真莉と遥と藍 25





 一度庭に出て、少し歩く。柚木の本家だとか雛や隼斗の実家だとか説明された屋敷は広く、敷地内に道場や蔵が建っている。藍の実家や、その周辺では見ることのないそれを見上げていると、砂を踏む音が耳に届く。
「暇そうだね、朝霧」
「まぁ、暇と言えば暇だな。さすがに四六時中真莉見とくわけにも行かないし」
 言って、庭に出てきた隼斗を見る。普段ならその隣には芹菜がいるが、今日はいない。
「成瀬は?」
「荷物纏めてる。あと、妹と電話中」
「妹? どっちの?」
「そりゃ、芹の。冬休み中、ばーちゃんのとこ行ってたんだよ。で、そろそろ帰るから電話掛けてきたみたい」
「……てことはあいつ、三人姉妹の真ん中か。意外だ」
 呟くと、隼斗が笑った。ついでだけど、と前置きして、彼は言う。
「俺は三人兄弟の末っ子。で、雛は長女ね。あと、翔さんも三人兄弟。長男だけど」
「……あれか、柚木は三人兄弟とか姉妹とかばっかりなのか?」
「いんや、ただの偶然。それよりさ、朝霧別にここに残っててもいいよ?」
 その言葉に小さく笑い、隼斗を見る。笑った理由が分からない、という顔をしている彼に、藍は告げる。
「俺が残ってたからって真莉が起きるってわけでもないだろ。普通に、明後日には帰る」
「あ、そう。まぁいいけどさ。冬眠してるだけだと思ってのんびり待てば?」
「冬眠じゃないだろ。あいつはクマか」
「いや、案外ヘビかもよ。あと何がいるっけ、冬眠する動物」
 知るか、と呟いて空を見る。薄く雲の掛かった、雨か雪の降りそうな空を眺めていると、隼斗がぽつりと呟く。
「多分さ、月森もその内起きるよ。それこそ、いきなり」
「…………それ言いに来たのか?」
「どうだろうね。好きに解釈してよ」
 居間に行ったらおやつあるよ、と言って彼は踵を返す。縁側から家の中に戻って行く背を数秒眺め、もう一度空を見る。
 薄い雲は灰色だ。遥から聞いた、真莉が言っていた言葉を思い出す。
『あの日からね、私の世界は灰色だったの。色なんて、なかったよ』
 それがどういう世界なのか、藍には分からない。色のない、灰色の世界。想像すら出来ない暗い世界で、彼女は佇んでいた。
「…………」
 空を見上げたまま、息を吐く。白い息が空気に溶けて消え、灰色の雲は広がる。
「そろそろ、起きろよ」
 本人を前にして言うことの出来ない言葉を呟く。遥がいても言えない言葉だ。三ヶ月前からずっと溜め込んでいた言葉を吐き出して、視線を下ろす。
 幾度となく繰り返したという反抗。それに成功し、組織が消えても真莉が目を覚まさないのならば、意味はない。
 そう考えながら首を振り、隼斗と同じように屋内に戻る。
 たった三ヶ月、けれどその三ヶ月が長い。


