海の底にて




「結局、あのひとたちは私の血が欲しかっただけなのよ。一つ間違えば吸血鬼を全て消すことすらが可能になる、そんな血が欲しかっただけ」
 彼女の言葉に返事はない。目の前にいる男は何も言わず、彼女はそれを当然として受け入れる。
「だから、誰でも良かったのよ。私と同じ様な血を持つ誰かなら、人格なんて関係なかった。今私を追ってるのだって、私がその血を持っているから。ただ、同胞を消す為に私を欲してるの」
 消してどうするのだ、と問うたことがある。彼らの返事は彼女に理解出来ない物で、今となってはただ『理解出来ない目的だった』という事実のみが記憶に残っている。
「だから、私はあのひとたちが嫌い。私は誰も殺したくないし、無駄に血を流す趣味もないの」
 彼女の呟きに男は応えない。彼女の言葉を目を瞑って聞き、頭の中で整理している。その姿を視界の端に収めながら、彼女はベッドに倒れこむ。
「だから、逃げなきゃ駄目ってことも嫌なの。私は何もしてない、でも、勝てる自信がないから手の届かないところまで逃げるしかなくて…………。迷惑を掛けたくないけど、ここから離れるのも嫌なの」
「なら、止める? ここに留まったままでも問題はない。アイツらが諦めれば、全部終わる」
 その言葉に彼女は淡く微笑む。その微笑みを見ていた男は部屋の中に黒い獣がいることに気付くと小さく笑う。
「どうした? 飯か?」
 その言葉を獣は無視し、ベッドに飛び乗ると主人である彼女の腹に頭をこすり付けた。獣なりの餌をねだる行為であり、全くダメージがないように加減されているとはいえ、そのくすぐったさに彼女は小さく笑う。
「分かった、分かったから。ちょっと退いて。このままじゃ起きれないでしょ」
 彼女の言葉に従い、獣は彼女の隣に座った。その頭を撫で、彼女は自身の指先を切る。
 その光景を男は見ない。いつも、顔を背けるか部屋を出て行く。今日は再び目を閉じることでこの光景を見ないようにしていた。
 彼女は獣の顔を見るのを止め、目を瞑っている男を見る。そのまま獣が離れ、部屋を出て行くまで見ていると蒼い瞳が彼女を正面から見た。
「何?」
「ううん、何となく。絶対に見ないなって思っただけ」
「見てたら噛まれそうだからな。アイツは?」
「この近く見てくるって。ねぇ、私がここから離れたくないって言えば、本当にそうせずに済むの?」
 彼女の問いに男は無言のまま頷くと窓を見た。そこから見える光景はいつも通りの光景であり、数日前までの彼女の日常だ。
「そう願うなら、それを現実にする。その為の力はある」
 男の言う『力』は彼の横に立て掛けられている日本刀だ。それを見て、彼女は眉を曇らせた。
 小さく溜息を吐く。たった数日で、彼女を取り巻く環境は変化した。同じ様に、男も覚悟を決めていた。それが日本刀という分かりやすい形で示されたことで、彼女は既に元に戻ることが不可能だと直感した。
「本当に、変わっちゃったんだね」
 彼女の呟きに男は応えない。その沈黙が彼なりの答えだと知っている彼女は目を閉じる。
 瞼の裏には海の底の光景が浮かんでいた。


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