kiss me



 気が付いたのは、偶然だった。
 ある日突然、その疑問が落ちてきたのだ。その理由など分からない。けれど、唐突に疑問を抱いて、そして莉世は彼に問うた。
「吸血鬼って、絶対にひとの血がいるってわけじゃないの?」
 問うと、ベッドの端に腰掛けていた彼は目を瞬かせた。予想していない質問を受けたような顔を見て、莉世は首を傾げる。
「だって、契も奏も弥生も葉月さんも睦月さんも、みんなしないでしょ?」
 少なくとも、わたしが見てるとことか、いるとこだとないよ。そう言って、手に持っていた教科書とノートを机に置く。リビングで勉強していて、疑問が浮かんだのだ。莉世が考えても答えの出ないそれは誰かに聞くまで消えない。そんな状況で勉強は出来ず、また明日と決めて部屋に戻った。
 そして、部屋にいた契に疑問を問うた。吸血鬼である彼ならば、知っているのではないかと期待して。
「ひとの血、か」
 ぽつりと呟き、契は莉世を見る。とりあえず座ったら? という言葉に従って、彼から少し離れた所に座ると契が苦笑する。
「莉世、もうちょっとこっち」
「声、聞こえるよ?」
 莉世と契の間は、三十センチほどだ。声が届かないということはない。だから動かないと決めた彼女の腰に腕が回され、抵抗する間もなく引き寄せられる。
「話しにくいんだよ、あそこだと」
「そう?」
「そう」
 彼の手が髪を梳いていく。それに逆らわずに、契の肩に手を乗せる。ほんとに、必要なの? と問うと、彼の手が止まった。
 頭に触れたままの契の手はさほど冷たくない。そういえばそろそろ春が来る。唐突に思い出してもう一度問おうとした莉世よりも先に、契が口を開いた。
「必ずしもひとの血がいるってわけじゃないよ、俺たちは」
 意外な言葉に瞬きをして、続けられる言葉を待つ。必ずしも、ひとの血を必要としない。となれば、何かで代用しているはずだ。
 そう考えながら契を見ていると、彼が苦笑した。莉世が考えてること、正解。そう呟いて、彼は莉世の髪を梳く。
「ひとの血を飲まなくても生きてくことは出来るけど、全く血を飲まずに生きてくことは出来ない。それで、ひとではないものの血を飲むようになった。分かる?」
「……ひとじゃなくて、吸血鬼にしたの?」
「そういうこと。莉世が俺たちが誰かの血を吸ってるところを見たことがないのは、その辺の関係」
 下手したらトラウマだしね、と付け足して、契は小さく笑う。けれど、彼の言葉をそのまま信じるならば一つの疑問が浮かぶ。
「でも、ひとじゃなくて吸血鬼の血を吸うようになったら、みんな血が足りないんじゃないの?」
「そういうことにはならないよ。俺たちは生きる時間が長いから、空腹になるまでの間も長いし。莉世だって、朝ご飯食べてからお昼ご飯食べるまでの間は何も食べなくても平気だけど、あれと同じだよ。ただ、五、六時間じゃなくて何日も、何ヶ月も耐えれるだけ」
「じゃあ、契も奏も弥生も葉月さんも睦月さんも、私が知らないところで誰かの血を吸ってるの?」
 もしそうであれば、いままで莉世は何も知らずにすんでいたのだろう。吸血鬼の持つ、ある意味ではどうしようもない一面を見せないように、彼らが気を付けていた。その証拠を見つけてしまうことに、僅かな罪悪感を抱くのと、契が首を振るのは同時だった。
「葉月さんと睦月さんはともかく、弥生と奏はありえないよ。あのふたり、誰の血も必要としたくないはずだし」
 感情を封じ込めるような、低い声に莉世は首を傾げる。奏と弥生の問題なのに、契の機嫌が悪くなる。その理由が、莉世には分からない。だから。
「なんで?」
 問うと、沈黙が訪れた。
 

