kiss me -after side-




 莉世自身の首筋に触れる指の温度に、慣れているはずなのに心臓が跳ねた。普段よりもうるさい心臓の音は、本来誰にも聞こえないはずなのにこれだけ騒がしいのだから契に聞こえてしまうのではないかと不安になってしまう、まるで走るような音だ。
「もしかして、怖い?」
 そっと契に訊ねられて、莉世は首を振った。首筋に触れていたはずの指はいつの間にか頬に触れている。気遣うように頬を撫でる指をくすぐったく感じて、莉世は口を開く。
「怖くないよ……。どっちかっていうと、契の指くすぐったい」
「じゃあ、怖いんじゃなくて緊張してる?」
 頬から離れた指が莉世の右手首を持ち上げた。向かい合ったままの、すぐ近くにある冬の空の瞳に見慣れない色が浮かんでいる。まるで知らないひとのような熱。
 けれどそもそも、契は人間ではないのだ。だからいま、手首に熱が寄せられている。苦く笑う契の顔に、莉世は吐き出すつもりだった呼気を吸い込んだ。
「怖いんなら、止める?」
 いまなら止めれるよ、と囁く声は、いつもよりも優しい。ずっと昔、幼い頃に聞いた甘やかすような声に近いと感じて、もう一度首を振った。
「怖くないよ、平気」
 返した声はいつも通りのはずだと言い聞かせながら、莉世は契を見つめた。いままで一度も吸血鬼らしい一面を見せなかった、誰よりも安心出来る相手を、じっと見つめる。


 平気だと口にする莉世の声はいつも通りだ。けれど、彼女の瞳がほんの僅か揺れたことを見逃せずに契の口中には苦い味が広がる。
 言い出したのは、契自身だ。『足りていない』ように見えるのならばと問うて、『足りていない』という事実を口にして、そして彼女の血を奪おうとする。あまりにも身勝手な、吸血鬼としての一面。
 白い腕に唇を寄せると、平気だと言い張った莉世の肩が跳ねた。そういえば莉世はいままで誰にも『咬まれた』ことがないんだった、と思い出して浮かんだ感情を押し殺す。彼女が吸血鬼の『餌』にされることが許せなくて、そうならないように全力を尽くしてきたはずなのに、結局は自分自身が彼女の肌に牙を埋める矛盾。
 ぶつりと、白い肌に牙を立てる。小さな穴から流れ出た温かく甘い血液を嚥下して、一度牙を抜く。怖くないよ、と言い張った莉世の顔色をそっと窺って、契は溜め息を堪えた。
 血の気の引いた、青い顔。出来ることなら見たくないその顔に苦い味を覚えて、彼女の腕を放してから頼りない細い身体を抱きかかえる。彼女の細い喉から零れる声は、小さい。
「契……?」
「莉世が怖いんだったら、いいよ。さっきのでも、十分だから」
 塞がらない腕の傷からにじみ出る血液が視界の端にちらつく。莉世の血はどうしようもない毒のような血だ。一度口にしてしまえば、いままで血を摂らずに耐えていた十数年が無駄になる。誰よりもそのことを理解していながらも、契が牙を立てた事実は変わらない。
 十分だと、あの量できちんと飢えを満たすことが出来たと自分自身に言い聞かせながら、彼女の髪を梳く。ばきりと、莉世の聴覚では捉えることが出来ないであろう何かが割れた音が契の耳に届いて、つけていたはずの部屋の明かりが唐突に消えた。暗さに怯えたのか、いつもよりも強く抱きついてきた莉世の背中を撫でると、彼女の声が空気を動かす。
「契、十分って、嘘でしょう?」
「十分だよ?」
 莉世の髪を梳きながら、淡く笑う。十分だと口にして、彼女を抱き締めたまま一度目を閉じる。これ以上は堪えるべきだと告げる理性と、血を求めてしまう吸血鬼としての本能。
 目を閉じたことで暗くなった視界の中、零れた血の匂いは理性を鈍らせる。甘い甘い、毒。考えることを止めて、莉世の首筋に牙を突き立て、溢れ出る血液を飲み込むことが出来るのならば、きっとそれは幸せだろう。実行に移そうとは思えない、あまりにも身勝手な未来。
 腕の中の莉世の身体は、温かい。彼女が人間として生きているという事実を示す身体だ。莉世の背中に回していた指先で彼女の首筋を撫でると、柔らかい皮膚の下で脈打つ血管が存在を主張している。
(だめだ……)
 彼女の身体を抱き締めたまま、目を開ける。部屋の中に漂う莉世の血の匂いは、吸血鬼の本能を揺さぶる香りだ。十数年、血を摂ることを避けていた身体は僅かな量の血液では飢えを満たすことが出来ずに更に血を求める。それを意志だけで押さえ込むのには分が悪い。
 契の肩に、莉世の指先が触れた。すぐ近くで香る右手首から零れた血の匂いは甘い猛毒だ。それを知らないであろう彼女が、右手で契の頬に触れる。
「でも、さっきから契、辛そうだよ」
「辛くないよ。それ、莉世の気のせい」
 微笑んで誤魔化すと、莉世の眉が寄る。契、と短く呼ばれる名前は普段よりも鋭さが含まれていた。
「私、嘘なんて聞きたくないよ。足りないって、言ってたでしょう?」
 だから、遠慮なんてしないでよ。と彼女の手が首の後ろに回る。乾ききっていない傷口から滲む血の匂いと、抱きついてきた身体の仄かな熱。ぐらりぐらりと理性を揺さぶる香りと熱に負けて、白い肌に牙を突き立る。びくりと肩が跳ねた莉世を抱き締めて、肌に出来た二つの穴から溢れ出る血液を飲み下す。
 小さく空気を揺らした吐息に罪悪感を覚えたのも、ほんの数秒だけだった。


  冷えないように、と考えて湯で濡らしたタオルを手に契が部屋に戻ると、扉を閉めるまでは起きていたはずの莉世の瞼が閉じられていた。ぽたりと、白いシーツに落ちた血は赤い。人間であるが故にすぐに塞がらない傷口にそっと濡らしたタオルを当てて、首筋を汚していた血液を拭い取ってから彼女の髪を撫でて額に口付ける。伝わってきた体温は、普段よりも少し低いような気がした。
 莉世の身体から抜き出した血液がどれだけの量だったのかは、正確には分からない。けれど、十数年の飢えを満たして、彼女を疲弊させるには十分な量だったはずだ。身体を起こして、ベッドの上に放られた右手首の傷口周辺もタオルで拭ってから、一度溜め息を吐いた。
 出来ることなら、彼女の血を摂るのはもう数年経ってからの方がよかった。限界が訪れて、どうすることもできないと理解して、最後の手段として、牙を突き立てる。そんな未来の方が、彼女の存在を削らなくて済む。十数年前から、ずっとずっとそう考えていたのだ。
 けれど、『足りていなかった』という事実を知ってしまった莉世は、きっとこれから先何度も何度も血を奪われることを許してしまう。そして、契は飢えを満たすために延々と莉世の肌に牙を突き立ててしまう。避けた方が互いのためだと思っていた、どうしようもない未来がこれからの日常だ。
 だから、何の意味もないことを理解しつつ莉世の首筋にあるふたつの傷口に唇を寄せた。少しでも早く、牙の痕が消えるように。

 その日確かに、『彼女』が眠る海の底は揺れた。

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