歌姫と皇帝




「そろそろ冬が近いな」
「そう……なんですか?」
 イルの言葉にリアナはきょとん、とした顔でそう訊ねた。
「西の方とは、違いますね」
「それほど変わらんような気もするが……面倒だな」
 烏濡れ羽のような黒髪を掻きあげながらそう呟いたイルを見上げ、「何が面倒なのですか?」と訊ねる。
「冬になると気温が下がるんだ」
「そうでしょうね。冬ですから」
「そうなると、寒いだろう」
「でしょうね。寒くなるのが当然でしょうし」
 会話を交わしているうちに、リアナは首を傾げた。彼の言いたいことが良く分からない。
「イル?」
「気温が下がると冷えるからな。このままではお前も寒いだろう」
 温暖な気候とは言え、冬になると温度が下がる。そうなると、さすがに寒い。もっとも、北の大陸に比べると過ごしやすいのだが。
「確かに、そうですね」
 リアナがこの国――エーデル――に連れて来られたのは春先だ。ここに来てから半年以上経つのだが、十二の時に家を滅ぼされ、十年ほど奴隷として過ごしていた彼女は冬物の衣装など持っていない。
「仕方ない。買いに行くか」
「………どこへ?」
「城下へ」
「ですが……、そんな時間、あります?」
 リアナと会話している相手はこの国の皇帝でもある。
 普通に考えて、仕事が山積みだ。本来ならば彼女と会話している休憩時間すら仕事に回さねばならぬほどに。
「…………よし、今から城を抜け出そう」



