追憶-春夏秋冬-



 彼女からはいつも花の匂いがしていた。その時々によって僅かに変わる花の香り。それを、彼は愛していた。
 そして彼女は、自身が花の匂いを纏っていることを知って笑うのだ。
「私が花の匂いをさせてるわけじゃないの、庭の花から移るのよ」
 そう笑う彼女は花そのもので、彼女の笑顔こそが咲き誇る華だと彼は感じた。だからきっと、咲と言う字をわらうと読むのだ。
 甘やかな香りと、穏やかな声。それを、彼は愛していた。春の日の思い出。


 青い空は、彼女の瞳の色だ。澄んだ春の空。夏の季節に生まれながら、彼女の瞳は春を映す。
「夏生まれなのに春の空だよね、亜梨紗の目」
「莉世だって冬生まれなのに夏の空よ。まぁ、契は生まれたのも目も冬だけど」
「そうだっけ? 契に興味ないから見てないかも」
 彼の言葉に彼女は苦笑する。普段と違い一つに纏められた髪が揺れる。
「それでも良いわよ、契と奏が仲良くするって無理だから」
 彼女の声が告げる。だってあんたたちは、そう続ける。
「お互いに大事なものにしか興味がない。それ以外の全てはどうでも良い。だから、絶対に仲良くなれないわ。永遠に」
 彼女は時折、こういう風に語る。予言のように、宣告のように告げる。けれどそれに神聖さはない。あるのは、魔女に近い雰囲気。結城亜梨紗は魔女に近い。
 そう思うのは彼だけではないだろう。けれど、彼以外に彼女に対して『魔女に近い』と告げる者はいない。
 だから。
「亜梨紗、魔女に近いよ」
 彼ははっきりと彼女に言う。清廉さなど微塵もない、魔女のような彼女に。
「そうでしょうね。私は姫なんて可愛いものじゃない、多分魔女が一番似合う」
 蒼い瞳が形を変える。そうして微笑んだ彼女は、彼女の言葉通り魔女で、決して姫ではなかった。夏の日の記憶。


 白い指が写真をなぞっていた。桜色を透かす爪が桜の花弁を押さえる。桜の花を押さえながら、彼女が呟いた。
「私、奏のこと嫌いになりそう」
「何で?」
「あなたが霧生の息子だから」
 春の瞳が奏を見上げた。彼女にしては珍しく泣き出しそうな色の瞳に、彼は首を傾げる。
「僕が霧生の息子だってことは前から知ってたんじゃないの?」
「ええ、知ってた。でも、嫌いになりそう」
「何で?」
 問うた彼に、彼女の声がぶつけられる。
「私が結城であなたが霧生だから。元々混ざってるものをこれ以上混ぜてどうするの? 結城と霧生を混ぜて、どうする気なのよ?」
 穏やかな声。それがまるで悲鳴のようだ、そう感じて奏は小さく溜息を吐く。
「僕の意志じゃないよ」
「じゃあ誰? 誰が一番最初に混ぜたの?」
「曾祖母様。でも、混ぜたくて混ぜたってわけじゃないと思うよ? 結果がそうなっただけで」
「これ以上、混ぜてどうするのよ。結城じゃない家は、結城の血をどうする気なの。あのこを、あのこたちをどうするの」
 彼女の声は、悲鳴だ。悲鳴になる寸前の声でありながら、奏の耳には悲鳴にしか聞こえない。 
 あのこと言う言葉と、あのこたちと言う言葉に彼女が込めた意味を、奏は知っている。けれど、本音を言えば彼女がどう思っていようが奏には関係がない。奏には、彼女が大事に思っている二人を大切だと思う気持ちはない。
 だから、奏は溜息を吐く。
「知らないよ、そんなこと」
 乾いた音が響く。僅かな痛みと熱さが走り、生温い液体が頬を伝う。
 鉄のにおいがする。頬を切った、それを認識して奏はもう一度溜息を吐いた。
「亜梨紗、僕を叩いても意味なんてないよ」
「知ってるわよ、奏を叩いて解決する問題じゃないって。でも、幾らなんでもその言い方はないでしょ。奏だって、莉世と契を知ってる。あのこたちがどうなっても良いって言う気なの?」
「まぁ、あの二人に興味ないからね。亜梨紗と違って、僕は結城がどうなろうが知らないし、莉世が死んでも気にしない。莉世の姉である亜梨紗と違って、あのこに価値なんて見出してないよ」
 きっと、もう一度叩かれる。
 それを予測し、心のどこかでそうなれば良いと願っていた奏はいつまで待っても痛みが訪れないことに首を傾げた。
「亜梨紗?」
 緩く波打った長い髪が彼女の表情を隠す。僅かに覗く肌は白く、血の気が薄い。
「亜梨紗?」
 もう一度声を掛ける。返事などないかもしれない、そう思った奏に、小さな呟きが向けられる。
「霧生奏は、最悪よ」
 覇気のない声。泣き出しそうに揺れた声が再び告げる。
「本当、最悪。何で、あんたの世界の中心は、あんたの核は私なのよ……」
「さぁ。多分、偶然なんじゃないの? それか、運命」
 奏の世界の中心は亜梨紗、奏の核も亜梨紗、それを奏自身否定しない。同じ様に、結城亜梨紗という精神を形成する中心に奏がいるのを知っているのだ。
「だから、僕は莉世がどうなろうがどうでも良いよ。それだけは一生変わらない」
 春の瞳が奏を見上げた。彼女には似合わない、透明な雫が浮かんだ瞳。それを見下ろしながら、奏はもう一度告げる。
「莉世なんてどうでも良い。亜梨紗の方が大事だよ」
 血の気をなくした白すぎる頬を伝う涙を拭い取り、微笑んだ。秋の日の追想。 


