華となりて棘となる 後編




 実行したのは夜だ。満月が輝く中、彼女は人工的な灯りのない道を歩く。
 月明かりだけでは薄暗い広すぎる廊下を歩きながら窓を見る。
 空に浮かぶ月。その白さに、彼女は唇を歪めた。
 いっそ、隠れていればよかったのだ。月のない夜、そんな夜のほうが良かった。
 その日まで待たず、今日行動する己を嗤いながら彼女は歩き続け、目の前の扉を開けた。
 広い部屋。必要最低限の調度品しかない部屋の奥の寝台を覗く。
 月明かりが眠っている男の顔を照らす。美女として多くの国に知られている王妃の血を継いだ彼は、顔の造り自体が優美だ。その頬に、指を伸ばす。
 白く細い指、その先に浮かぶ桜色の爪が触れる寸前、緑の瞳が暗闇に浮かぶ。
 その強さに、彼女は息を呑む。息を呑み、動きを止めた彼女に彼の声が掛かる。
「マリー?」
 寸前まで寝ていた、そう分かる声だ。眠さを堪えた声、それが彼女に問う。
「マリー、どうした? 怖い夢でも見たか?」
 その言葉で、彼女は泣き出しそうになる。
 この人は、兄でしかない。いずれ王になる兄。そういう存在でしかないのだ。
 だから、彼女の名を口にしない。
「兄様、私の名前、きちんと憶えてます?」
 問う。緑の瞳を見つめ、ローズマリーは問うた。
 瞳が細められる。可笑しなことを聞く、そう無言で告げた彼は彼女の髪を掬いながら柔らかく聞き返す。
「マリー、熱でもあるのか? 可笑しなことを聞く」
 彼の穏やかな声に落胆するのは彼女だけだろう。彼女だけが、彼の声に落胆する。
 分かっていた。彼は、決して名を呼ばない。愛称だけを呼ぶ。それも、彼女にとって意味のない愛称を。
 頬を撫でる。首に腕を回す。抱きついて、彼女は告げる。
「絶対に、名前を呼んでくれないのね」
 緑の瞳を見つめる。普段と何も変わらない彼の瞳を見て、彼女は兄は兄でしかないと悟る。

 彼女は、彼から酸素を奪った。奪って呑み込み、華を散らす。そうして、棘は男を刺した。
 美貌を讃えられた王女。彼女の華は咲き、棘は兄を刺した。名前に含まれた華と同じ様に、彼女は油断していた男に棘を刺したのだ。




