僕には早い珈琲



広い喫茶店の中、僕は向かいで紅茶を飲んでいる彼女を見る。ふわりと上がった湯気は柔らかい。ミルクを入れた紅茶は、少し甘そう。
休憩の時間が合うから、よかったら、なんて誘われて入った喫茶店は、静かだ。マスターがゆっくりと淹れる珈琲と、紅茶の香り。
店内を流れるジャズのリズム。ぱさりと誰かが捲る新聞の音。緊張して、彼女の向かいに座る僕だけが、この空間に馴染めない。
頼んでから手を付けていない珈琲を口に含む。黒い液体は、僕の喉を伝って胃に落ちる。カップを戻すと、向かいの彼女がふっと笑う。
「ここの珈琲、美味しいでしょ?」
笑いながらの言葉に、僕の心臓がどきりと跳ねる。さっき飲んだ珈琲の味はまだはっきりと残っている。綺麗に笑う彼女は、気付いているのかもしれない。
「美味しいですよ、珈琲」
「澤田くん、嘘つかないで。あなた珈琲苦手でしょう? 顔に出てたわよ?」
ふふっと、子どもを見る目で笑われて、頬が赤くなる。ああ、やっぱりばれていた。

僕は、ここの珈琲の美味しさが分からない。苦いだけの黒い液体は、先週僕が彼女に告げた言葉の答えのはずだ。

つまり。

「僕は、まだ早いんですね」
この珈琲の味が分からないから、と付け足すと、彼女は綺麗に笑う。
「ええ。ここの珈琲が美味しいと感じるようになっても気が変わらなかったら、そのときはまた考えるわ」
でも、そのときもう私には誰かいるかもしれないわね、と呟いた彼女が、ミルクティーを飲み干す。
空になったカップと、なみなみと珈琲の入ったカップを、彼女は微笑みながら見つめていた。


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