 皇帝しか知らないという城の抜け道を使って城下に降り、二人は安堵の溜息を漏らした。
「とりあえず、見付からなかったな」
「冷や冷やしましたけど……次からは普通に出かけませんか?」
「時間があればそうする。ないなら次もこれだ」
 城の抜け道は皇帝しか知らない。誰かが追いかけて来ることなどないだが、暗い場所を歩いていると後ろから誰かが来るのではないか、と言う不安に襲われるのも事実だ。
 特に、リアナは暗闇が苦手だ。過去の経験から暗闇が酷く恐ろしいものに思えてしまうのだ。イルもそれを知っているからか、歩いている最中は出来る限り会話を交わしていた。
「抜け道、あの林に通じているんですね」
「ああ。不気味な噂ばかりの林なら誰も近寄らないだろう、と思って出口にしたんじゃないか?」
 リアナは城の裏手に広がる鬱蒼とした林を見上げ、「そうですね」と呟いた。イルの言う通り、あの林には不気味な噂が多い。
 皇妃が身投げした、とか乱心の王が黒魔術を使った場所でもある、とか不治の病で亡くなった王子の霊が出るとか、そう言った類の噂ばかりだが。
「とりあえず、市の方に行くか」
「はい」
 市がある広場に向かって歩きながら、リアナは被いていた布を押さえた。
 この大陸に、リアナと同じ葡萄酒のような赤髪の持ち主は少ない。リアナのような赤髪を持っているのは西の隣国――リーレン――の王家か、それに近しい者だけだ。
 彼女の場合は生家が王家の分家筋で、王家に近しいことから同じ様な髪を持っているのだが、『赤髪は西の王家の特徴』だと一般的に認識されていることもあり、市に行く時などは少し不便だ。
 前を歩いているイルの烏濡れ羽のような黒髪も同じ様に『王家の特徴』として認識されているが、彼は栗色の染料を使って栗毛に変えているから問題ない。
 リアナも同じ様な染料を使えたら楽なのだが、彼女の髪に染料は馴染まないから諦めた。
「イル、この布だけで大丈夫なのですか?」
「遠くから見る分にはリアナだと気付かないだろう。大丈夫だ」
 石橋を渡ると、途端に行き交う人の数が増える。はぐれないようにイルの後ろを歩きながら、彼の言葉に耳を澄ます。
「それに、西の王家の特徴と言っても、今の王の燃えるような赤髪を思い描く者の方が多い。多少は誤魔化せる。俺も、わざわざ騎士服に着替えてきたしな」
 イルが騎士服を着ていれば、二人を見た大抵の人間はどこかの令嬢とその護衛だと思う。そう思われなかったとしても、令嬢と護衛だと言い張ることが出来る。
 今頃城では騎士服が消えた、と騒ぎになっているかもしれないがそれぐらいの騒ぎは宰相が何とかするだろう。
 リアナは人の波に紛れながら、彼らが歩いている方を見る。多くの人が目指している広場には、人だかりが出来ていた。
「人、多いですね」
「大きい市だからな。その分、人も集まる」
「市、イルは良く行きますか?」
 彼女の問いに、イルは「そうだな……」と呟いた後、沈黙を保った。どうやら、自身の記憶を遡っているらしい。
「昔は良く行ったが、最近は視察のついでに寄るぐらいだな。ここの市は久し振りだ」
「西の市とは違いますか?」
「あまり違いがなかったな。西の市は、ここより甘い物が多いぐらいで。飴とか」
 その言葉にリアナは昔こっそりと出かけた故国の市を思い出した。
 初めて見た鼈甲飴はまるで琥珀のような色をしていた。それが不思議で、どうしてあんな色なのか訊ねると、市に連れて行ってくれた父が苦笑しながら砂糖を溶かすとこんな色になるんだ、と説明してくれたのだ。
「懐かしいですね、飴」
「食べたいなら買うか?」
「いえ。食べたいわけではないですし……」
 話している間に、市がある広場に着いた。その広さと、人の多さにリアナは目を丸くする。
「………、凄い、ですね」
「最初は驚くだろうな。でも、すぐに慣れる」
 イルは市を見渡し、「歩くか」と人の多い方へ向かって歩き始めた。リアナは、彼とはぐれないように気を付けながら、その後を追いかける。
「それにしても、何を買うか悩むな。もう少し詳しく決めてから来た方が良かったかも知れないな。何か欲しい物はあるか?」
「…………膝掛け、でしょうか。最近、寒いような気がしますし」
「……………………ここにあるのか?」
 イルの問いにリアナは首を傾げた。市に来たことがほとんどないのだ、明確な返事など返せるはずがない。
「なかったら諦めて何とかするか」
「そうですね」
 てこてこと歩きながら露店を見る。今朝取ったばかりで新鮮な野菜や果物、作り立ての料理、人々が楽しそうに談笑している風景を見ながら、リアナは目を和ませる。
 奴隷として過ごしていた間、彼女に『自由』は無かった。食事すら与えられない時もあった。睡眠や休憩もなく、一日中起きていなければならない時もあった。
 こんな風に市に来ることは、夢のまた夢だったのだ。
「リアナ、一つ聞いて良いか?」
 イルに声を掛けられ、リアナは顔を上げた。見上げるほどの身長差があるのは初めて会った時からだが、いつの間に彼はこれほど身長が伸びたのだろう。
「何をですか?」
「一番最初に会った時のこと憶えているか?」
「……一番最初……、イルがリーレンの城に来た時ですか?」
 彼女の記憶の中で、イルと一番最初に顔を合わせたのは八つの時だ。
 父が王から城に来るように言われ、リアナも一緒においでと言われたから付いて行き、隣国の王と王子が来ていると言う話を聞いたのだ。
 隣国の王と王子が来ると言うのがどういう意味を持つのはよく分からなかったが、凄い人が来たんだろうな、と思いながらイルと顔を合わせ、彼女は告げられた言葉に驚愕した。
「憶えてますけど……驚いた、としか言えませんよ?」
 隣国の王子と関わることはないだろう、と思っていた時に将来この人のところに嫁ぐんだよ、と父と王から言われ、暫く記憶が飛んでいるのだ。
 本来ならばリーレンの王女が嫁ぐ予定だったらしいのだが、王家に女児が生まれず、エーデルの王家にも女児が生まれなかった為にリアナが選ばれたらしいのだが、最初に聞いた時は何を言われたのか理解出来なかった。
「まぁ、驚くだろうな。俺も驚いたし……。あの時、リアナは八つか?」
「ええ。イルはいくつでした?」
「十三だった。あの時、歌を歌っていなかったか?」
 リアナはその時のことを思い出そうと首を傾げた。
 確か、城に行って、中庭に行っても良いかと訊ね、良いよと言われ、中庭でいつものように歌を歌った。
「歌いましたけど、聞いてたんですか?」
「聞こえてきてた。あの歌、まだ歌えるか?」
「………歌詞は覚えてますけど……五年ほど歌ってないから下手になってますよ、多分」
 五年も歌っていないのだ。昔と同じ様に歌うのは無理だろう。
「帰ったら聞かせてくれ」
「……下手ですよ、多分」
「気にしない」
 歩きながら言葉を交わす。気にしない、と断言され、リアナは逃げ道を失った。
 不意に、イルが足を止めた。彼が何かを見ていることに気付き、リアナも同じ物を見る。
「?」
 イルが見ているのは動物の毛が使われた何かだ。一見しただけでは何か分からないが、暫く見ているうちに膝掛けか何かだと気付く。
「お兄さんたち、見る目があるね。それ、西のだよ」
「西と言うことは、リーレンのか?」
「そう。あそこのは質が良いからね。それなんか、温かいし手触りも良いし、端の方には編みこみもある。それなのにたったの銀貨二枚。お得だよ」
 商品を勧めてくる女性の言葉を聞きながら、イルは思案している。女性に一言断ってからそれを手に取り、表だけではなく裏も確認する。
「そこまで確認しなくても良いやつだよ、それ。ちゃーんと、西まで仕入れに行ったからね」
「………疑っている訳じゃないんだがな。これ、値段は?」
「たったの銀貨二枚」 
 それが妥当な値段なのか、それとも安いのか分からないリアナは広げられている干し果物を見る。
 葡萄や杏、林檎などの果物を乾燥させたごくごく普通の干し果物だが、久々に見たような気がする。
「で、買うのかい?」
「そうする。銀貨二枚で良いんだな?」
「毎度。お嬢さん、干し果物買うの?」
 女性に声を掛けられ、リアナはイルを見上げた。
「買うのか?」
「…………葡萄を、少し」
「じゃあ、葡萄一掴み」
「はいよ、一掴みだから、銅貨一枚頂くよ」
「ああ」
 支払いを済ませ、城へ戻る。歩きながら、リアナはイルに声を掛けた。
「帰り、どうするんですか?」
「普通に城門から戻る。どうせ、抜け出したことに気付いて城門で待ち構えられている」
 そうイルが告げた通り、城門では宰相が待ち構えていた。
 勝手に城を抜け出したことに対して文句を言われた後、さっさと仕事に戻って下さい、と執務室に連れて行かれるイルを見送り、リアナは自室に戻った。