 霧生奏と、霧生弥生は誰の血も必要としたくない。
 そう告げると、莉世が首を傾げた。何も知らない、『人間』であるが故の行動に、ほんの数瞬苦いものを覚えて、彼女の髪を梳く。
 奏は、亜梨紗が存在し続けることを望んで。弥生は、信が生き続けることを望んでいた。
 だから、ふたりは誰の血も必要としたくないのだ。
 彼らが何を考えているのか、その正確なところは契には分からない。結城契は、霧生奏でも霧生弥生でもないのだ。けれど、分かることはある。
 彼らふたりは、もう誰も必要としたくないのだ。特に奏はそうだろう。亜梨紗以外の誰かを、という考え自体がない。亜梨紗が駄目ならば、もう誰も必要ない。そう言いきってしまえるほどの執着を、彼は抱えていた。そういう男の妹である弥生は、奏が持つ狂ったような執着はないだろう。いたはずの彼が消えた、それをどう受け止めていいのか分からずに、迷っている。それだけのはずだ。
 言ってしまうべきか否か、少し考える。全てを言えば、彼女は気付いてしまうかもしれない。言わなくても、いつか限界が訪れれば知るだろう。それを速めるだけの行動を取るべきか、取らずに話を流してしまうべきか考えて、結局後者を選択する。まだ、全てを話すには早すぎるのだ。
 本来の『結城莉世』。亜梨紗や信が残そうとした『彼女』。契にとって世界の中心、世界の軸。そういう存在であった『彼女』。『彼女』が起きる時間は、もう少し先のはずだ。
 溜息を押し殺して、莉世の髪を梳く。時間が流れている証拠でもあるそれに指を絡めたまま、「あのふたり、もう誰もいらないんだよ」と囁くと彼女の首が傾けられる。
「昔は、誰かいたの?」
「いたよ」
 答えることで思い出す。亜梨紗はともかく、信が何を考えていたのか、契は知らない。もしかしたら、彼は弥生に何も言わないままここを去ったのかもしれない。そうだとすれば、それは弥生にとっての不幸だろう。奏のように、亜梨紗から何も聞いていないのならば。
 莉世の額が肩に当たる。そっか、と呟いた彼女は目を伏せて、そして言う。
「いないんだ」
 奏と弥生が喪った相手が誰であるか。それを口にしそうになる。けれど、言ってはいけないのだ。限界が来るまで莉世に話さない。そう決めたのは契だ。契だけではない。霧生家の全員もそう決めている。契が言わないことを選択したから、彼らも全てを黙っている。
『結局君は、この子をどうするつもり? 結城からも東宮からも隠すなら、この子の名前も変えて、僕たちと一切関係ないところに預けて、君が関わらないようにするのが一番いいんじゃないの?』
 あの日、奏はそう言った。亜梨紗を喪った原因は莉世にある。そう考えている彼は、莉世の顔など見たくなかったのだろう。そして、それと同時に亜梨紗が『彼女』を生かそうとしていたことも分かっていた。だから、隠す為に契の手が届かないところに行かせればいいと告げた。
 契が近くにいれば、やがて莉世が『結城莉世』であることに気付かれるかもしれない。名前が同じであれば、結城の末娘だと気付く者もいる。だから、霧生に留まるなら名前を変えるほうがいいと弥生や睦月も言った。けれど、契はその全てに首を振った。
 莉世は霧生で、結城莉世という人間として生かすと押し通した。
 人間として過ごすだけで、『彼女』の存在は薄れていく。名前すら変えてしまえば、『彼女』の存在全てが失われてしまうのではないかと思ってしまったのだ。だから、莉世は『彼女』の名前で霧生家にいる。
 それに、元々『彼女』の名前は表に出ることがなかった。だから気付かれにくいはずだという、確証の薄い希望を持っていた。『彼女』を消したくないから、たとえ『彼女』が眠り続ける時間を削ってしまうことになっても、莉世は『莉世』のまま、契の手が届く、ぎりぎりのラインに置いた。
 限界が来るまで、『彼女』のことは一切口に出さない。そう決めて、莉世の周囲に気を配っていた。彼女が疑問に思うことがないように注意しながら、何年も。
 奏が抱いている、狂ったような執着。それに酷く似た、契が抱いたままの莉世に対する執着。世界の中心で、軸。『彼女』でなければだめだと思わせる唯一の存在。喪ってしまえば全てを失くしたと思わせる、絶対の。
 肩に当たっている額はさほど冷たくない。人間の、健康的な温かさがある。まだ、限界は遠い。それを実感できる温度に安堵して、柔らかい髪から指を抜く。その僅かな動きで、莉世が顔を上げる。訊き難いことに気付いてしまった、不安そうな顔。
「莉世?」
 名前を呼んで、もう一度髪を梳く。肩の下の、セミロングの髪。その髪に差し込んだままの指を止めて、「どうかした?」と問う。
「ちょっと、気になったんだけど…………。変な質問だから、答えなくてもいいんだけど」
「別にいいよ、言って」
 促すと、莉世は視線を逸らした。促されても、訊いていいのかと迷う顔。何が気になったのか分からないと首を捻ると、小さな声が響いた。
「契は、血、足りてるの?」
 莉世が問うとは思わなかった言葉に一瞬呼吸を止める。その反応に、莉世は慌てる。
「気になったんだけど、変な質問だし、答えたくないなら答えなくていいの、忘れて」
「別に、変な質問じゃないと思うよ。ある意味、当然の疑問だし」
 わたわたと慌てる莉世を抱き締める。莉世が抱いた疑問に素直に答えるべきじゃなかった、と僅かな後悔を覚えながら、考える。
 質問に素直に答えても、嘘を吐いても、莉世は気付かないだろう。けれど、嘘を吐くとなれば罪悪感を覚える。
 どうしようかな、と悩んだのはほんの数秒だ。こうなったらいっそ賭けるか、そんなことを思って、抱き締めたままの莉世の髪から指を抜く。
「莉世はさ、俺を見て『足りてる』って思う?」
 質問に質問で返されると思っていなかったのか、莉世はきょとんとした。予想外の質問を投げたのか、と思いながら、彼女の首を撫でる。
 薄い皮膚の下で確かに脈打つ血管。その中を流れる血液の味を、契は知りすぎている。そして、その知りすぎているものを口にしなくなって、長い時間が経った。
「……『足りてる』かどうかは、分からないよ。私、見ただけで分かるほど、詳しくない」
「ここで、あっさり答えたら俺も驚いたと思うよ」
 小さく笑いながら、言う。莉世と『彼女』は、同一人物ではない。僅かな違いがあって、その違いが表面に現れた。
 こつりと、額を合わせる。賭けると決めたのだ、最後まで、賭けてみなければならない。だから。
「ほんとは、足りてないよ。だからさ、莉世」
 ちょうだい、と短く囁く。『彼女』ならどう答えるかは分かっている。けれど、莉世がどう答えるかは分からない。莉世の返答次第で変わることが多いだろう。だから、莉世の、彼女の答えに賭けてみようと思った。
 どうする、と答えを促すことはしない。ただ、莉世自身が悩んで決断することを待つ。
 肩に、手が触れる。そして、彼女は頷いた。

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