夜明けのお茶



 夜明けの気配を含んだ部屋に広がった華のような香りを、きっとわたしは忘れない。
 

 祖父の代にはあちこちで聞いたという文明開化の声も、わたしたちが物心ついたころにはほとんど聞くことがなくなって、その時に初めてこの国に入ってきた洋装や洋食もあることが当然となっていた。当時は少なかったという洋風の建物も僅かとはいえ増えて、祖父が仕えていた先々代当主も洋館の建築を命じた。
 そして、完成した館を社交の場として活用していた先々代の背を見ていた先代当主は、自身が西洋風の生活に傾倒していたこともあり、やがて社交の場であった洋館を私邸として生活するようになった。かつては変わり者として噂された先代が西洋風に心惹かれたのだから、息子である当代が異国で出会った方を娶られたのも、血筋かもしれないと噂になったことがあるらしい。
先代が私邸として使い始めた館の廊下を歩きながら、まるで子守唄のように繰り返し聞かされた話を思い出して、わたしは使用人室に戻る。主人たちの眠りを妨げるわけにはいかないという理由で灯りの少ない廊下を抜けて、扉を開けた薄暗い部屋で小さく息を詰めた。部屋の中に佇む、いるはずのない方の姿。
「どうしてこちらにいらっしゃるんですか?」
「眠れなくてね、寝酒でも貰おうかと思ったんだけど」
 カーテンが引かれた部屋の中で、ゆるりと微笑んだ顔がはっきりと見える。いつもと同じ角度で弧を描く唇の形までもが昼間と同じように分かってしまうのは、わたしがこの方の顔を長い間見つめてきたからかもしれない。余計なところに動きかけた思考を戻して、そっと口を開く。
「寝酒なんて、この部屋にはございませんよ。厨房に伝えて頂いてきましょうか?」
「そこまでしなくていいよ」
  薄暗い部屋の中だというのに首を横に振る姿は鮮明に感じられ、自分自身に呆れすら感じてしまう。
「それより、千秋《ちあき》」
「はい、幸人《ゆきひと》さま」
 使用人の中で、幸人さまのことを『幸人さま』と呼ぶのは、わたしを含めて数人しかいない。他の使用人たちは、若旦那さま、と決してお名前を口にしない。いまでも幸人さまと呼んでしまうのは、全員が幸人さまの幼少期を知ってるものたちだ。いまのような日常を想像していなかった時の記憶を懐かしいと感じたわたしの隣に、幸人さまは手をつく。
「どうしてお前は僕を呼ぶ時に敬称をつけるようになったんだ?」
 思ってもいなかったことを問われて、わたしは瞬く。すぐ近くにある幸人さまの顔は、日中と違って影が深い。
「昔みたいに、『にいさま』でも僕は怒らないよ?」
 さらりと、幸人さまの髪が揺れた。壁につかれている腕に囲われて動けなくなったわたしを笑うように頬を撫でる手に、肩が跳ねた。夜の空気に晒された、かさつきのない指は冷たい。何度も瞬きを繰り返しているうちに笑いを零した幸人さまの声は、普段よりも明るい。
「冗談だよ。どうせ、父さまたちが言いだしたんだろう?」
「旦那さまは、なにも……。わたしが、改めただけです」
 視線を逸らしたくても、実行してしまえば逸らさないように直される予感がして、幸人さまをまっすぐ見つめる。不敬だと怒る方もいるかもしれないけれど、この館には怒る方なんていない。それに甘えている自覚はある。
「そう? なら、僕が元に戻せって言ったら戻す?」
「子どもではないから、叱られますよ……」
 頬に触れたままの指の冷たさは、馴染みがない。わたしの髪を撫でることが多かった子ども時代、幸人さまの手は温かかった。千秋の手も温かいね、と穏やかに笑っていた顔は、まるで昨日のことのように思い出せる。
 あの時の優しい声も、温かい手の感触も、まだまだ消えない。子どものまま、なにも変わらないような気がしていたのに、実際にはわたしも幸人さまも成長して、立つ場所が変わった。
 坊っちゃま、と呼ばれていた幸人さまは若さまと呼ばれるようになって、旦那さまの執事を父に持つわたしも、同じように幸人さまに仕えるようになって、父や、その何代も前の先祖と同じ道を歩き始めた。
「僕からすれば、千秋はまだ子どものような気がするんだけどね。お前の従者だ、なんて言われても、未だに違和感があるよ」
 幸人さまの指が、頬から離れて首筋を撫でる。それは、とわたしの喉から絞り出した声は震えていた。
「わたしでは、経験不足ということですか?」
 そうだよ、と穏やかな声で肯定されてしまえば立ち直れなくなる、そんな予感があった。幸人さまのことを兄のように慕っていた子ども時代から、わたしはこの方に否定されるのが一番苦手だ。
 けれど同時に、わたしの経験不足は誰よりもわたし自身が痛感しているのだから、肯定されてしまってもおかしくないと囁く声もある。父や母に比べるとどうしても経験の浅さが滲み出る瞬間がある。自覚して教えを乞うて、すぐに結果が出ない自身に苛立ったこともある。
 幸人さまの指が、もう一度頬に上がる。「千秋」と穏やかな声が空気を揺らした。
「言っておくけど、そういう意味じゃないよ。いま、館の使用人で一番若いのはお前だ。必然的に、経験不足が目立つ瞬間があるって僕も父も理解しているよ。それが一過性のもので、すぐに消えることも」
 わたしの頬に落ちた髪を幸人さまの指がかき揚げ、耳にかける。子どもの頃とは違う指の触れ方に跳ねた心臓を宥めるために、急いで口を開いた。
「そう思って頂けるのは、嬉しいです……。それより、幸人さま、お休みにならないんですか?」
「お前が寝酒を用意してくれたら休むよ」
「厨房に伝えてきましょうか?」
 少し前にも口にした言葉を繰り返すと、幸人さまは苦く笑う。そこまでしなくていいよ、と右手を振って壁から離れ、幸人さまは部屋を出る。
「お茶を淹れてくれ。この前のお茶、お前が淹れたのが一番良かった」
 この前の、という言葉に記憶を辿り、出てきたのはふわりと開く華のような匂い。幸人さまが飲みたいと仰ったのがどのお茶なのか理解してすぐに、わたしは急いで部屋を出た。



