昼下がり、君と




 野球部が投げたボールが、二階の窓から見えた。行けー! と叫ぶ部員。ざわざわとした、運動部独特の雰囲気と聞こえてくる蝉の声。
「ご飯を食べてすぐに運動、って信じられないなって思うの」
 俺と同じように教室にいた早苗が、ぽつりと呟く。さらりと肩から落ちたセミロングの髪は、窓から入り込んだ光が黒い髪に当たって少し薄い色に見える。俺たち以外に誰もいない、静かな教室。
 珍しいよな、と呟いたのはほんの数分前だ。昼下がりの教室からひとが消えるなんてことは、滅多にない。偶然といっていいのかわからないこの珍しい時間に、早苗は白いノートを広げていた。
 窓際に座っている俺にも見える、なにも書かれていない白紙のそれに乗せられてる日に焼けていない白い手。そういえば美術部だったな、と思い出した俺に向けられる彼女の視線はこちらの考えを見透かすような透明さがある。
「でも、行かなくてもいいの? 野球部でしょ?」
「野球部じゃなくてバスケ部だよ。春にも言っただろ」
「運動部で、球技ってことしか憶えてなかったの。」
 野球とバスケットボールって似てるから間違えた、と零して、細い指先がペンを持つ。白紙の上に広がって行く線と、それによって出来上がる風景。俺には真似出来ないと思い知らされた、彼女の絵。
 早苗が野球部とバスケ部を間違えるように、俺も彼女が水彩画を描いているのか油彩画を描いているのか憶えていない。お互いに、理解出来る部分と理解出来ない部分があると分かってから、相手のことを全て理解するのは諦めた。
「なに、描いてるんだ?」
 彼女が描いている間は話しかけない、そう決めていたことも忘れて声をかける。教室に二人しかいないなんてことは、そうそうない。だからいいだろうと判断した俺を一瞬だけ見て、彼女はペンを置く。
「海が見える丘。昔、行ったでしょ? あそこの風景」
 言われて、白紙だったノートを覗き込む。白い紙の上を踊る線が作り上げているのは、確かに俺の記憶にある海が見える丘に近い。決定的に違うのは、海を見下ろすのではなく丘を見上げる構図だけ。紙の下半分を占める海の風景、見上げる丘、ひっそりと存在する月、彼女が記憶だけに頼って描いた、俺の記憶に近い風景。
「あの時、こんな景色見たのか?」
「見てないよ。海を見下ろしただけ。だからこれは、偽物の風景だよ。本当にこんな風に見えるのかは知らない」
 もう一度ペンを持って、彼女が線を足す。知識のない俺には、彼女がノートに書いている風景を下書きと呼んでしまっていいのか分からない。春に見たキャンパスに向かう背中とは真剣さの違う雰囲気と、あの時と同じ集中した横顔。気紛れに描き始めた気分転換なのかと問いたくなって、そっと黙り込む。
 家が隣、なんてありふれた事情で親同士の付き合いが始まって、その延長線上で話すようになった俺たちも、時間が経てば段々話さなくなった。俺はバスケ部、彼女は美術部に入って共通の話題が減ったからだ。
 二人きりの教室で久しぶりに話すと、昔と違う部分ばかりが目立つ。数年前の同じ時期は健康的に焼けていた彼女の肌は白く、俺と同じような高さだった身長はいつの間にか差が広がって低く感じる。線を増やしていくペンの音を聞きながら窓からの景色を眺めて、小さく息を吐く。
 変わったところだけを探せば、息が詰まってしまう気がする。けれど、変わらない部分もあるはずだ。昔から続いてる、彼女の趣味。紙の上に広がるあの日の想い出に近い景色には、いずれ色がつけられる。
 その時に、俺は自分の記憶と彼女の絵を照らし合わせる。同じ部分と違う部分を探し、あの頃と同じままの部分に安心して、昔のように「お疲れさま」と声をかける。そうすれば、いつ途切れてもおかしくないこの縁をもう少しだけ繋げていられる気がする。


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