 ひらひらと舞う雪を見上げる。寒い、そう呟いた彼女を見下ろし、奏は首を傾げる。
「そう?」
「寒いのよ、奏と違って私は夏生まれだから」
 屁理屈のような言葉に奏は苦笑する。
「僕だって冬じゃなくて秋生まれだよ」
「それでも、私よりは冬に近いじゃない。だから寒さに強いのよ」
 彼女は自身の手を擦る。元々白い指は冷たい風に晒され、赤くなっている。その手を取って、彼は呟いた。
「まぁ、そもそも亜梨紗は割と寒がりだしね。手、温めようか?」
「良い。このままでも結構温かいから」
 長い茶の髪に六花が舞い降りる。髪を彩るように散っている雪を、空いている方の手で払い落とす。
 雪の白さは、彼女には似合わない。この白さが似合うのは彼女ではない。けれどそれが誰なのか、奏には分からない。
「そういえば、奏は知ってる?」
「なにを?」
 問うと、あぁ、知らないんだと彼女が呟いた。庭に積もっていく白を見ながら、亜梨紗は続きを口にする。
「莉世が、ちっちゃい黒いの連れてるでしょ? 何なのか良く分からない不思議生物。契が獣って呼んでるあれ。あれの名前、聞いた?」
「聞いたことないよ。まぁ、見たことはあるけど」
「そう、知らないの。私、偶然聞いちゃったんだけど、あのこ、あれの名前契にも言ってないの。珍しいと思わない?」
 蒼い瞳が奏を見上げた。その中に、楽しげな色がある。
「まぁ、珍しいんじゃないの。どうでも良いけど」
「ほんと、莉世に興味ないのね。まぁ、興味ないんならあれの名前は教えない。面白いんだけどね」
 彼女は小さく笑う。寒い、と言っていた時と打って変わって、楽しそうだ。
 きっと彼女は、本当に妹が好きなんだろうなと考える。だって、彼女は良く妹の面倒を見る。その所為で奏が放置されるのは良くある光景になってしまったぐらいだ。
 溜息を吐いて、庭から二階の窓を見上げる。一室の、カーテンが開けられた窓。そこから庭を眺めているであろう少女と少年の顔を思い浮かべる。彼女の面影を抱いた少女に向かって、奏は声に出さないまま呟く。
 ほんと、君は僕から亜梨紗を奪っていくよね。契だけじゃ足りない?
 声に出さないのは、分かっているからだ。これがただの嫉妬だと。二歳下の、まだ幼い少女に対する嫉妬だと分かってしまっているから、奏は声に出さない。
 情けないよ、ほんと。
 そう思って溜息を吐く。亜梨紗の手を握ったまま、空を見ながら溜息を吐く。
「ね、奏に頼んでも良い?」
「なにを?」
「莉世のこと」
 しん、と音がした。六花が全ての音を奪っている。無音の世界の中で、亜梨紗の穏やかな声だけが良く響いた。
「莉世に何かあったら助けてあげて。私は助けてあげられないかもしれないから」 
 穏やかな声が、音を、言葉を紡ぐ。彼女の言葉の意味を、奏は咄嗟に理解出来ない。
 彼女は知っているはずだ、奏が莉世に対して何も思っていないことを。なのに、わざわざ頼む。その行動が、奏には理解出来ない。
 長い髪の上に散った六花が落ちる。緩く頭を振り、亜梨紗はもう一度告げる。
「お願い、あのこのこと、助けてあげて」
 懇願のような声。真意の読めない声。分からないまま頷いた、冬の日の想い出。
 

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