が歪みかけている。内から力が掛けられた風船のように。
(…………、嘘……)
 パチパチと小さな音が響く。彼女を包むように張られている結界が歪み始め、音を立てて内から破壊される。
 再び轟音が響く。それも、一度目とは比べ物にならない轟音だった。


 

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