 襖を開くと、真莉の枕元に座っていた遥が視線を上げた。そして、彼女を起こさないように小声で言う。
「あなたですか」
「誰ならよかったんだ?」
 問うと、彼は薄く笑った。誰でしょうね、と囁いて、遥は首を振る。
「で、何しに来たんですか?」
「様子見に来ただけだな。あと、雛がお茶持って行けっていったから、それで」
「そうですか」
 藍から視線を逸らして、遥は溜息を吐く。その横顔に僅かな疲れが滲んでいるように見え、藍は彼に湯飲みを渡す。
「たまには外出たらどうだ?」
「嫌ですね。俺がいない間に真莉が起きたら嫌ですし」
 離れる気にならないんです、と呟いて遥は溜息を吐く。渡された湯飲みを傾けてお茶を飲み、彼は藍を見上げる。
「あなたは散歩でも何でも好きなようにしたらいいんじゃないですか?」
「前から思ってたんだが、何か俺、小牧に嫌われてないか?」
 問うと、彼は薄く笑った。今更ですね、と呟いて、彼は言う。
「まぁ、好きじゃないですよ。真莉はあなたのこと好きですけど」
「冗談か?」
「冗談だとしたら、ものすごい暇なひとですね、俺。でもまぁ、本当ですよ。真莉はあなたのこと好きです」
 空気が綺麗だって言ってました、と付け足して、遥は溜息を吐く。「正直に言うとどこがいいのかさっぱりですが」と言いながら、彼は藍を見上げる。
「案外、真莉が起きないのってあなたのせいかもしれませんね。自分のさせられていたことをあなたに知られたくなかったから、起きない」
 まぁ、半分冗談です、と言って遥は立ち上がる。それを見上げると、彼は一度瞬きをしてからああ、と呟く。
「ちょっと成瀬さんのところに行ってくるので、真莉のこと見ててください」
「ああ。分かった」
 お願いします、と囁いて、彼は部屋を出る。襖が閉められ、時計の針の音しかしなくなると、急に部屋の静かさが浮き彫りになる。
 小さく息を吐いて、真莉を見る。目を開けることなく眠り続けている彼女の胸元がゆっくりと上下していなければ、彼女はもう二度と目を開けないのではないかと考えていたかもしれない。そんな風に考えてしまうほど、彼女は静かに眠り続けていた。
 そっと、彼女の髪を撫でる。灰色の世界で生きて、その結果眠っている真莉。茶に近い黒髪を撫でながら、目を閉じる。
 今なら分かるのだ。藍と話している時に、彼女が楽しそうだった理由が。真莉は、家に帰っても安息と言うものがなかった。藍や、放送部の部員は穏やか過ぎる日常に身を置いていて、真莉に対して敵意などない。ただ話しているだけで、息抜きになっていた。
『月森真莉だって、何か抱えてるはずよ。あんたが予想すら出来ない、嫌になるような事情を』
 芹菜が言った言葉は、どうしようもないまでに正しかった。それを思い知ったのは、彼女が倒れて、そして組織の話を聞いてから。
 目を開けて、眠ったままの真莉を見る。三ヶ月間、一度も目を開けない彼女が何を考えているのか、藍には分からない。けれど思うことはある。
 灰色の世界で生きていたのなら、色のある、鮮やかな世界に戻りたいのではないかと。一度は失った世界で、もう一度生きていくことを望んでいるのではないかと、彼女に問いたい。
「真莉……」
 起こさないように、小声で呼びかける。灰色の世界から戻って来れるように祈りながら、彼女の名前を呼ぶ。
「もう、戻って来てもいいんじゃないか? 誰も、お前をそこに縛り付けようとなんて、してないだろ……?」
 言ったところで、彼女に届く保証はない。だから、ただ吐き出すだけだ。小さく溜息を吐いて、首を振る。
 遥が戻って来るまでは部屋にいなければならない。部屋の隅の机、その上に置かれた文庫本を手に取り、それを読む。誰が置いたのか分からない、推理本。興味のあるジャンルではないそれを読み進めていると、小さく咳をする音が藍の耳に届く。
 遥が戻って来たのか、と思って顔を上げ、襖を見る。だが、襖が開けられた形跡はないし、彼の姿もない。
(聞き間違い……?)
 視線を動かして、真莉を見る。眠ったまま、三ヶ月間起きなかった彼女。その、黒い瞳がぼんやりと天井を見上げていた。
「……っ、真莉!」
 本を閉じて、彼女に声を掛ける。三ヶ月ぶりに、彼女は目を開けた。ゆっくりと視線を動かして藍を見た彼女は唇を動かす。
「先輩……、遥は…………?」
「大丈夫だ、ちゃんといる。呼んで来るから、ちょっと待ってろ」
 小さく、真莉が頷く。それを見て、きちんと彼女が起きていることを実感して、そして部屋を出る。
 遥がどこにいるかは聞いていない。成瀬さん、という呼び方で呼ばれるのは、雛か芹菜、そして二人の父だ。その中で一番可能性が高いのは雛。
 広い家の中、雛の部屋に向かう。一度説明されただけの部屋の位置をきちんと憶えることは出来ずに、結局時折すれ違うひとに聞きながら彼女の部屋に向かい、その襖を開く。
 それに気付いて、雛が顔を上げた。遥と話していたらしい彼女の顔にあった冷静さは消えて、藍がよく見る穏やかな顔になる。
「あれ、どうしたの?」
「……、真莉が起きた」
 短く、要点だけを告げると雛は軽く目を瞠った。その正面で彼女と話していた遥は藍の言葉を聞いてすぐ、部屋を飛び出していく。
 それを見送り、藍は溜息を吐く。軽く目を瞠って、そして俯いた雛が「起きたのね」と呟き、顔を上げる。
「二人には悪いけど、明日からしばらく月森さんに事情を聞かないといけなくなるわ。あんまり、彼女の部屋に行かないで」
「…………起きた、ばかりだろ?」
「その辺りは考慮するわ。でも、事情を聞かないといけないのは変わらない」
 酷いと思うなら、それでもいいんだけど、と呟いて、雛は立ち上がる。藍の横を通り抜けて、彼女は小さく微笑む。
「でも、よかったわね。月森さんが起きてくれて」

 雛が部屋を出てしばらくしてから、藍も真莉が眠っていた部屋に向かった。もしかしたら、遥と二人で何か話しているかもしれない。そんなことを考えながら襖を開くと、遥が視線を上げる。
「真莉、とりあえず終わったら来るから」
 言われて、真莉は頷く。行ってらっしゃい、と小声で言った彼女の頭を撫でて、遥は腰を上げる。
「俺はもう一度成瀬さんのところに行って来ます。話の途中ですし、いろいろ言いたいこともありますから」
「ああ」
 襖が閉められる。時計の音と、真莉が首を傾げて藍を呼んだ声。その二つしかない部屋の中、藍は座る。
「体調、どうだ?」
「あんまり、です。多分、来年もう一度……一年生やらなきゃいけないんでしょうね」
 言って、真莉は小さく咳き込む。ちょっとしんどいので寝ます、と呟いて布団に潜った彼女の頭を、藍も撫でる。
「早く元気になれ、なんて言う奴いないからな。のんびりしてても大丈夫だ」
 真莉が小さく微笑む。そうですか、と呟いて目を閉じた彼女はすぐに眠りに就いたらしい。ぱたりと、音が止む。
 起きて、もう一度眠った真莉の顔を見る。穏やかな、三ヶ月前とは違う顔。その頭を撫でて、藍は囁く。
「もう二度と、灰色の世界に戻ることなんてないぞ」
 

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