 旦那さまが仕事先から持ち帰ってきてくださった紅いお茶は、この国のものとは少し違う。茶器を準備しながら、わたしは旦那さまのお言葉を反芻する。
(美味しく淹れるためにはきちんと茶葉を計って、熱したお湯を注いで、きちんと蒸らす。慌てずに、待つことすら楽しんで)
 きちんと計った茶葉を茶器に淹れて、わたしは息を吐いた。部屋まで持ってきてくれ、と囁いて自室に戻った幸人さまは、もしかしたら眠気に負けて休んでいらっしゃるかもしれない。
 そうなれば、いま用意しているお茶は無駄になる可能性だってある。そうならないほうがいいのか、無駄になって欲しいのか分からない気持ちのまま、音を立てて湧いた湯を見つめる。耳の奥によみがえるのは、旦那さまの低く落ち着いた声。
『お茶を淹れる時には、そのとき飲む相手のことを考えるんだ。誰のために淹れるのか、飲んだ相手になにを思って欲しいのか、そういったことを感じ取って、この茶葉は化ける』
 誰にも飲まれることなく無駄になってしまうお茶なんて、出来れば見たくない。このお茶も、きちんとあの方の癒しになって欲しい。
(一番良かったって言っていただけたのは、初めてだから……)
 だから、あの時と同じように『一番良かった』と思ってもらえるような、美味しいと感じられるお茶を淹れたい。
 意を決してあらかじめ温めておいた茶器に湯を注ぐと、熱い湯で開いた茶葉は厨房に華やかな匂いを広げた。春の庭に広がる、甘い華のような香り。わたしの記憶の中で淡く輝く子ども時代を連想させるその匂いに、ほっと息を吐く。少なくとも、このお茶ならば無駄になることは無い。
 幸人さまの茶器を持って、あの方の私室に向かう。何度も歩いた廊下は、灯りの少ない時間であっても昼間と同じように動くことが出来る。難なく辿り着いた部屋の扉を叩き、了承を得てから入った必要最低限の灯りしかない部屋で、幸人さまはわたしを見つめて笑った。
「転ばなかったか?」
「ご心配なく、平気です」
 持ってきた茶器を置いて、そっと時計を見る。旦那さまが仰っていた蒸らし時間が過ぎたことを確認して、カップにお茶を注ぐ。
 途端に広がる華のような香りと、暖かい湯気。たったひとりのために淹れたお茶は贅沢な空気を放つ。白い陶器の器の中のお茶は、微かな灯りの下でも分かる綺麗な琥珀色。
「どうぞ」
「寝酒代わりにするには手間がかかったな」
 淡い笑みを浮かべた幸人さまの指がカップを持ち上げ、ふわりと動くお茶の香りは私室の色を塗り替える。
 薄暗い部屋ではなく、華が咲いた庭へ。春の風が吹く屋外へ。わたしが憧れとともに見つめた景色を室内に広げるお茶の香りは甘い。
 未だに見慣れない角度から見る幸人さまの手は、気兼ねなく触れていた幼い頃と違って大きい。男のひとの、手になっている。同じように、わたしも子どもの頃と違う部分があるのかもしれない。あればいいと、期待してしまう。
 目の前の方を主として仰ぐと考えたことすらなかった頃のままだと思われているなら、それは少し寂しい。
「幸人さま、お砂糖はご入り用ですか?」
「二杯目に入れてみるかな。父さまは、確か砂糖を入れたほうがいいと言っていなかったか?」
「お砂糖があると味が引き立つから入れるべきだ、と仰ってましたよ」
 底の白さが顔を出したカップに、二杯目のお茶を注ぐ。起きている人間のほうが少ない時間だったはずなのに、気付けば窓にかけられた布越しにぼんやりと朝の光が差し込んでいる。空気を揺らす、小さな鳥の鳴き声。明るい音は、薄暗い部屋の色を入れ替える。
 華やかな香りは室内を満たして、まだまだ消えない。この香りが続く間は、わたしも下がれと命令されない。ささやかな感情の動きを自覚して、幸人さまに微笑みかけた。
「幸人さま、どうぞ」

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