 暇な時に読み進めれば良いと言われ、数週間前から読んでいた本を読み終わり、次の本に手を伸ばすと扉を叩く音が響いた。次いで、「入っても良いか?」と尋ねる声が響く。
「どうぞ」
 声を聞いてすぐに相手が誰かを理解し、手に取った本を机の上に置き直す。それと同時に扉が開き、イルが顔を出す。
「リアナに買ったのに渡し忘れてたからな。届けに来た」
 そう言ってイルが持って来たのは市で買った膝掛けと干し葡萄だ。それを受け取り、リアナは「仕事、一段落ついたんですか?」と訊ねる。
「休憩時間だから渡しに来た。歌も聴きたいしな」
 椅子に座り、「歌えるか?」と訊いて来るイルを見ながら、リアナは「下手になってたら怒りますか?」と訊き返した。 
「気にしない」
 市で話した時と同じ口調で断言され、彼女は「絶対に呆れないでくださいね」と念を押してから一度深呼吸をする。
 最後に歌ったのは五年前。
 それまでは何度も歌っていた。
 思い出そうとしなくても、自然と歌詞を思い出す。 
 一度歌おうと決めれば、昔と同じ様に声が出た。
 銀鈴のような澄んだ声が伸びる。
 真綿に包まれた鈴のような響きがある音に、旋律が乗る。


優しきひとよ
善良な民よ
疑うことなく従いなさい
神の御言葉に
聡明な王の言葉に
光溢れる明日のため
幸多き未来のために


 昔よりは幾分か声が小さくなったが、思っていたより声が出た。
 歌い切り、イルを見ると穏やかな顔で微笑んでいた彼と目が合う。
「下手になって無いな。これぐらい歌えるんなら大丈夫だろ」
「意外と、歌えましたし……案外、憶えているものなんですね」
「一度憶えると忘れないんじゃないか? 俺はそろそろ戻るが、寒いと思ったら膝掛けを使うなり誰かに言うなりしろ。それと、干し葡萄は半分貰った」
 そう言われ、リアナは干し葡萄を見た。確かに、半分ほど減っている。
「じゃあ、また明日。おやすみ」
「おやすみなさい」
 扉を閉じる音が、静寂の中で響く。


 市でイルに買ってもらった膝掛けは温かく、彼女はそれを秋から冬に掛けて愛用した。


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