 ゆっくりと、階段を上がる。城の外れの塔。使われていないはずの塔を、リオンは進む。
 昼間だというのに薄暗い廊下には埃が積もっている。そこに、確かに人が出入りした痕跡が残されていた。
(兄様と、姉様は、ここに……?)
 ここに二人がいる。そう告げたのはヴィオラだ。彼女はリオンが知らない兄と姉の話を語り、そして『城の外れの塔の中に二人はいる』と告げた。
 本来なら、信じられる話ではない。城の外れの塔は、何代か前の王が罪人を閉じ込める為に造った牢獄だ。ただの罪人ではなく、王族でありながら罪を犯した者のみが入れられる牢。それが、城の外れの塔だ。
 そんなところに、二人がいるはずがない。リオンはそう感じる。だが、その一方でこうも考える。
 ヴィオラが語ったことが全て真実だとすれば、牢に閉じ込められるのも当然だと。
 一度足を止める。埃臭い空気に咳き込み、彼は首を振る。
「いるはずがない。こんなところに、兄様たちがいるはずがない」
 あの二人が、こんなところにいてはいけない。あの、優しい二人がこんなところにいるはずがない。だってここは罪人の場所だ。あの二人は、兄と姉は罪人ではない。リオンの兄と姉だ。罪人ではなく、兄と姉なのだ。
 足跡を辿りながら歩く。螺旋階段を上りながら、上へ上へ向かう。
 石造りの塔。その最上階へ通じる扉を開け、そこで彼は金の髪を見つけた。
 床に広がった、金の髪。日の光のようなその髪は、長く保たれ、常に彼女の背を覆っていた物だ。
 だが、それが床に広がっていた。毛先が埃に塗れている。それを、信じられないと思いながら、リオンは声を掛ける。
「兄、様……?」
 緑の瞳が、リオンを見る。茶色の髪を揺らし、彼は緩く微笑んだ。
「ああ、リオンか。久しぶりだな」
 兄は、何も変わらない。いなくなる前と何一つ変わらないまま、微笑んで問う。
「どうした?」
「姉様は、寝てる、の?」
 兄に問う。兄の腕の中で目を閉じている姉は、生きているようにも死んナいるようにも見える。あまりにも美しすぎるその顔が、現実味を奪う。
「……生きている。俺も、ローズも、まだ生きている。さっさと殺してくれた方が楽だというのにな」
 さらりと告げられた言葉に、彼は目を瞠る。兄は、何と言った?
「兄様、どういう……」
「そのままだ。俺は、さっさと殺してくれた方が楽だと思う。なのに、陛下はそうしない。それが苦しい」
 兄の手が金の髪を梳く。白すぎる頬をなぞり、紺碧を隠した瞼を押さえる。
「さっさと、殺せば良いんだ。俺もローズも、罪人でしかないんだから」
 声を、掛けれない。そう思ったリオンは、不意に疑問を覚える。
「兄様、さっき、ローズって」
 ローズマリー、それが姉の名だ。その愛称は『マリー』。誰も、彼女のことを『ローズ』とは呼ばない。その名を、誰も呼ばないのだ。
 だと言うのに、兄はその名を口にした。言葉にすればたったそれだけの行為に、彼は恐怖を覚える。
「何で、姉様のことを……」
 誰も使わない愛称で呼ぶのだと、問い詰めたかった。けれど、問い詰めれない。問い詰め、そして返って来るであろう言葉に彼は恐怖する。
 怖い。だから、訊けない。
 動けない彼の前で兄が微笑む。穏やかな笑みではなく、どこか泣き出す寸前のような笑みを浮かべ、彼は告げる。
「リオンの兄は、もういない。姉も、もういないんだ。ここにいるのは、陛下の罰を待ち望む罪人だ」
 穏やかな声で、そう告げる。兄も姉もいないと言われ、リオンは塔を降りる。一度も振り返ることなく駆け降りて、中庭で立ち止まる。
 三人でお茶を飲んだ場所、置かれたままのテーブル、椅子、そういった物を見て、彼は静かに泣く。
 もう、兄も姉もいない。罪人である二人は、やがて消される。そうなれば、残るのはリオンだけだ。三人の内、一人しか残らない。この場所でお茶を飲むこともなくなる。
 もう、返って来ない。穏やかな日々も、優しい兄も、美しい姉も、誰も、何も返って来ない。全て消えた。
 その事実にリオンは泣き、やがて顔を上げた。王と同じ紺碧の瞳が見つめる先に、淡く微笑むヴィオラがいた。
 彼女に、リオンは声を掛ける。
「君は、何を目的としてここに来たんだ」
「さぁ? 甘ったれたお坊ちゃまの頬を張り飛ばしに来たのかもしれないし、聡明な王子を見に来たのかもしれない。私の目的なんて、貴方の道には関係ないでしょう?」
「確かに、ないよ。君の目的は僕に何の影響も与えない。でも、君のような人間が城にあっさり入って来れるのはおかしい」
 リオンの言葉にヴィオラは笑う。声を上げて笑い、「予想以上ね」と呟く。
「確かに、おかしいわ。だって、今この国に……いいえ、城に娼婦が来る必要なんてもないもの。ねぇ、リオン王子」
 ヴィオラの瞳がリオンを見る。静かな、何の感情も浮かんでいない瞳が彼を真っ直ぐ見つめた。
「この国、もっと豊かにして。私みたいな人たちがいる必要もないくらい、凄く綺麗な国にして」
「それは、どういう意味?」
「そのままよ、私、どうせ住むなら綺麗な国が良いの。凄く綺麗な、平和な国。そういう国にして。国だけじゃない、世界を、そうして」
 告げて、ヴィオラは去った。緩やかな風が吹き、彼女の姿が消える。まるで魔法だ、そう呟いてリオンは塔を見上げた。
 姉が道を外した理由を、兄が何を考えているのか、リオンは知らない。きっと、知る為の時間すらない。罪人として扱われる二人は、すぐにここから消えてしまう。
 そうなれば、リオンは二人の辿った道を永遠に知れなくなる。その前に、二人の道の一端に触れ、彼は空を見上げる。
 青すぎる空。その空のような、曇ったところのない国を造りたいと、唐突に感じた。



 城から三人の人間が消えた。
 王子と王女が消え、その一年後に王が急死し、まだ若い王子は若すぎる王として即位した。
 彼が造った国は、永くその場にあり続けた。だが、若すぎる王を歴史は語らない。彼はただ、三十八代目の王として記された。
 彼の歴史を語ったのは、ヴィオラと名乗った女のみ。その女の正体も、歴史には残らない。


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